白村江敗戦後の防衛―防人・烽・水城・朝鮮式山城はなぜ築かれたのか
一言でいうと
663年の白村江の戦いで倭・百済復興側が敗れると、倭は唐・新羅勢力が日本列島へ攻めてくる可能性を強く警戒しました。翌664年には対馬・壱岐・筑紫などに防と烽を置き、筑紫には巨大な土塁である水城を築きます。665年には大野城・基肄城などの山城も築かれました。これらを個別の施設としてではなく、兵士・通信・土塁・山城を組み合わせた多重防衛システムとして理解します。
なぜ敗戦後すぐに防衛を強化したのか
白村江の戦いで倭は百済復興側を支援して唐・新羅側と直接戦い、大きな敗北を受けました。百済という重要な政治的パートナーも失ったため、今度は唐・新羅側が海を渡って倭へ攻めてくる可能性を考えなければならなくなりました。
朝鮮半島から最も近い対馬・壱岐・北部九州は、来襲時に最初に警戒すべき地域でした。そのため敗戦の翌664年から、防衛施設と警戒体制が急速に整備されます。
664年―防と烽を置く
『日本書紀』は664年、対馬・壱岐・筑紫などに防と烽を置いたと記しています。
防は外敵の侵入を警戒する守備兵で、後の律令制の防人制度へつながります。ただし664年の記事の防を、奈良時代に制度化された防人と完全に同じものとして扱わないようにします。
烽は煙や火を使って敵の接近などを伝える通信施設です。兵士だけでなく、危機をすばやく伝える情報網まで整えた点が重要です。
664年―巨大な土塁「水城」を築く
同じ664年、筑紫には水城が築かれました。現在も太宰府市から大野城市にかけて大規模な土塁が残っています。
水城は福岡平野から内陸の太宰府方面へ進む交通路を遮るように築かれ、土塁の外側には濠も設けられました。小さな砦ではなく、地形そのものを利用して敵軍の進入を妨げる大規模防衛施設です。
資料で見る:太宰府市「水城跡」
水城には高度な土木技術が使われた
水城の土塁では、土を薄く積んで突き固める版築や、軟弱な地盤に枝などを敷いて安定させる敷粗朶などの工法が確認されています。
また、水を通す木樋も発見されています。水城は単に土を積み上げただけではなく、大量の人員・資材と高度な土木技術を必要とする国家的事業でした。
百済から来た人々が防衛に関わる
百済滅亡と復興失敗の後、多くの百済系の人々が倭へ移住しました。その中には朝鮮半島の築城・土木技術を知る人々もいました。
白村江で百済救援に失敗した結果生じた人口移動が、今度は倭の防衛施設建設に結びつきます。人の移動と技術移転を一続きで理解すると、白村江前後の流れが見えやすくなります。
665年―大野城と基肄城を築く
665年には筑紫に大野城・基肄城などの山城が築かれました。『日本書紀』は、百済系の憶礼福留・四比福夫が築城に関わったと記しています。
大野城は四王寺山、基肄城は基山の地形を利用し、尾根や谷を土塁・石塁で囲む大規模な山城でした。平地を横断する水城と、山地を利用する山城を組み合わせて北部九州の重要拠点を守ろうとしました。
「朝鮮式山城」とは何か
大野城・基肄城などは一般に朝鮮式山城と呼ばれます。これは朝鮮人だけが造った城という意味ではありません。
山の地形を利用し、尾根を土塁・石塁で囲み、谷部を石垣などで防御する朝鮮半島系の築城技術を受け継ぐため、この名称が用いられます。『日本書紀』の百済系技術者の記事と遺構の構造が対応する点が重要です。
防人・烽・水城・山城はどうつながるのか
これらの施設を個別に暗記するだけでは全体像が見えません。海辺では防が警戒し、敵を発見すれば烽で情報を伝え、北部九州では水城が進入路を遮り、大野城・基肄城などの山城が防衛拠点になります。
つまり「海岸警備+通信+平地防御+山城」という多重防衛網として理解するのが適切です。防衛構想は北部九州だけでなく、長門・瀬戸内・畿内へ続く交通路全体を意識して広がっていきました。
白村江後の防衛は、防・烽・水城・山城を組み合わせた広域的な防衛システムです。
防衛施設の建設は国家形成とどうつながったのか
水城や山城を築き、兵士や通信網を維持するには、大量の労働力・食料・資材・技術者を集めて動かす必要があります。
したがって白村江後の防衛強化は、軍事施設を増やしただけでなく、国家が人・物・情報を広域的に動員する能力を強めることにもつながりました。
ただし、白村江敗戦で国家形成がゼロから始まったわけではありません。推古朝・大化改新から進んでいた国家形成が、対外危機によってさらに強く促されたと理解します。
このページで覚えたい流れ
663年、白村江の戦いで倭・百済復興側が敗れる → 唐・新羅側の来襲を警戒する → 664年、対馬・壱岐・筑紫などに防と烽を置く → 海岸警備と通信網を整える → 筑紫に水城を築く → 百済系渡来人の土木・築城技術も利用される → 665年、大野城・基肄城などの朝鮮式山城を築く → 北部九州から瀬戸内・畿内へ続く多重防衛体制を形成する → 防衛施設建設を通じて国家の動員力も強まる → 7世紀後半の国家形成がさらに進む
白村江敗戦後の政策を「外国が怖くなったので城を造った」だけで覚えるのではなく、兵士・通信・巨大土木施設・山城を組み合わせた広域防衛システムを築き、それを支える国家の動員体制も強化した過程として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 663年、白村江の戦いで倭・百済復興側が敗北する
- 664年、対馬・壱岐・筑紫などに防と烽を置く
- 664年、筑紫に水城を築く
- 水城は太宰府方面への進入を防ぐ巨大な土塁・濠で、高度な土木技術が用いられた
- 665年、筑紫に大野城・基肄城などの山城を築く
- 大野城・基肄城の築城には百済系の高官・技術者が関わった
- 大野城・基肄城などは朝鮮半島系の築城技術を持つ朝鮮式山城として理解する
- 白村江後の防衛を、防・烽・水城・山城を組み合わせた多重防衛網として覚える
- 後世の完成した防人制度や大宰府の姿を664年へそのまま当てはめない
- 白村江敗戦で国家形成が始まったのではなく、以前から進んでいた国家形成が対外危機によってさらに促された
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- 問1
664年に置かれた『防』は、奈良時代に制度化された防人制度と完全に同じ仕組みだった。
664年の記事の『防』は後の防人制度へつながりますが、奈良時代の制度化された防人と完全に同一視しないようにします。
本文の該当箇所を確認する - 問2
水城は太宰府方面を守るために設けられた小規模な砦で、地形を利用した大規模な土塁ではなかった。
水城は福岡平野から太宰府方面への進入路を遮る巨大な土塁で、外側には濠も設けられました。地形を利用した大規模防衛施設です。
本文の該当箇所を確認する - 問3
『朝鮮式山城』という名称は、朝鮮人だけが築城作業を行ったことを意味する。
朝鮮式山城という名称は、朝鮮半島系の築城技術を受け継ぐ構造に由来します。築城に百済系技術者が関わりましたが、名称が築城者の民族だけを示すわけではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問4
白村江後の防衛は、防による海岸警備、烽による通信、水城による平地防御、山城による拠点防衛を組み合わせた多重防衛網として理解できる。
個々の施設を別々に見るのではなく、海岸警備・通信・平地防御・山城を組み合わせた広域的な防衛システムとして捉えることが重要です。
本文の該当箇所を確認する - 問5
水城や山城の建設と兵士・通信網の維持は、人・物・情報を広域的に動員する国家の能力を強めることにもつながった。
大規模防衛施設には大量の労働力・資材・食料・技術者が必要で、防衛強化は国家の動員能力の拡大とも結びつきました。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 大宰府史跡発掘50年記念特別展 大宰府―古代国家の形成と筑紫の役割―九州国立博物館
白村江敗戦後の水城・山城築造、百済系渡来人と防衛体制について参照。
- 水城跡太宰府市
水城の規模・構造・濠・木樋などについて参照。
- 大野城跡太宰府市
大野城の位置・構造と山城としての性格を参照。
- 基肄城跡基山町
665年の基肄城築造と朝鮮式山城としての構造を参照。
