大化改新―646年の改新の詔で何を変えようとしたのか
一言でいうと
645年の乙巳の変によって新しい政治体制が成立すると、孝徳天皇のもとで政治制度を組み替える改革が進められました。これを一般に大化改新と呼びます。『日本書紀』には646年、改革の基本方針を示した改新の詔が出されたと記されています。そこでは、豪族による人民・土地支配の再編、地方行政、戸籍・土地配分、税制などの整備が示されます。ただし、これらの制度が646年に一斉に完成したわけではありません。豪族を介した支配から、国家が人民・土地・地方をより統一的に把握する体制へ向かう長い改革の重要な段階として理解します。
大化改新は645年の一日だけの出来事ではない
前のページで学んだ乙巳の変は、645年に蘇我入鹿が殺害され、蘇我蝦夷も自害した政変でした。その後、皇極天皇が退位して孝徳天皇が即位し、中大兄皇子・中臣鎌足・阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂らによる新しい政治体制が成立します。
645年には「大化」という年号が用いられ、都も飛鳥から難波へ移されました。乙巳の変という政変の後、新政権のもとで複数の政治改革が進められた一連の流れを大化改新として捉えます。
したがって、645年に蘇我入鹿を倒した瞬間に大化改新が完成したと考えるのではなく、乙巳の変とその後の制度改革を区別しながら連続して理解します。
乙巳の変=645年の政変、大化改新=その後に進められた一連の政治改革、と区別します。
なぜ難波へ都を移したのか
新政権は飛鳥を離れ、難波へ政治の中心を移しました。難波は瀬戸内海と大和を結ぶ交通の要地で、中国・朝鮮半島との外交にも重要な難波津をもつ地域でした。
現在の大阪市中央区では前期難波宮の遺構が発掘されており、孝徳朝に大規模な宮殿が整備されたことが分かっています。
ただし、645年に遷都した直後から現在知られる巨大な宮殿施設がすべて完成していたと決めつけることはできません。孝徳朝を通じて新しい政治拠点の整備が進んだと考えます。
資料で見る:大阪市「難波宮跡」
646年―改新の詔
『日本書紀』の646年正月の記事には、改新の詔として改革の基本方針が記されています。
内容は、豪族による人民・土地支配の再編、地方行政の整備、戸籍・土地配分の整備、税制の整備という四つの方向に整理すると理解しやすくなります。
これらは後の律令国家へつながる重要な政策理念ですが、646年の詔によってすべての制度が即座に完成したわけではありません。
豪族の人民・土地支配をどう変えようとしたのか
改新の詔では、王族や豪族が支配していた子代・部曲などの人民や、屯倉・田荘などの土地を再編する方針が示されています。
教科書では、この方向性を公地公民という言葉で整理します。人民や土地を有力豪族それぞれの支配対象とする仕組みから、王権・国家がより統一的に把握する仕組みへ転換しようとした点が重要です。
ただし、646年の詔一つで豪族による土地・人民支配が完全に消滅したわけではありません。従来の豪族や国造層を利用しながら、新しい国家制度へ段階的に組み替えていきました。
地方を国家の行政組織へ組み込む
改新の詔では、都や畿内を整え、地方を行政的に把握する方針も示されています。各地の有力者が地域を独自に支配するだけではなく、中央の王権が地方を一定の仕組みの中へ組み込もうとする動きです。
古墳時代には地域有力者である国造が王権と結びついていました。大化改新以後は、そのような地域有力者を一度に排除するのではなく、国家の地方行政の中へ再編していく方向が強まります。
この動きは後の律令国家の地方行政制度へつながりますが、646年の段階ですでに8世紀の国・郡・里制が完成していたわけではありません。
改新の詔にある「郡」は646年当時の言葉ではなかった
現在の『日本書紀』に載る改新の詔には「郡」という文字が登場します。しかし7世紀の木簡などでは、地方行政単位に評という文字が使われていました。
「郡」が制度上用いられるのは大宝律令以後です。このため、現在伝わる改新の詔の文章には、720年に『日本書紀』が編纂された際、後の制度・用語に合わせて整理された部分があることが分かっています。
これは改新の詔や大化期の改革がすべて後世の作り話だったという意味ではありません。改革そのものを認めつつ、現在の文章を646年当時の原文として一字一句そのまま読むことはできないという史料批判です。
資料で見る:国税庁「租税史料叢書等から見た税務行政の歴史」
7世紀の地方行政単位は「評」、大宝律令以後は「郡」。改新の詔には『日本書紀』編纂時の用語整理が含まれます。
戸籍を作り、人民と土地を把握する
改新の詔には、戸籍・計帳・班田収授に関わる方針も記されています。
国家が誰がどこに住んでいるのか、どれだけの人口がいるのか、誰に土地を配分するのか、誰から税や労役を負担させるのかを把握する仕組みへ進もうとしたことが重要です。
ただし、646年に全国戸籍や班田収授制度が完成したわけではありません。現存史料上で重要な全国的戸籍として登場するのは、後に学ぶ670年の庚午年籍です。戸籍・班田の具体的制度は7世紀後半に段階的に整えられます。
税の取り方も国家的に整理する
改新の詔では、従来のさまざまな負担を整理し、田や戸などを基準とした税・労役の仕組みを整えようとする方針も示されています。
重要なのは、地域や豪族ごとに人民から負担を集める仕組みから、国家が人民を把握し、一定の基準で税を徴収する仕組みへ向かおうとしたことです。
後の律令国家では租・庸・調などの税制が整えられますが、646年の税制をそのまま大宝律令の租庸調と同じものとして覚えてはいけません。古い貢納制度を残しながら、何度も再編されていきました。
公地公民・班田収授が646年に完成したわけではない
大化改新を「646年の改新の詔で公地公民・班田収授が完成し、中央集権国家が成立した」と一直線に説明するのは適切ではありません。
改新の詔には後の律令国家へつながる理念が見られますが、その具体的制度は天智・天武・持統朝を通じて整えられ、701年の大宝律令で律令国家の基本的な法体系がまとまります。
したがって646年は国家形成の完成年ではなく、国家が目指す方向が大きく示され、実際の制度改革が進んでいく重要な段階として理解します。
大化改新で何が変わろうとしていたのか
大化改新が目指した大きな方向は、豪族の連合を基盤とした王権から、王権が人民・土地・地方行政・税をより直接的・統一的に把握する国家へ進むことでした。
推古朝の冠位十二階・十七条憲法では主に王権内部の官人秩序を整えようとしていたのに対し、大化改新では地方・人民・土地・戸籍・税へ国家による把握を広げようとした点に注目します。
もちろん、この転換は646年だけでは終わりません。大化改新は、7世紀後半の地方行政・戸籍・律令整備へ続く長期的な国家形成の重要な一段階でした。
このページで覚えたい流れ
645年、乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿を中心とする政治体制が崩れる → 孝徳天皇が即位し、新政権が成立する → 「大化」の年号が用いられる → 都を難波へ移す → 646年、改新の詔が出されたと『日本書紀』に記される → 豪族による人民・土地支配の再編を目指す → 地方行政を整えようとする → 戸籍・班田による人民と土地の把握を目指す → 税制を整理しようとする → これらの改革が7世紀後半の戸籍・地方行政・律令整備へつながる
大化改新を「646年に公地公民・班田収授が完成した改革」と覚えるのではなく、豪族を介した支配から、国家が人民・土地・地方をより統一的に把握する体制へ進む長い改革の重要な一段階として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 乙巳の変は645年の政変、大化改新はその後の一連の政治改革として区別する
- 645年、孝徳天皇が即位し、「大化」の年号が用いられ、難波への遷都が進められる
- 646年、改新の詔が出されたと『日本書紀』に記される
- 改新の詔は、人民・土地支配の再編、地方行政、戸籍・計帳・班田収授、税制という四つの方向で整理する
- 豪族による人民・土地支配を国家のもとへまとめる方向を、教科書では公地公民として整理する
- 現在伝わる改新の詔には「郡」など後世の用語があり、『日本書紀』編纂時の整理・修正が含まれる
- 7世紀当時の地方行政単位には評が用いられ、後に郡へ変わる
- 公地公民・戸籍・班田・税制が646年に一斉に完成したわけではない
- 大化改新を天智・天武・持統朝を経て大宝律令へ至る長期的な律令国家形成の一段階として理解する
Check
理解度チェック
各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。
0 / 5 問回答
- 問1
大化改新は、645年の乙巳の変で蘇我入鹿が倒されたその日に制度改革まで完成した出来事である。
乙巳の変は645年の政変で、その後に新政権のもとで複数の制度改革が進められました。大化改新はその一連の改革として捉えます。
本文の該当箇所を確認する - 問2
大化改新後の地方支配では、国造など地域有力者を直ちに全面排除するのではなく、国家の地方行政の中へ再編していく方向が強まった。
従来の地域有力者を利用しながら、中央の王権が地方を一定の仕組みへ組み込む方向へ進みました。646年に8世紀の地方制度が完成したわけではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問3
改新の詔に『郡』と記されていることから、646年当時すでに大宝律令後と同じ郡制が使われていたと判断できる。
7世紀の木簡などでは地方行政単位に『評』が用いられ、『郡』は大宝律令以後の用語です。現在の詔文には『日本書紀』編纂時の整理が含まれると考えられます。
本文の該当箇所を確認する - 問4
改新の詔に戸籍・計帳・班田収授の方針が見えるが、646年に全国戸籍や班田収授制度が完成したわけではない。
戸籍・班田の具体的な制度は7世紀後半に段階的に整えられ、現存史料上で重要な全国的戸籍としては670年の庚午年籍が挙げられます。
本文の該当箇所を確認する - 問5
646年に示された税制は、701年の大宝律令で整えられる租・庸・調とすでに同じ制度だった。
646年の税制を後の租・庸・調と同一視することはできません。古い貢納制度を残しつつ、税制はその後も繰り返し再編されました。
本文の該当箇所を確認する
Result
0 / 5 問正解
間違えた問題は解説と本文を確認してから、もう一度解いてみてください。
Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
参考資料
- 大化改新奈良県立万葉文化館 万葉百科
乙巳の変後の改革、改新の詔、評制など大化改新の基本的な位置づけを参照。
- 難波宮跡大阪市
孝徳朝の難波遷都と難波宮跡について参照。
- 租税史料叢書等から見た税務行政の歴史国税庁 税務大学校
改新の詔の後世的用語、「評」と「郡」、戸籍・税制に関する史料批判を参照。
- 律令国家と隋唐文明東京大学 BiblioPlaza
唐制の受容と国造制以来の仕組みを組み替えながら進んだ律令国家形成について参照。
