北方への進出―渟足柵・磐舟柵と阿倍比羅夫は何を意味するのか
一言でいうと
大化改新が始まった直後、ヤマト王権は日本海側で北方への政治的な足場を広げました。647年に渟足柵、648年に磐舟柵が設けられたと『日本書紀』に記され、658〜660年には斉明朝の阿倍比羅夫が船団を率いて北方へ向かいました。ただし、これは東北・北海道全体を一気に領土化したという意味ではありません。城柵・移住・交渉・交易・軍事を組み合わせながら、王権が北方社会との関係を広げていった過程として理解します。
大化改新の直後、国家は北方へも目を向ける
646年の改新の詔では、地方・人民・土地を国家がより統一的に把握しようとする方向が示されました。その翌647年には渟足柵、648年には磐舟柵が設けられたと『日本書紀』に記されています。
ただし、「改新の詔が出たから直ちに北方進出が始まった」と一本の因果関係に固定する必要はありません。越後方面では古墳時代以来、王権と地域有力者の関係があり、その上で7世紀中ごろに日本海側のさらに北へ政治的・軍事的な拠点を設ける動きが明確になります。
「蝦夷」とは誰のことなのか
古代国家側の史料では、主に東北地方など、中央政府の支配へ十分に組み込まれていない北方の人々が蝦夷と呼ばれました。
ただし、「蝦夷」という一つの民族集団が北方全体にまとまって存在していたと単純化しません。地域ごとに異なる社会があり、中央や周辺地域との交流関係も多様でした。
まずは「蝦夷」を中央の国家側が北方の人々を分類した呼び方として意識します。
「蝦夷」を一枚岩の民族集団として扱わず、中央国家側の史料に現れる呼称として理解します。
647年―渟足柵が設けられる
647年、『日本書紀』には渟足柵を造り、柵戸を置いたと記されています。渟足柵は現在の新潟市周辺にあったと考えられています。
ただし、647年の渟足柵そのものと確定できる遺構は現在まで特定されていません。史書の記事と考古資料を区別して考える必要があります。
後の8世紀初めごろの八幡林遺跡から「沼垂城」と記された木簡が出土しており、この地域に北方拠点が存在したことを考える重要な資料となっています。
資料で見る:新潟市「渟足柵ってなに?」
柵戸は何をする人々だったのか
柵戸は単なる守備兵だけではなく、北方拠点の周囲へ移住し、土地の開発や施設の維持・防衛にも関わった人々と考えられます。
つまり北方進出は、中央から軍隊を送るだけではなく、人を移住させ、集落や農地を作り、行政拠点を維持する長期的な政策でもありました。
648年―さらに北へ磐舟柵を設ける
翌648年には磐舟柵が設けられたと『日本書紀』に記されています。現在の新潟県村上市・岩船地域にあったと考えられますが、正確な所在地は確定していません。
647年の渟足柵から648年の磐舟柵へと、日本海沿岸で王権の拠点が北へ伸びていったことが分かります。
ただし、柵を置いたからその北側まで一律に直接支配したという意味ではありません。むしろ中央の支配が十分ではない境界地域に置かれた拠点として理解します。
「柵」は中世の城と同じなのか
渟足柵・磐舟柵の「柵」を、戦国時代の城と同じものだと考える必要はありません。防御機能だけでなく、役人が活動する行政拠点、移住者の拠点、物資を集める場所、周辺社会との交渉地点など複数の役割を持ったと考えられます。
城柵は「軍事要塞」だけでなく、「軍事+行政+移住+交流」の拠点として理解すると、後の多賀城や秋田城にもつながります。
658〜660年―阿倍比羅夫が北方へ向かう
渟足柵・磐舟柵の設置から約10年後、斉明天皇の時代には阿倍比羅夫が船団を率いて北方へ向かったと『日本書紀』に記されています。
658〜660年の記事では、日本海側を北上し、北方の集団と接触したことが伝えられています。現在の秋田・能代方面などに比定する見方がありますが、史料中の地名を現在地へ比定することには議論があります。
阿倍比羅夫の活動は戦闘だけではなく、現地の首長層との交渉、饗応、贈与、朝貢的な関係づくりなども含んでいました。軍事力を背景としながら、政治関係や交易関係を作ろうとする活動として捉えます。
660年に登場する「粛慎」とは誰なのか
660年の阿倍比羅夫の記事には、粛慎と呼ばれる人々も登場します。
「粛慎」は中国の古い史書にも見える北方民族名ですが、『日本書紀』の粛慎が中国史書の集団とそのまま同一だったとは確認できません。どの地域・集団を指したのかには研究上の議論があります。
したがって、粛慎を特定民族へ固定して暗記するのではなく、『日本書紀』が北方のある集団をその名で記したと理解します。
北方全体を征服したわけではない
阿倍比羅夫の到達範囲を北海道方面まで含める見方もありますが、地名比定には議論があります。さらに、仮に北海道方面まで到達したとしても、それを北海道がヤマト王権の領土になったことと同一視してはいけません。
当時の北海道では、本州の飛鳥時代とは異なる続縄文文化など独自の文化が展開していました。北方社会との接触拡大と直接統治の完成を区別します。
北方への航海・軍事行動・交渉の拡大 ≠ 東北・北海道全体の直接支配完成。
北方への進出で何が変わったのか
647年の渟足柵、648年の磐舟柵、658〜660年の阿倍比羅夫の活動を一つの流れで見ると、7世紀の国家形成が都の制度改革だけではなかったことが分かります。
中央では地方・人民・土地・税を把握する制度改革が進み、その周辺では城柵の設置、移住、地域社会との交渉・交易、軍事力の行使を通じて、王権が関係を持つ範囲を広げようとしていました。
ただし、その過程は地域によって異なり、北方社会が一方的に中央国家へ吸収されたわけではありません。
660年、日本の外交問題は再び朝鮮半島へ
阿倍比羅夫の北方活動が続いていた660年、朝鮮半島では百済が唐・新羅の攻撃によって滅亡しました。
ここから倭の政治は百済復興をめぐる朝鮮半島情勢へ深く関わり、663年の白村江の戦いへ進みます。日本列島内部の国家形成と東アジア外交が再び大きく交差する段階です。
このページで覚えたい流れ
646年、大化改新で地方・人民・土地を国家が把握する方向が示される → 647年、日本海側に渟足柵を設け、柵戸を置く → 648年、さらに北に磐舟柵を設ける → 北方への政治・軍事・行政拠点を広げる → 658〜660年、斉明朝に阿倍比羅夫が船団を率いて北方へ向かう → 北方社会と交渉・贈与・軍事行動などを重ねる → 王権と北方社会の接触範囲が広がる → ただし北方全体を直接支配したわけではない → 660年、百済が滅亡し、倭の対外政策は朝鮮半島の危機へ向かう
北方への進出を「ヤマト王権が東北・北海道を征服した」と覚えるのではなく、城柵・移住・外交・交易・軍事を組み合わせながら、国家の境界と北方社会との関係を広げていった過程として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 647年、越後に渟足柵が設けられ、柵戸が置かれる
- 648年、さらに北に磐舟柵が設けられる
- 城柵は単なる軍事要塞ではなく、行政・移住・交流などの役割も持つ北方拠点として理解する
- 「蝦夷」は中央の国家側が北方の人々を呼んだ名称で、一枚岩の集団として単純化しない
- 658〜660年、斉明朝に阿倍比羅夫の北方遠征が行われる
- 阿倍比羅夫の活動を単純な領土征服とせず、軍事・交渉・贈与・交易などを含む北方社会との関係形成として考える
- 『日本書紀』の粛慎が具体的にどの集団を指すのかは確定していない
- 北海道方面まで到達したとする見方があっても、北海道をヤマト王権が直接支配したとはしない
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0 / 5 問回答
- 問1
古代史料に現れる『蝦夷』は、北方全体に同一文化を持つ一つの民族集団が存在したことを示す名称である。
『蝦夷』は中央国家側が北方の人々を分類した呼称として理解します。北方には地域ごとに異なる社会があり、一枚岩の民族集団として単純化できません。
本文の該当箇所を確認する - 問2
647年の渟足柵については、その年の柵そのものと確定できる遺構が現在までに発掘されている。
渟足柵は『日本書紀』に記録されていますが、647年の柵そのものと確定できる遺構は特定されていません。史書の記事と考古資料は区別して考えます。
本文の該当箇所を確認する - 問3
柵戸は守備だけでなく、北方拠点周辺への移住、土地開発、施設維持などにも関わったと考えられる。
北方進出は軍隊を送るだけではなく、人を移住させ、集落や農地を作り、行政拠点を維持する長期的な政策でもありました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
渟足柵や磐舟柵は、防御だけでなく行政・移住・物資集積・周辺社会との交渉など複数の役割を持つ拠点だったと考えられる。
古代の城柵は戦国時代の城と同じではなく、軍事に加えて行政・移住・交流の機能を持つ境界地域の拠点でした。
本文の該当箇所を確認する - 問5
阿倍比羅夫が北海道方面まで到達した可能性があるなら、その時点で北海道はヤマト王権の直接支配下に入ったと考えてよい。
到達範囲の地名比定自体に議論があり、仮に北海道方面へ到達していても、接触や軍事行動と直接統治の完成は別です。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 渟足柵ってなに?新潟市
647年の渟足柵、柵戸、所在地に関する現状について参照。
- 磐舟柵跡の推定地と岩船地域の古代史村上市
648年の磐舟柵と所在地比定の状況について参照。
- 列島の北と南をめぐる文化の交流と境界国立歴史民俗博物館
古代国家の境界、北方社会との人・物の交流を単純な征服として扱わないため参照。
- 北海道の歴史年表北海道
658年の阿倍比羅夫遠征記事と北海道史側からの位置づけを参照。
