大宝律令―701年、日本の律令国家は何を制度化したのか
一言でいうと
701年、文武天皇のもとで大宝律令が完成しました。刑罰を中心に定める律と、行政・官僚・地方支配・戸籍・税など国家運営の仕組みを定める令を備えた本格的な法典です。推古朝以来の政治改革、大化改新、天智・天武・持統朝の制度整備を受け、中央政府・地方行政・官人・人民・土地・税を一つの法体系の中に位置づけた大きな到達点として理解します。
文武天皇の時代に大宝律令がまとまる
697年、持統天皇から皇位を譲られた軽皇子が文武天皇として即位しました。700年には刑部親王らに律令の撰定が命じられ、翌701年に大宝律令が完成します。
編纂には刑部親王や藤原不比等らが関わりました。刑部親王は天武朝の681年に帝紀・上古の諸事の整理にも参加しており、大宝律令は701年に突然考案された法典ではなく、天武・持統朝から続く制度整備を文武朝でまとめ上げたものです。
「律」と「令」は何が違うのか
大宝律令は律6巻・令11巻から構成されたと伝えられています。
律は主に犯罪と刑罰を定める法で、令は中央官庁・官人・地方行政・戸籍・土地・租税・軍事・儀礼など国家運営の仕組みを定める法です。
現代の刑法・行政法と完全に同じではありませんが、まずは「律=刑罰法規、令=国家運営の法規」と整理すると理解しやすくなります。
唐の法律をそのまま写したのか
大宝律令は中国の唐の律令制度から強い影響を受けました。しかし唐の法典をそのまま翻訳して適用したわけではありません。
日本列島には天皇を中心とする王権、氏姓を持つ氏族、地方の有力者、それ以前から続く土地・人民支配がありました。唐の制度を参照しながら、それまでの日本列島の政治社会に合わせて制度を組み替えた点が重要です。
中央政府―二官八省を整える
大宝律令によって中央官制が整理され、基本となったのが二官八省です。二官は神祇官と太政官で、神祇官は祭祀、太政官は一般の政治・行政を統括しました。
太政官の下には中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の八省が置かれました。
天武朝から官司・官人の組織化は進んでいましたが、大宝律令によって中央政府の官僚組織がより統一的な法体系の中に位置づけられました。
豪族は国家の官人へ組み込まれていく
古墳時代以来、政治は有力氏族との関係に大きく依存していました。律令国家では、官人をどの官司に属するか、どの官職に就くか、どの位階を持つかによって制度的に位置づけます。
もちろん家柄の影響が消えたわけではありません。八色の姓で見たように氏族としての出自は依然として重要でした。
それでも、有力者が単に豪族として王権を支えるのではなく、国家から官職・位階を与えられた官人として行政を担う仕組みがより明確になりました。
地方―国・郡・里で組織する
地方行政では、全国を畿内・七道に分け、その下を国・郡・里という行政区画で組織しました。
国には中央から国司を派遣し、郡には郡司を置きます。郡司には、それまで地域を支配してきた地方有力氏族の系統が任命されることが多くありました。
地方豪族をすべて排除したのではなく、地方有力氏族を郡司として国家行政へ組み込み、その上に中央から国司を派遣する仕組みを作ったことが重要です。
「評」が「郡」へ変わる
7世紀の地方行政では評という表記が使われていましたが、大宝令施行前後を境に郡という表記へ移っていきます。
藤原宮跡などから出土した年紀木簡によって、大宝令以前の評と、大宝令以後の郡という変化を実物資料から確認できます。
大化改新の詔を学ぶときに、後世の「郡」という表記を646年へそのまま戻してはいけない理由も、この制度変化から理解できます。
地方行政単位は7世紀の「評」から、大宝令施行後の「郡」へ移ります。
戸籍と計帳で人民を把握する
律令国家は地方区画だけでなく、人民を戸籍へ登録して把握します。律令制では戸籍を原則6年ごとに作成し、毎年は計帳を作って課税対象などを確認しました。
国家が「どこに、誰がいて、どの戸に属し、どのような負担を負うのか」を帳簿によって把握する仕組みです。
天智朝の庚午年籍、持統朝の庚寅年籍を経て、戸籍による人民把握が律令国家の定期的な行政制度へ組み込まれていきました。
702年の戸籍が実際に残っている
大宝2年、702年に作られた戸籍の一部は現在まで残っています。御野国加毛郡半布里戸籍などがその代表です。
戸籍には戸主との関係・姓名・年齢などが記され、律令国家が地方の人々を具体的に帳簿へ登録していたことが分かります。
資料で見る:文化遺産オンライン「御野国加毛郡半布里戸籍」
戸籍・班田・租庸調はどうつながるのか
戸籍によって人民を把握する重要な目的の一つが土地配分と負担の管理です。戸籍を基礎として口分田を班給し、その人々から税や労役を負担させる仕組みが律令制の基盤になります。
代表的な税として租・庸・調があります。租は主に田にかかる稲の税、調は地域の産物などを納める税、庸は労役の代わりに布などを納める負担として整理できます。
「戸籍を作る → 人民を把握する → 土地を配る → 税・労役を負担させる」というつながりで理解します。
大宝律令の全文は現存していない
大宝律令そのものは完全な形では現存していません。律6巻・令11巻だったことは伝わっていますが、全文を原本で読むことはできません。
後の養老律令やその注釈書、他の史料に引用された条文などから、大宝律令の内容を復元しています。
そのため「現在も大宝律令の原本がそのまま残っている」と考えないようにします。
大宝律令で律令国家は完成したのか
701年は、律と令を備えた本格的な法典が成立し、中央官制・地方行政・官人制度・戸籍・土地・税などを統一的な法体系へ位置づけた非常に大きな節目です。
ただし701年になった瞬間、日本列島のすべての地域で法律どおりの制度が完全に動いたわけではありません。地方では旧来の有力氏族が郡司として重要な役割を持ち続け、制度運用にも地域差がありました。
大宝律令は「律令国家が突然完成した日」ではなく、それまで数十年間かけて形成してきた国家制度を本格的な統一法典としてまとめた大きな到達点として理解します。
702年―新しい国家の姿を唐へ示す
大宝律令完成の翌702年、粟田真人らが遣唐使として派遣されました。
この時期には「日本」という国号も定着していきます。国内では律令によって国家制度を整え、国外では遣唐使を通して新しい国家として唐と向き合う動きが重なっていました。
大宝律令を国内制度だけの問題として切り離さず、東アジアの中で自国をどのように位置づけるかという外交上の変化へつなげて理解します。
このページで覚えたい流れ
689年、飛鳥浄御原令が施行される → 690年、庚寅年籍を作る → 692年、班田を進める → 694年、藤原京へ遷都する → 697年、文武天皇が即位する → 700年、刑部親王・藤原不比等らに律令の撰定を命じる → 701年、大宝律令が完成する → 律と令を備えた本格的な統一法典が成立する → 中央に二官八省を整える → 地方を国・郡・里で組織し、国司・郡司を置く → 戸籍・計帳で人民を把握する → 班田と租・庸・調などを法体系の中へ位置づける → 702年、粟田真人らを遣唐使として派遣する → 「日本」を名乗る律令国家として東アジア外交へ向かう
大宝律令を「701年に作られた昔の法律」とだけ覚えるのではなく、推古朝・大化改新から天武・持統朝まで続いてきた国家形成を、中央政府・地方行政・官人・人民・土地・税を含む一つの法体系としてまとめた大きな到達点として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 701年、文武天皇のもとで大宝律令が完成する
- 刑部親王・藤原不比等らが編纂に参加する
- 大宝律令は律6巻・令11巻から構成されたと伝えられる
- 律は主に刑罰法規、令は国家行政・官僚制・地方支配などを定める
- 唐の律令制度を参照しながら、日本列島の政治社会に合わせて整備した
- 中央官制は神祇官・太政官を中心とする二官八省
- 地方行政は国・郡・里を基本とし、中央から国司を派遣し、地方有力氏族を郡司として組み込む
- 大宝令の施行前後で地方行政単位の表記が評から郡へ変化する
- 戸籍は原則6年ごと、計帳は毎年作成し、人民・課税対象を把握する
- 戸籍・班田・租庸調を関連づけて理解する
- 702年の戸籍が現存し、律令国家による具体的な人民把握を確認できる
- 大宝律令の全文は現存していない
- 701年に突然すべての地域で律令制が完全実施されたわけではない
- 702年、粟田真人らの遣唐使が派遣され、この時期に「日本」という国号も定着していく
Check
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0 / 5 問回答
- 問1
大宝律令では、律は主に犯罪と刑罰を、令は行政・官人・地方支配・租税など国家運営の仕組みを定めた。
大宝律令では、律は主に刑罰法規、令は中央官庁・官人・地方行政・戸籍・土地・租税など国家運営の法規として整理されました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
大宝律令は唐の法典をそのまま翻訳し、日本列島の従来の政治秩序を考慮せずに適用したものだった。
唐の律令制度から強い影響を受けましたが、日本列島に既にあった王権・氏族・地方有力者などの政治社会に合わせて制度を組み替えました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
大宝律令の地方行政では、従来の地方有力氏族をすべて排除し、郡司も中央から派遣した。
国司は中央から派遣されましたが、郡司には従来の地方有力氏族の系統が任命されることが多く、地域の有力者を国家行政へ組み込む仕組みでした。
本文の該当箇所を確認する - 問4
地方行政単位の表記は、7世紀の「評」から大宝令施行後の「郡」へ移っていった。
年紀木簡から、大宝令以前には「評」、施行後には「郡」が用いられる変化を確認できます。
本文の該当箇所を確認する - 問5
701年に大宝律令が成立した時点で、日本列島のすべての地域で律令制が同じように完全実施された。
大宝律令は大きな到達点ですが、地方では旧来の有力氏族が重要な役割を持ち続け、制度運用にも地域差がありました。
本文の該当箇所を確認する
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Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
参考資料
- 大宝律令橿原市
701年の大宝律令、律6巻・令11巻、律令国家の基本法典としての位置づけを参照。
- 文武天皇奈良県立万葉文化館 万葉百科
700年の律令撰定命令、701年の新令施行など文武朝の政治過程を参照。
- 飛鳥藤原第4回 官人と役所奈良文化財研究所
大宝令前後の官制、評から郡への変化、調庸木簡など律令国家の行政実態を参照。
- 御野国加毛郡半布里戸籍文化庁 文化遺産オンライン
702年戸籍の現存資料と律令国家による人民把握の実態を参照。
