持統朝の国家整備―庚寅年籍・班田・藤原京で何が具体化したのか
一言でいうと
686年に天武天皇が亡くなると、皇后だった鸕野讃良皇女が政治を担い、690年に持統天皇として即位しました。持統朝では、689年の飛鳥浄御原令を基礎に、690年の庚寅年籍、692年の班田、694年の藤原京への遷都が進みます。天武朝までに整えられてきた法・官僚制を、戸籍・土地配分・都城という具体的な統治へ結びつけた時代として理解します。
天武天皇の死後、誰が政治を引き継いだのか
686年、天武天皇が亡くなりました。その後すぐに持統天皇が即位したわけではありません。皇后だった鸕野讃良皇女が天皇として即位せずに政務を行う称制の形で政治を担いました。
鸕野讃良皇女は天智天皇の娘で、天武天皇の皇后です。672年の壬申の乱でも大海人皇子とともに行動しており、天武朝の政治を身近で支えた人物でした。
そのため持統朝は、天武天皇の死後に突然始まった別の政治ではなく、天武朝の改革を引き継ぐ段階として見る必要があります。
なぜすぐに即位しなかったのか
天武天皇と鸕野讃良皇女の子には草壁皇子がいました。草壁皇子は681年に皇太子となり、次の王権を担う中心人物と考えられていました。
ところが689年、草壁皇子が亡くなります。これによって皇位継承の構想を組み直す必要が生じ、翌690年に鸕野讃良皇女が持統天皇として即位しました。
持統朝を理解するときは、天武朝の改革を継承することと、次の皇位継承を安定させることの両方が重要な課題だったと考えます。
689年―飛鳥浄御原令を実際の統治へ使う
持統天皇の即位前年である689年には、天武朝から編纂されてきた飛鳥浄御原令が施行されました。
しかし法令を定めるだけでは国家制度は動きません。誰を支配するのか、どこに住んでいるのか、誰に土地を配るのか、誰に税や労役を負担させるのかを実際に把握する必要があります。
そこで次に重要になるのが全国的な戸籍の作成です。
690年―庚寅年籍を作る
690年、飛鳥浄御原令に基づく全国的な戸籍である庚寅年籍が作られました。庚寅はこの年の干支です。
庚寅年籍そのものは現在残っていませんが、後世の史料などから、人々を戸に編成し、国家が人民を継続的に把握する仕組みを整えた重要な戸籍だったことが分かります。
戸籍は単なる人口調査ではなく、土地配分・税・労役・身分関係など、国家による人民支配の基礎となる行政台帳でした。
庚午年籍とは何が違うのか
天智朝では670年に庚午年籍が作られました。庚午年籍は全国的な人民把握を進め、後世には氏姓を確認する根本台帳として特に重視されました。
一方、690年の庚寅年籍は飛鳥浄御原令の制度に基づいて作られ、班田など律令的な人民・土地支配を実際に運用する基盤となりました。
庚午年籍と庚寅年籍を同じ戸籍として暗記するのではなく、その20年間に天武朝の律令編纂や氏族再編が進み、国家制度がさらに整えられたことを押さえます。
庚午年籍は氏姓確認の根本台帳として重視され、庚寅年籍は律令的な人民・土地支配の運用基盤として重要です。
692年―庚寅年籍に基づいて班田を行う
692年、『日本書紀』には畿内へ班田を担当する官人を派遣した記事があります。690年の庚寅年籍を利用した班田として理解されます。
班田とは、国家が人民へ一定の基準で田地を割り当てることです。後の律令制では、人民へ与えられる田を口分田と呼びます。
戸籍を作って人民を把握し、その情報をもとに土地を配るという関係が具体的に見えてきます。
692年に全国の班田収授制が完成したのか
692年に畿内で班田が行われたことは重要ですが、この年に日本全国で後の律令制と同じ班田収授制が一斉に完全実施されたと考えるのは適切ではありません。
地域ごとの土地把握や行政組織には差があり、制度を全国で安定して運用するにはさらに時間が必要でした。
646年の改新の詔、670年の庚午年籍、689年の飛鳥浄御原令、690年の庚寅年籍、692年の班田という長い制度形成の流れとして理解します。
なぜ戸籍と土地を結びつける必要があったのか
律令国家では人民を把握することと土地を把握することが密接に結びつきます。誰に田を与えるかを決めるには、まず誰が存在し、どの戸に属するのかを確認しなければなりません。
そのため、戸籍による人民把握と班田による土地配分はセットで考えます。
古墳時代のように地域の有力氏族が人々や土地を支配する仕組みから、国家が統一した制度を通して人民・土地を管理する仕組みへ大きく進んだことが重要です。
694年―藤原京へ遷都する
694年、持統天皇は飛鳥浄御原宮から藤原京へ遷都しました。藤原京は、それ以前の王宮を中心とする政治拠点よりも大規模で、計画的な都市として造られました。
藤原宮を中心に道路と街区が計画的に配置され、官人の宅地・寺院・市場などを含む都市空間が形成されました。国家の政治・行政・儀礼を継続的に運営するための本格的な都城です。
資料で見る:奈良文化財研究所「藤原宮跡・藤原京跡」
藤原京は日本最初の「都」なのか
藤原京以前にも飛鳥・難波・近江などに王宮を中心とする政治拠点がありました。そのため藤原京を単純に「日本最初の都」と呼ぶと、それ以前の都を無視することになります。
藤原京の画期性は、宮だけでなく、その周囲に計画的な街区を持つ本格的な都城が形成されたことにあります。中国を中心とする東アジアの都城制度を参照しつつ、日本列島の国家制度に合わせた首都が造られました。
なぜ大規模な計画都市が必要になったのか
国家制度が複雑になるほど、政治を担う官人・官司・儀式施設・倉庫なども増えます。天皇の宮だけでなく、国家行政を継続的に担う多数の人々と施設を配置する都市が必要になりました。
藤原京は、律令国家の行政組織を空間として支える首都でもありました。制度の整備と都城の建設を別々に見るのではなく、一体の国家形成として理解します。
藤原京は持統天皇が一から造ったのか
藤原京の造営は持統朝だけで始まったわけではありません。天武天皇の時代から新しい都城の建設計画が進められていました。
持統天皇は天武朝の計画を引き継ぎ、694年に実際の遷都を実現しました。ここでも、天武が制度・計画を進め、持統が継承して具体化するという連続性が見えます。
持統朝で律令国家は完成したのか
持統朝では飛鳥浄御原令、庚寅年籍、班田、藤原京と、律令国家を支える重要な制度が次々に具体化しました。
しかし持統朝で律令国家が最終的に完成したと区切るのは適切ではありません。法制はさらに整備され、701年の大宝律令へ続きます。
持統朝は、天武朝までに整えられた制度を戸籍・土地配分・都城という具体的な統治へ落とし込んだ重要な段階として位置づけます。
697年―持統天皇が文武天皇へ譲位する
697年、持統天皇は孫の軽皇子へ皇位を譲り、軽皇子が文武天皇として即位しました。
持統天皇は退位後も太上天皇として政治に関わり、文武朝では律令編纂がさらに進められます。
この政治的連続性の中で701年に大宝律令が制定され、天武・持統朝から続いてきた制度整備は次の段階へ入ります。
このページで覚えたい流れ
686年、天武天皇が亡くなる → 皇后の鸕野讃良皇女が称制して政治を担う → 689年、飛鳥浄御原令が施行される → 同年、皇太子の草壁皇子が亡くなる → 690年、鸕野讃良皇女が持統天皇として即位する → 飛鳥浄御原令に基づいて庚寅年籍を作る → 国家が人民を戸籍によって把握する仕組みを強める → 692年、畿内で庚寅年籍に基づく班田を行う → 人民把握と土地配分が結びつく → 694年、藤原京へ遷都する → 計画都城に政治・行政・儀礼を集める → 697年、持統天皇が文武天皇へ譲位する → 701年の大宝律令へつながる
持統朝を「女性天皇が藤原京を造った時代」とだけ覚えるのではなく、天武朝で整備された法制度を引き継ぎ、戸籍で人民を把握し、班田で土地支配へ結びつけ、それを運営する政治・行政の中心として藤原京を築くことで、律令国家の仕組みを具体的に動かしていった時代として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 686年、天武天皇が死去し、皇后の鸕野讃良皇女が称制して政治を担う
- 689年、飛鳥浄御原令が施行される
- 689年、皇太子だった草壁皇子が死去する
- 690年、鸕野讃良皇女が持統天皇として即位する
- 690年、飛鳥浄御原令に基づく全国的戸籍である庚寅年籍を作成する
- 庚午年籍と庚寅年籍を混同しない
- 692年、畿内で庚寅年籍に基づく班田が行われる
- 692年だけで全国の班田収授制が完全に完成したと断定しない
- 694年、藤原京へ遷都する
- 藤原京は日本最初の都ではなく、計画的な街区を持つ本格的な都城として重要
- 藤原京の造営は天武朝から進められ、持統朝に遷都が実現した
- 697年、持統天皇が文武天皇へ譲位し、太上天皇となる
- 持統朝の制度整備は701年の大宝律令へ続く
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- 問1
686年に天武天皇が亡くれると、鸕野讃良皇女はその直後に持統天皇として即位した。
天武天皇の死後、鸕野讃良皇女はまず称制の形で政務を担い、草壁皇子の死後の690年に持統天皇として即位しました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
690年の庚寅年籍は、飛鳥浄御原令に基づき、班田など律令的な人民・土地支配を運用する基盤となった。
庚寅年籍は人々を戸に編成し、土地配分・税・労役などを国家が継続的に把握するための基盤でした。
本文の該当箇所を確認する - 問3
庚午年籍と庚寅年籍は、どちらも後世に氏姓確認の根本台帳として同じ役割を担った戸籍である。
庚午年籍は後世に氏姓確認の根本台帳として特に重視され、庚寅年籍は律令的な人民・土地支配の運用基盤として重要でした。
本文の該当箇所を確認する - 問4
692年の班田によって、後の律令制と同じ班田収授制が全国で一斉に完成した。
692年には畿内で班田が行われましたが、全国で同じ制度が一斉に完全実施されたと考えるのは適切ではありません。地域差を含む長い制度形成の一段階です。
本文の該当箇所を確認する - 問5
藤原京の画期性は、宮だけでなく周囲に計画的な街区を持つ本格的な都城が形成された点にある。
藤原京では道路・街区が計画され、官人の宅地・寺院・市場などを含む都市空間が形成され、律令国家の行政を支える首都となりました。
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参考資料
- 持統天皇奈良県立万葉文化館 万葉百科
天武天皇死後の称制、690年即位、697年譲位など持統朝の政治過程を参照。
- 庚午年籍について国立国会図書館 レファレンス協同データベース
庚午年籍と庚寅年籍の位置づけ、古代戸籍制度について参照。
- 藤原宮跡・藤原京跡奈良文化財研究所
藤原京の造営、藤原宮・京域の発掘成果、持統朝の遷都について参照。
- 都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)奈良文化財研究所
藤原京の計画都市としての性格と京域の研究成果について参照。
