天智朝の国家整備―近江大津宮・庚午年籍で何が変わったのか
一言でいうと
白村江敗戦後の防衛強化が続く中、667年に中大兄皇子は政治の中心を近江大津宮へ移し、668年には『日本書紀』本文で天智天皇として即位したとされます。670年には全国的な戸籍である庚午年籍が作られました。対外危機への対応、政治拠点の再編、人民と氏姓の把握を通じて、大化改新以来の国家形成がさらに進んだ時代として理解します。
白村江後も東アジアの緊張は続いた
663年の白村江敗戦後、倭は水城や山城を築き、西日本の防衛を強化しました。しかし東アジア情勢がすぐに安定したわけではありません。
668年には唐・新羅連合軍によって高句麗も滅亡し、朝鮮半島の勢力関係はさらに大きく変化しました。その後は唐と新羅も対立していきます。
天智朝の政治は、このような国際的緊張の中で国内の統治体制を整える動きとして見る必要があります。
667年―近江大津宮へ遷都する
667年、中大兄皇子は飛鳥を離れ、琵琶湖西岸の大津へ政治の中心を移しました。これが近江大津宮です。
遷都の理由を一つに決めることはできません。白村江後の国防上の事情に加え、琵琶湖の水運や東国との交通、政治体制の再編など複数の要因が考えられます。
したがって「唐が怖かったから飛鳥から逃げた」とだけ説明せず、対外危機と国内政治の再編を合わせて理解します。
近江大津宮は発掘調査で確認されている
現在の大津市錦織地区では、1970年代以降の発掘調査によって大規模な柱穴や宮殿中枢部に関係する遺構が確認されました。現在は近江大津宮錦織遺跡として国史跡に指定されています。
内裏正殿・南門・回廊などに関係すると考えられる遺構が見つかっており、短期間の都であった近江大津宮の実在を考える重要な考古資料です。
資料で見る:文化遺産オンライン「近江大津宮錦織遺跡」
668年―中大兄皇子が天智天皇として即位する
斉明天皇が661年に亡くれた後、中大兄皇子はすぐには正式即位せず、皇太子の立場で政治を担いました。『日本書紀』本文では668年、近江大津宮で天智天皇として即位したとされています。
ただし『日本書紀』には667年即位とする別伝もあり、史料上の揺れがあります。学校・入試では基本的に「667年近江大津宮へ遷都、668年天智天皇即位」と整理します。
国家はなぜ人民を把握する必要があったのか
大化改新では地方・人民・土地・税を国家が把握する方向が示され、白村江後には兵士・資材・労働力を広域的に動員する必要が高まりました。
税や労役、軍事動員、土地配分を行うためには、誰がどこに住み、どの集団に属するのかを国家が継続的に把握する必要があります。
その意味で戸籍の整備は、後の律令国家につながる統治の基盤でした。
670年―庚午年籍が作られる
670年、天智天皇9年に全国的な戸籍である庚午年籍が作られました。「庚午」はその年の干支です。
庚午年籍そのものは現在残っていませんが、『日本書紀』や後世の法令・記録から、その重要性を知ることができます。
資料で見る:奈良文化財研究所 木簡庫
庚午年籍は何のための戸籍だったのか
庚午年籍によって国家は、人民の居住・所属や氏姓などを全国的に把握する基盤を強めました。単なる人口調査ではなく、人々を国家の支配制度の中へ位置づけるための基本台帳です。
さらに庚午年籍は後世、氏姓を確認する根本台帳として特別に扱われました。氏姓をめぐる争いなどで基準となるため、永久保存すべき戸籍として重視されます。
この点からも、庚午年籍は一時的な名簿ではなく、国家が人々の身分的所属を確認する重要な基準だったことが分かります。
庚午年籍は全国的な人民把握の基盤であり、後世には氏姓を確認する根本台帳として重視されました。
庚午年籍で班田収授制が完成したわけではない
670年に庚午年籍が作られたことで国家による人民把握は大きく前進しましたが、全国で完成した班田収授制がただちに運用されたと考えるのは適切ではありません。
律令制に基づいて定期的に戸籍を作り、班田などに利用する仕組みは天武・持統朝にさらに整えられます。特に690年の庚寅年籍は後の律令的戸籍制度につながる重要な戸籍です。
「近江令」はどう考えればよいのか
天智朝では近江令という法令が作られたと後世の史料に伝えられています。
しかし本文は現存せず、どのような法典だったのか、まとまった「令」として存在したのかについて研究上の議論があります。
このサイトでは「天智朝に法制整備が進んだことは重要だが、近江令の実態は確定していない」と理解します。
天智朝で律令国家が完成したわけではない
近江大津宮への遷都、天智天皇の即位、庚午年籍の作成からは、国家制度が大きく整えられていく様子が分かります。
しかし670年の段階で、後の大宝律令に見られる国家制度がすべて完成したわけではありません。この後672年には皇位継承をめぐる壬申の乱が起こります。
天智朝は、大化改新以来の国家形成を、対外危機・政治拠点・全国的戸籍という面から大きく前進させた段階として位置づけます。
このページで覚えたい流れ
663年、白村江で敗北する → 664〜665年、西日本の防衛網を急速に整える → 対外危機と国内政治再編が続く → 667年、中大兄皇子が飛鳥から近江大津宮へ遷都する → 新しい政治拠点を整える → 668年、『日本書紀』本文では中大兄皇子が天智天皇として即位する → 同年、高句麗も滅亡し東アジアの勢力関係がさらに変化する → 670年、全国的な戸籍である庚午年籍を作る → 国家が人民・氏姓をより継続的に把握する基盤が強まる → 天武・持統朝のさらなる制度整備へつながる
天智朝を「近江に都を移した時代」とだけ覚えるのではなく、白村江後の対外危機に対応しながら政治拠点を再編し、全国的な戸籍によって人々を把握する仕組みを整え、律令国家形成をさらに前へ進めた時代として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 667年、中大兄皇子が飛鳥から近江大津宮へ遷都する
- 近江大津宮は現在の大津市錦織地区で宮殿中枢部の遺構が確認されている
- 668年、『日本書紀』本文では中大兄皇子が天智天皇として即位する
- 即位年について『日本書紀』には667年とする別伝もあるが、入試では基本的に668年で整理する
- 668年、高句麗が滅亡し、東アジア情勢の再編が続く
- 670年、全国的な戸籍である庚午年籍が作成される
- 庚午年籍は後世に氏姓を確認する根本台帳として重視された
- 庚午年籍そのものは現存していない
- 庚午年籍の作成だけで班田収授制・律令国家が完成したわけではない
- 近江令は後世の史料に伝えられるが、その実態には研究上の議論がある
Check
理解度チェック
各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。
0 / 5 問回答
- 問1
667年の近江大津宮遷都は、唐の侵攻を恐れて飛鳥から逃れたことだけで説明できる。
遷都には白村江後の国防上の事情だけでなく、琵琶湖の水運、東国との交通、政治体制の再編など複数の要因が考えられます。
本文の該当箇所を確認する - 問2
『日本書紀』本文では天智天皇の即位を668年とするが、667年即位とする別伝もあり、史料上の揺れがある。
学校・入試では基本的に668年即位で整理しますが、『日本書紀』には667年とする別伝もあるため、史料上の揺れを意識します。
本文の該当箇所を確認する - 問3
庚午年籍は単なる人口調査ではなく、人民の居住・所属や氏姓を把握し、人々を国家の支配制度へ位置づける基礎台帳だった。
庚午年籍は全国的な人民把握の基盤となり、後世には氏姓を確認する根本台帳としても重視されました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
670年に庚午年籍が作られたことで、律令制に基づく全国的な班田収授制も完成した。
庚午年籍で人民把握は大きく前進しましたが、定期的な造籍と班田の仕組みは天武・持統朝にさらに整えられていきます。
本文の該当箇所を確認する - 問5
近江令は後世の史料に伝えられるが、本文は現存せず、まとまった法典としての実態には研究上の議論がある。
天智朝に法制整備が進んだことは重要ですが、近江令の内容や法典としての実態は確定していません。
本文の該当箇所を確認する
Result
0 / 5 問正解
間違えた問題は解説と本文を確認してから、もう一度解いてみてください。
Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
参考資料
- 近江大津宮と天智天皇大津市
667年の近江大津宮遷都、天智朝の国家整備について参照。
- 近江大津宮錦織遺跡文化庁 文化遺産オンライン
近江大津宮の宮殿中枢部の発掘成果について参照。
- 木簡庫 5BASNK36000150奈良文化財研究所
670年庚午年籍の記事と関連する7世紀木簡について参照。
- 庚午年籍について国立国会図書館 レファレンス協同データベース
庚午年籍の全国的造籍と氏姓確認の根本台帳としての性格について参照。
