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飛鳥時代707〜710年政治・外交重要度 A

平城京遷都―なぜ藤原京から新しい都へ移ったのかへいじょうきょうせんと なぜふじわらきょうからあたらしいみやこへうつったのか

一言でいうと

707年、文武天皇が亡くなり、母の元明天皇げんめいてんのうが即位しました。翌708年には平城の地に新しい都を造る計画が進められ、710年、藤原京から平城京へいじょうきょうへ遷都します。平城京は唐の都城制度から強い影響を受けた大規模な計画都市でした。ただし、藤原京が単に狭かった、失敗したという一つの理由で遷都を説明するのではなく、飛鳥時代に形成された律令国家の制度・人材・技術・文化を新しい政治・行政の中心へ引き継ぐ大きな節目として理解します。

707年―文武天皇の死後、元明天皇が即位する

697年に持統天皇から譲位された文武天皇は、大宝律令の制定など律令国家の整備を進めましたが、707年に亡くなりました。

その後に即位したのが、文武天皇の母である阿閉皇女あへのひめみこ、元明天皇です。元明天皇は天智天皇の娘で、草壁皇子の妃でもありました。

平城京への遷都は、天武・持統・文武朝から続いてきた国家形成を元明朝が引き継ぐ中で進められました。

708年―新しい都を造ることを決める

708年、新都を平城の地に造る計画が進められました。『続日本紀』に伝わる遷都の詔では、平城の地が方位や地勢の面で都を置くのに適した土地として説明されています。

ここには中国由来の方位・地勢・都城思想の影響を見ることができます。

ただし、地形や占いだけが遷都の理由だったと考える必要はありません。国家制度、政治、交通、都城計画など複数の要素が関わったとみられ、決定的な理由を一つに断定するのは避けます。

なぜ藤原京をわずか16年で離れたのか

藤原京は694年から710年まで、約16年間の首都でした。その短さだけを見ると、藤原京に重大な欠陥があったように見えるかもしれません。

しかし、遷都理由について確実に一つの原因を示す史料はありません。水が悪かった、土地が狭かった、都市設計に失敗した、といった説明だけに固定しないようにします。

7世紀後半から律令・戸籍・班田・貨幣・都城・中央官僚制が整えられてきたことを考えると、平城遷都も律令国家が政治空間をさらに整えていく過程として理解するのが適切です。

藤原京が狭くなったから移ったのか

以前は藤原京を比較的小さな都と考える復元もありましたが、発掘調査が進み、現在では条坊が方5キロメートル以上に広がっていたと考えられています。

一方、平城京の基本的な京域は東西約4.2キロメートル・南北約4.8キロメートルで、さらに東側に外京が張り出します。

したがって、藤原京が小さすぎたため、より大きな平城京へ移ったという単純な大小関係では説明できません。

資料で見る:奈良文化財研究所「都城発掘調査部」

平城遷都を「藤原京が小さすぎたから」と一つの理由だけで説明しないことが重要です。

藤原京と平城京では何が違うのか

藤原京と平城京はいずれも碁盤目状の道路を持つ計画都市ですが、宮殿の位置には大きな違いがあります。

藤原京では藤原宮が京域のほぼ中央に置かれました。一方、平城京では平城宮が京域の北端中央に置かれ、その南正面から朱雀大路が延びます。

さらに平城京の東側には外京と呼ばれる張り出し部分があります。平城京は藤原京をそのまま別の場所へ移した都市ではなく、都城の構成そのものにも変化がありました。

唐の長安城をそのまま写したのか

平城京は唐の長安城ちょうあんじょうから強い影響を受けた計画都市です。

しかし長安城をそのまま縮小してコピーしたわけではありません。日本列島の地形条件に合わせ、東側に外京が張り出すなど独自の構造も持っています。

大宝律令や貨幣制度と同じように、唐の制度・文化を参照しながら日本の条件に合わせて作り替える国家形成の特徴が首都建設にも表れています。

朱雀門と朱雀大路は何のためにあったのか

平城宮の南正面に設けられた門が朱雀門すざくもんです。朱雀門から都の中央を南北に走る朱雀大路すざくおおじが延びました。

平城宮、朱雀門、朱雀大路、京域を一本の大きな南北軸で結ぶことで、天皇と国家の政治的中心を都市空間の中に明確に表しました。

現在平城宮跡に見える朱雀門は古代の建物そのものではなく、発掘調査・研究成果を基に1998年に復原された建物です。

資料で見る:奈良文化財研究所「朱雀門の発掘と復原」

平城京を造るため、藤原京を全部捨てたのか

飛鳥・藤原から平城への遷都は、古い都をすべて捨てて新しい国家を一から作ることではありません。

建築資材・技術・官人・行政制度など、それまで飛鳥・藤原で蓄積されてきたものを新しい都へ引き継ぎながら、平城京の建設と国家運営が進められました。

新しい都への遷都を、飛鳥時代との完全な断絶ではなく、律令国家形成の継承と再編として見ることが重要です。

朱雀門も藤原宮から移した可能性がある

平城宮の朱雀門は藤原宮の朱雀門とほぼ同じ規模で、平城宮朱雀門跡から出土した軒瓦の大部分が藤原宮式でした。

奈良文化財研究所は、これらの成果から平城宮朱雀門が藤原宮から移築された可能性を指摘しています。

これは「飛鳥時代末に作った建物・資材・技術を新しい奈良時代の首都へ持っていく」という継承を具体的に考える手がかりです。

大寺院も平城京へ移っていく

遷都に伴い、薬師寺・大官大寺・飛鳥寺などの大寺院も平城京へ移転・再建されていきました。

平城京では大官大寺が大安寺、飛鳥寺が元興寺へつながり、薬師寺も新しい都へ移ります。

ただし、これらの寺院が710年の遷都と同時にすべて完成したわけではありません。平城京の都市形成は遷都後も続く長期的な事業でした。

資料で見る:奈良文化財研究所「古代寺院の移転」

710年―平城京へ遷都する

710年、元明天皇は藤原京から平城京へ遷都しました。平城京はその後、一時的な宮都移動を挟みながら奈良時代の政治・行政の中心となります。

日本史では一般に、この710年の平城京遷都を奈良時代の始まりとします。このサイトでも592年の推古天皇即位から710年の平城京遷都までを飛鳥時代として整理しています。

資料で見る:奈良県立万葉文化館「平城京」

710年に社会が一斉に奈良時代へ変わったのか

時代区分は歴史を学びやすくするための目安です。710年になった瞬間に飛鳥文化が消え、人々の生活や行政制度がすべて新しくなったわけではありません。

平城京には、飛鳥・藤原で培われた制度・人材・技術・文化が数多く引き継がれました。

710年を飛鳥との断絶の日ではなく、飛鳥時代に形成した律令国家を新しい首都へ移し、次の段階へ進む大きな節目として理解します。

飛鳥時代全体で何が変わったのか

飛鳥時代には、推古朝の政治改革、遣隋使、乙巳の変・大化改新、白村江の戦いと防衛強化、天智朝の戸籍、壬申の乱、天武・持統朝の制度整備、大宝律令、貨幣制度などが連続して進みました。

古墳時代のヤマト王権が、東アジアの国際関係の中で法・戸籍・地方行政・官僚制・貨幣・都城を整え、「日本」という律令国家へ変化していった時代としてまとめることができます。

平城京への遷都は、その国家を新しい首都へ引き継いで奈良時代へ進む出来事でした。

このページで覚えたい流れ

694年、持統天皇が藤原京へ遷都する → 藤原京を中心に律令国家の行政組織を運営する → 701年、大宝律令が完成する → 702年、遣唐使を派遣し新しい日本の国家像を対外的に示す → 707年、文武天皇が亡くなり元明天皇が即位する → 708年、平城の地に新しい都を造る計画を進める → 同年、和同開珎を発行する → 唐の都城制度を参照しながら平城京を造営する → 藤原京の建築資材・技術・文化も新都へ引き継ぐ → 710年、元明天皇が平城京へ遷都する → 飛鳥時代に形成した律令国家の制度を新しい首都へ移す → 平城京を中心とする奈良時代へ進む

平城京遷都を「710年、都が奈良へ移った」とだけ覚えるのではなく、推古朝以来100年以上かけて形成されてきた律令国家が、飛鳥・藤原で蓄積した制度・人材・技術・文化を引き継ぎながら、新しい政治・行政の中心を平城京へ移した出来事として理解します。

Review

入試で押さえるポイント

  • 707年、文武天皇の死後に元明天皇が即位する
  • 708年、平城京の造営計画が進められる
  • 平城遷都の決定的な理由を一つに断定しない
  • 藤原京は694〜710年の都で、約16年間使用された
  • 藤原京を小さすぎた都と考えず、発掘成果では方5キロメートル以上に広がる大規模な計画都市とされる
  • 藤原宮は京のほぼ中央、平城宮は京の北端中央に置かれた
  • 平城京は唐の長安城から強い影響を受けた計画都市だが、そのままのコピーではない
  • 平城宮の南正面に朱雀門、その南へ朱雀大路が延びる
  • 平城宮朱雀門は藤原宮から移築された可能性が指摘されている
  • 現在の朱雀門は1998年の復原建物で、古代の建物そのものではない
  • 飛鳥寺・薬師寺・大官大寺などの大寺院も、その後平城京へ移転・再建されていく
  • 710年、元明天皇が藤原京から平城京へ遷都する
  • 710年を一般に奈良時代の開始とする
  • 710年に飛鳥時代の制度や文化が突然消えたのではなく、平城京へ多くが継承された

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理解度チェック

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    平城京への遷都理由は一つの原因に確定できず、国家制度・政治・交通・都城計画など複数の要素を考える必要がある。

  2. 問2

    藤原京は平城京より著しく小さかったため、都として手狭になったことが遷都の確実な理由である。

  3. 問3

    平城京は唐の長安城から強い影響を受けたが、日本列島の地形などに合わせた独自の構造も持っていた。

  4. 問4

    薬師寺・大官大寺・飛鳥寺などの移転・再建は、710年の遷都と同時にすべて完成した。

  5. 問5

    710年の平城京遷都を境に、飛鳥時代の制度・人材・技術・文化は一斉に失われ、新しい仕組みに置き換わった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 平城京へ遷都する
  2. 藤原京へ遷都する
  3. 和同開珎が発行される

Sources

参考資料

  1. 元明天皇奈良県立万葉文化館 万葉百科

    707年の即位、708年の平城遷都計画、710年の遷都を含む元明朝の政治過程を参照。

  2. 都城発掘調査部奈良文化財研究所

    藤原京・平城京の規模、都城構造、唐の都城制度との関係について参照。

  3. 平城京奈良県立万葉文化館 万葉百科

    710年の平城京遷都、平城宮・朱雀大路など都城の基本構造について参照。

  4. 朱雀門の発掘と復原奈良文化財研究所

    平城宮朱雀門の規模、藤原宮式瓦、移築可能性、1998年復原について参照。

  5. 古代寺院の移転奈良文化財研究所

    平城遷都に伴う薬師寺・大官大寺・飛鳥寺などの移転・再建について参照。