壬申の乱―大海人皇子と大友皇子はなぜ戦ったのか
一言でいうと
672年、天智天皇の死後、天智天皇の弟である大海人皇子と、天智天皇の子である大友皇子の間で皇位継承をめぐる大規模な内乱が起こりました。これが壬申の乱です。大海人皇子は吉野を出て伊賀・伊勢を経由し、美濃方面で兵を集め、交通の要地を押さえました。最終的に大海人皇子側が勝利し、翌673年に天武天皇として即位します。叔父と甥の個人的な争いだけでなく、皇位継承・地方勢力・兵力動員・交通路をめぐる広域内戦として理解します。
天智天皇の後継者は誰だったのか
天智天皇には弟の大海人皇子と、子の大友皇子がいました。大海人皇子は斉明朝以来、政治・軍事の中枢に関わってきた有力皇族です。一方、大友皇子も天智朝後半になると政治上の地位を高め、671年には太政大臣となりました。
この時代には、後世のように父から子へ必ず皇位を継ぐという原則が固定されていたわけでも、弟が必ず兄の後を継ぐと決まっていたわけでもありません。皇族としての血統、母方の身分、政治的実績、有力者からの支持などが複雑に関係していました。
大海人皇子と大友皇子の双方が政治的に重要な位置を占めたことが、天智天皇死後の緊張につながります。
671年―大海人皇子は吉野へ退く
671年、病床にあった天智天皇と大海人皇子の間で皇位継承に関わるやり取りがあったと『日本書紀』は伝えています。大海人皇子は皇位を辞退する形をとり、出家して吉野へ入ることを願い出ました。
大海人皇子は妻の鸕野讃良皇女、後の持統天皇らとともに吉野へ向かいます。
『日本書紀』は、この大海人皇子を吉野へ行かせることを臣下が危険視したと描いています。ただし、これは後に壬申の乱で勝利した大海人皇子を中心に編纂された史書の記述でもあり、「最初から反乱を計画して吉野へ入った」と断定はしません。
吉野はただの隠れ場所だったのか
大海人皇子が入った吉野宮は、現在の奈良県吉野町にある宮滝遺跡周辺との関係が深いと考えられています。
吉野は山地に位置しますが、大和・伊賀・伊勢方面へ通じる道があります。近江の政治中心から距離を取りながら、完全に孤立する場所ではありませんでした。翌年の行動を考えるうえで、この地理的条件は重要です。
資料で見る:吉野歴史資料館「常設展示」
天智天皇が亡くなり、緊張が高まる
671年12月、天智天皇が亡くなりました。近江大津宮では大友皇子が政治の中心的立場にあり、一方の大海人皇子は吉野にいました。
翌672年、大海人皇子は近江側が自分に対して軍事的な行動を起こす可能性があるという情報を得たと『日本書紀』は伝えています。そこで6月、大海人皇子は吉野を出て行動を開始しました。
この段階で皇位継承をめぐる政治的緊張が、武力による内乱へ変わります。
672年―大海人皇子が吉野を出る
大海人皇子は吉野から直接近江大津宮へ攻め込んだわけではありません。吉野から伊賀・伊勢を経て美濃方面へ進み、東国側から兵力を集める動きをとりました。
壬申の乱では、誰に皇位継承の正当性があるかだけでなく、どの地域から兵士を動員できるかが勝敗を大きく左右しました。
なぜ不破を押さえたことが重要なのか
大海人皇子側が確保した重要地点が美濃の不破方面です。現在の岐阜県関ケ原町周辺にあたり、畿内と東国を結ぶ主要交通路上に位置します。
不破方面を押さえることで、大海人皇子側は東国から自軍へ兵を集めやすくすると同時に、東国から近江朝廷側へ援軍が向かうことを妨げることができました。
壬申の乱では、戦場での戦闘だけでなく、交通路と兵力動員経路の確保が重要だったことを押さえます。
壬申の乱の勝敗を考えるときは、不破などの交通路と東国の兵力動員に注目します。
大海人皇子一人が戦ったわけではない
大海人皇子自身がすべての軍を率いて各地を転戦したわけではありません。息子の高市皇子や、各地の豪族・官人が軍事行動を担いました。
大和では大伴吹負らが挙兵し、飛鳥方面をめぐって近江側の軍と戦います。
したがって壬申の乱は「大海人皇子対大友皇子」という二人だけの戦いではなく、皇族・中央豪族・地方豪族・動員された兵を巻き込む広域的な内戦でした。
近江朝廷側はなぜ苦しくなったのか
大友皇子を中心とする近江朝廷側も各地から兵力を集めようとしました。しかし大海人皇子側が東国方面の兵力確保に成功した一方、近江側は十分な動員を実現できませんでした。
そのため「大海人皇子の方が強い武将だったから勝った」という個人能力だけの説明にはしません。交通路、地方勢力との関係、兵力動員、各地の戦闘が積み重なって勝敗が決まりました。
飛鳥から瀬田橋まで各地で戦闘が続く
当時の政治中心は近江大津宮でしたが、以前の政治中心だった飛鳥にも宮殿・豪族の本拠・政治施設が集中しており、重要性は失われていませんでした。大和でも両陣営による戦闘が行われます。
戦況が大海人皇子側へ傾くと軍は近江へ進出し、672年7月には瀬田川の瀬田橋付近で大きな戦闘が行われました。大海人皇子側がこれを突破し、近江朝廷は崩壊へ向かいます。
大友皇子はどうなったのか
瀬田方面で敗れた後、大友皇子は自害したと『日本書紀』は伝えています。これによって壬申の乱は大海人皇子側の勝利で終わりました。
大友皇子は後世に弘文天皇と追号されましたが、この追号は明治時代のものです。古代に正式な即位儀礼を行ったかどうかには議論があるため、このページでは基本的に大友皇子と呼びます。
673年―大海人皇子が天武天皇として即位する
壬申の乱に勝利した大海人皇子は近江にそのまま都を置かず、再び飛鳥へ戻りました。翌673年、飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位します。
年表では「672年、壬申の乱 → 673年、天武天皇即位」とつなげて覚えます。
壬申の乱で何が変わったのか
壬申の乱の勝利によって、天智朝の近江政権を支えた政治勢力は大きく再編されました。天武天皇はその後、官僚制・氏姓・律令・国史編纂など多方面で国家制度の整備を進めます。
そのため壬申の乱は、天武・持統朝の国家形成を考える大きな転換点です。
ただし、壬申の乱に勝った瞬間に天皇中心の律令国家が完成したわけではありません。政治制度はその後も十数年以上をかけて整えられていきます。
壬申の乱は何を争った戦いだったのか
もっとも基本的には皇位継承をめぐる内乱です。しかし、それだけではこの戦争の規模を説明できません。
誰が次の王権を担うのか、どの豪族・地方勢力が支持するのか、どの地域から兵を動員できるのか、東国と畿内を結ぶ交通路を誰が握るのかまでが争われました。
したがって壬申の乱は「皇位継承争い+王権を支える政治勢力の再編+広域的な軍事動員」が結びついた戦争として理解します。
このページで覚えたい流れ
667年、近江大津宮へ遷都する → 668年、中大兄皇子が天智天皇として即位する → 670年、庚午年籍を作り国家による人民把握を進める → 671年、大友皇子が太政大臣となる → 大海人皇子は皇位を辞退する形で吉野へ入る → 天智天皇が亡くなり、皇位継承をめぐる緊張が高まる → 672年、大海人皇子が吉野を出て挙兵する → 伊賀・伊勢を経て美濃へ進み、不破方面を押さえる → 東国から兵力を集める → 大和・近江など各地で戦闘が起こる → 大海人皇子側が優勢となる → 瀬田橋付近の戦いで近江朝廷側を破る → 大友皇子が自害する → 大海人皇子が飛鳥へ戻る → 673年、天武天皇として即位する
壬申の乱を「天智天皇の弟と息子が次の天皇の座を争った戦い」とだけ覚えるのではなく、皇位継承問題をきっかけとして地方豪族・兵力・交通路を巻き込んだ広域内戦が起こり、その勝利によって天武朝の国家再編へ進んだ事件として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 672年に起きた皇位継承をめぐる内乱が壬申の乱
- 主な対立は天智天皇の弟・大海人皇子と、天智天皇の子・大友皇子
- 671年、大海人皇子は出家して吉野へ入る
- 大海人皇子は672年に吉野を出て、伊賀・伊勢から美濃方面へ進む
- 不破など東国との交通路を確保し、東国の軍勢を動員したことが重要
- 大海人皇子側には高市皇子・大伴吹負らが参加し、大和・近江など広範囲で戦闘が行われた
- 大友皇子は敗北後に自害する
- 大友皇子は後世に弘文天皇と追号されたが、古代に正式即位したかには注意が必要
- 673年、大海人皇子が天武天皇として飛鳥浄御原宮で即位する
- 壬申の乱を契機に天武朝の国家制度整備が進むが、乱の勝利だけで律令国家が完成したわけではない
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0 / 5 問回答
- 問1
天智天皇の時代には父から子へ皇位を継ぐ原則がすでに固定されていたため、大友皇子以外が後継候補になる余地はなかった。
この時代の皇位継承原則は固定されておらず、血統、母方の身分、政治的実績、有力者からの支持など複数の要素が関わっていました。大海人皇子も有力な皇族でした。
本文の該当箇所を確認する - 問2
大海人皇子が671年に吉野へ入ったことは、最初から翌年の反乱を計画していたことを確実に示す。
『日本書紀』は後に勝利した大海人皇子を中心に編纂された史書でもあります。吉野入りの時点から反乱を計画していたと断定はしません。
本文の該当箇所を確認する - 問3
大海人皇子は672年に吉野を出ると、そのまま最短経路で近江大津宮へ直接攻め込んだ。
大海人皇子は吉野から伊賀・伊勢を経て美濃方面へ進み、東国側から兵力を集める動きをとりました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
不破方面の確保は、大海人皇子側が東国から兵を集めやすくし、近江側への援軍を妨げるうえでも重要だった。
不破は畿内と東国を結ぶ主要交通路上にあり、壬申の乱では戦闘だけでなく交通路と兵力動員経路の確保が勝敗に大きく関わりました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
壬申の乱は大海人皇子と大友皇子の二人だけの争いではなく、皇族・中央豪族・地方豪族・動員兵を巻き込んだ広域内戦だった。
高市皇子や大伴吹負をはじめ各地の豪族・官人が軍事行動を担い、大和や近江など広い範囲で戦闘が行われました。
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