Knowledge Check
室町時代の理解度テスト
15つの詳細学習トピックにある75問から、毎回10問を出題します。 各トピックからなるべく均等に選ぶため、時代全体の理解を確認できます。
Test
理解度テスト
詳細トピックの確認問題から、トピックが偏りすぎないように10問をランダムで出題します。
0 / 10 問回答
建武の新政は、鎌倉幕府以前の政治制度をそのまま復元することだけを目的とした政治だった。
後醍醐天皇は、幕府や院政などに分かれていた政治上の権限を組み替え、重要な政治判断を天皇のもとへ集めようとしました。
出題元の学習トピックを確認する建武の新政では、恩賞や所領訴訟などを処理するため、恩賞方や雑訴決断所などの機関が設けられた。
新政は政治機構を持たなかったのではなく、幕府滅亡後に集中した大量の問題を処理するため複数の機関を整えました。
出題元の学習トピックを確認する建武の新政では武士が政治から一律に排除されたため、すべての武士が成立当初から後醍醐天皇に反対していた。
新政にも多くの武士が参加しており、対立の重要な背景には恩賞・所領処理などの問題がありました。
出題元の学習トピックを確認する中先代の乱を鎮圧した後、足利尊氏が東国にとどまり武士への恩賞などを進めたことは、後醍醐天皇との政治的対立を深める一因となった。
建武政権が天皇中心に恩賞・所領処理を進めようとする一方、尊氏も鎌倉で武士への恩賞を進め、政治秩序をめぐる対立が表面化しました。
出題元の学習トピックを確認する建武の新政が崩壊すると、ただちに安定した室町幕府が完成し、南北朝の内乱も終わった。
1336年以後は武家政権形成と南北朝の内乱が並行して進み、尊氏が征夷大将軍となるのも1338年です。
出題元の学習トピックを確認する室町幕府の形成は、1336年か1338年のどちらか一日だけで完成したと考えるより、1336〜1338年の政治過程として理解する方が適切である。
1336年には京都掌握・建武式目・南北朝分裂が進み、1338年に尊氏が征夷大将軍となりました。
出題元の学習トピックを確認する建武式目は、尊氏が一方的に制定した17条の法律であり、それが示された日に室町幕府の統治体制が完成した。
建武式目は尊氏の諮問への答申という性格を持ち、これだけで政権がその日に完成したとみなすのは単純化です。
出題元の学習トピックを確認する南北朝の分裂は、二つの朝廷の正統性をめぐって武士や公家が各地で対立する全国的な内乱にもつながった。
南北朝期は単に二人の天皇が並んだだけでなく、どちらを支持するかをめぐって各地で戦闘が続きました。
出題元の学習トピックを確認する足利尊氏は1338年に征夷大将軍となるまで、武士への所領安堵などの政治権力を行使していなかった。
尊氏側は将軍就任以前から所領安堵などを行い、新しい武家政権はすでに動き始めていました。
出題元の学習トピックを確認する1338年に尊氏が征夷大将軍となると南朝の抵抗は終わり、全国支配は安定した。
南朝の抵抗と各地の内乱は続き、守護権限の拡大など幕府の支配体制もその後形成されていきました。
出題元の学習トピックを確認する室町幕府成立初期には、足利尊氏と直義が役割を分担して政権を運営していた。
尊氏は主従関係や恩賞などに関わり、直義は政務・裁判を広く担当するなど、初期幕府は役割分担で運営されました。
出題元の学習トピックを確認する観応の擾乱は、足利尊氏と直義の個人的な兄弟げんかだけで起きた局地的な争いだった。
幕府内部の権力関係に南北朝内乱が結びつき、各地の守護・武士を巻き込む大規模な争乱となりました。
出題元の学習トピックを確認する1351年に高師直・師泰が殺害されると、観応の擾乱はその時点で完全に終結した。
その後は尊氏と直義自身の対立が再燃し、争いは1352年まで続きました。
出題元の学習トピックを確認する1352年の半済令は当初、本所領の年貢半分を戦時の兵粮・軍費へ充てる臨時的措置として出された。
最初から荘園の土地半分を永久に守護へ与える制度ではなく、長期内乱の軍事負担に対応する措置でした。
出題元の学習トピックを確認する1352年に半済令が出されたことで、その年に全国の守護が一斉に守護大名へ完成した。
守護大名化は、半済の展開や守護請、国内武士の統制など複数の変化が重なって進んだ長期的な過程です。
出題元の学習トピックを確認する鎌倉時代の守護は、一国内の荘園・公領の行政や経済をすべて直接支配する地方統治者だった。
鎌倉時代の守護は大犯三箇条など軍事・警察上の職務が中心で、荘園領主・地頭・国衙など既存の支配をすべて統括したわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する南北朝の内乱が長期化したことは、守護が国内の武士動員や幕府命令の執行、軍事収入の確保へ関与を広げる背景となった。
幕府が各地の戦争を直接指揮しきれないため、守護に軍事動員や地方での執行を担わせる必要が高まりました。
出題元の学習トピックを確認する守護請では、荘園領主の権利が形式上残る場合でも、守護が年貢徴収を請け負うことで現地への影響力を強めることがあった。
守護が一定額の年貢を荘園領主へ納める一方、現地徴収へ直接関与するため、守護の支配力が強まりやすくなりました。
出題元の学習トピックを確認する国人は、幕府が守護を任命すると自動的にその守護の家臣となった在地武士を指す。
国人は在地の有力武士で、守護と協力・主従・対立など多様な関係を持ち、守護任命だけで自動的に家臣になったわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する室町期の守護大名は幕府から独立した戦国大名と同じ政治的存在であり、幕府政治への参加とは無関係だった。
守護大名の権力は幕府からの守護任命とも結びつき、多くの有力守護は京都の幕府政治にも参加しました。
出題元の学習トピックを確認する1368年に足利義満が3代将軍となった時点で、南朝の抵抗は終わり、有力守護も将軍へ完全に従属していた。
義満就任時も南朝との内乱は続き、有力守護大名の軍事力を必要としつつ統制することが幕府の課題でした。
出題元の学習トピックを確認する1378年に造営された室町第(花の御所)は、義満が京都で政治を行う中心の一つとなった。
義満は室町第を政治の中心として活動し、朝廷・公家・寺社とも密接に関わりました。
出題元の学習トピックを確認する明徳の乱で義満は守護大名をすべて排除し、以後は守護の軍事力に頼らず全国を直接支配した。
幕府軍には他の守護大名も参加しており、義満は有力守護を利用しながら、強大化した勢力を抑える政治を行いました。
出題元の学習トピックを確認する1392年の南北朝合一は、南朝が軍事的に完全消滅した結果ではなく、義満の仲介による交渉を経て後亀山天皇が京都へ移る形で実現した。
後亀山天皇が京都へ移り、三種の神器が北朝側へ渡されることで二つの朝廷の並立が終わりました。
出題元の学習トピックを確認する1392年の南北朝合一によって、地方の守護・国人間の対立や幕府内部の利害対立もすべて解消した。
合一で南朝対北朝という大きな対立軸は解消しましたが、地方や幕府内部の争いまでなくなったわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する室町幕府では、将軍が管領や侍所などを介さず全国の政治・裁判・治安をすべて一人で直接処理した。
幕府には管領・侍所・政所・問注所などがあり、有力守護や実務担当者を組み込んで政治を運営しました。
出題元の学習トピックを確認する三管四職とは、室町幕府に置かれた七種類の別々の官職をまとめた呼称である。
三管領は管領を担う三家、四職は侍所所司を担う四家を指し、七つの官職という意味ではありません。
出題元の学習トピックを確認する室町幕府の問注所は、鎌倉幕府の問注所と同じく時代を通じて主に訴訟処理だけを担当した。
室町期には訴訟機能が次第に縮小し、文書・記録の保存や管理が中心になりました。
出題元の学習トピックを確認する奉公衆は守護大名を通さず将軍へ直接仕え、将軍自身の軍事的基盤を支えた。
有力守護だけに軍事力を依存しないため、将軍直属の奉公衆が警護や軍事行動を担いました。
出題元の学習トピックを確認する室町幕府は、有力守護を中央政治へ組み込みながら、奉公衆のような将軍直属勢力も持つ構造だった。
守護大名の力を政権内部で利用しつつ、将軍直属の人的・軍事基盤も確保することで幕府は成り立っていました。
出題元の学習トピックを確認する倭寇とは、室町幕府が朝鮮・中国沿岸へ派遣した日本人だけの正規軍を指す。
倭寇は幕府の正規軍ではなく、実態も時期・地域によって異なる多様な海上武装勢力でした。
出題元の学習トピックを確認する足利義満が明から日本国王として扱われたことは、日本国内で天皇に代わる君主になったことを意味する。
日本国王は明の皇帝を中心とする外交秩序上の位置づけであり、日本国内の天皇制を置き換えたという意味ではありません。
出題元の学習トピックを確認する勘合は、明側が来航船を正式な日本の使節・貿易船として確認するための仕組みとして用いられた。
倭寇などの非公認勢力と公的な使節を区別し、正式な外交・貿易を管理するため勘合が利用されました。
出題元の学習トピックを確認する1404年に始まった日明貿易は、その後中断せず室町幕府だけが一貫して独占した。
1411年に中断し1432年に再開され、のちには守護大名・寺院・博多や堺の商人も深く関わりました。
出題元の学習トピックを確認する室町期の琉球は室町幕府とは別に明と直接関係を結び、進貢と交易を展開した。
1372年から中山王察度の進貢が始まったとされ、琉球は独自に明との外交・交易関係を築きました。
出題元の学習トピックを確認する二毛作は室町時代の開始と同時に日本全国へ一斉に普及した新しい農法だった。
二毛作は鎌倉時代後期からすでにみられ、室町時代にも普及には地域差がありました。農業の集約化は長期的な変化です。
出題元の学習トピックを確認する馬借や問丸は、生産地から市場・都市・港へ商品や年貢を動かす流通の担い手だった。
馬借は陸上輸送、問丸は保管・中継・輸送や取引などに関わり、農村と市場・都市・港を結びました。
出題元の学習トピックを確認する渡来銭は商人同士の取引だけに用いられ、農村の年貢納入や金融取引には関係しなかった。
代銭納が行われる場合もあり、銭貨は年貢納入や土地・金融取引にも関わりました。
出題元の学習トピックを確認する惣村は寄合や惣掟を持ったが、現代的な意味で構成員全員が完全に平等な民主社会だったわけではない。
惣村には構成員資格や村内の序列もありました。重要なのは、村自身が共同管理や秩序形成を担った点です。
出題元の学習トピックを確認する地下請とは、農民が領主支配から完全に離れ、年貢を納めなくてよくなった制度である。
地下請は村が一定額の年貢納入をまとめて請け負う仕組みで、自治の余地と同時に集団で納入責任を負いました。
出題元の学習トピックを確認する北山文化は1397年の北山殿造営を境に、それ以前とのつながりなく突然始まった文化である。
禅宗文化、公家と武家の交流、中国との往来、猿楽・連歌などはそれ以前から発達しており、北山文化は義満期を中心とする文化的まとまりです。
出題元の学習トピックを確認する五山禅僧は宗教活動だけでなく、漢文学・学問・外交文書作成などにも関わった。
五山禅僧は中国の書物や漢文に通じ、幕府の外交や知的活動を支える知識人でもありました。
出題元の学習トピックを確認する足利義満が1375年に猿楽能を初めて創作し、観阿弥・世阿弥へ教えたことから能が始まった。
猿楽は以前から存在し、観阿弥・世阿弥がそれを洗練しました。義満は彼らを評価し保護した重要な後援者です。
出題元の学習トピックを確認する中国文化の受容は1404年の日明貿易開始以前から禅僧の往来や交易を通じて進んでいた。
天龍寺船などの交易や禅僧の交流が先行しており、日明貿易の開始だけを中国文化受容の出発点とはできません。
出題元の学習トピックを確認する北山文化は武士だけが担い、公家や禅僧、中国文化の影響とはほとんど関係しなかった。
北山文化は武家・公家・禅宗・中国文化など、多様な担い手と文化が京都で交わった点に特徴があります。
出題元の学習トピックを確認する正長の土一揆は、貨幣経済とは無関係に貧しい農民だけが高利貸しへ反発して起こした事件だった。
貨幣・金融の発達で貸借関係が広がり、飢饉・疫病などの不安も重なりました。農民だけでなく馬借なども集団行動に関わりました。
出題元の学習トピックを確認する惣村などの地域的結合や馬借の交通ネットワークは、徳政要求が広域的な集団行動へ発展する基盤の一つとなった。
村の共同運営の経験と、交通の要地を結ぶ馬借などのネットワークが、一揆の拡大を支える背景となりました。
出題元の学習トピックを確認する1428年には室町幕府が全国一律の徳政令を出し、それに従って正長の土一揆が始まった。
幕府が全国一律の徳政令を出したのではなく、一揆勢が質物奪還や証文破棄などの私徳政を実力で進めました。
出題元の学習トピックを確認する柳生徳政碑は1428年の徳政を伝える重要資料だが、碑文が実際に刻まれた時期まで1428年と断定できるわけではない。
徳政一揆による負債取り消しを記念したとする説が有力ですが、陰刻時期には諸説があります。
出題元の学習トピックを確認する正長の土一揆は、日本史上で民衆が集団で抵抗した最初の出来事であり、それ以前には一揆や集団行動は存在しなかった。
以前にも荘園百姓などの集団的抵抗はあり、正長の土一揆は大規模・広域的な徳政一揆として強く意識された事件です。
出題元の学習トピックを確認する1428年の将軍後継者選定で使われた籤は、中世社会で神仏の意思を問う方法として政治的決定にも用いられた。
義円が選ばれた籤は、単なる娯楽的な抽選ではなく、神仏の意思を確認する方法として受け止められていました。
出題元の学習トピックを確認する足利義教は管領や守護大名を幕府政治からすべて排除し、将軍一人だけで政治を行う制度へ変えた。
義教は既存の幕府機構を廃止せず、有力守護を組み込みながら将軍による統制を強めようとしました。
出題元の学習トピックを確認する「万人恐怖」という言葉だけから、義教の政治を理由のない処罰だけを行う暴君政治と説明すれば十分である。
強圧的な処分は重要ですが、有力守護や寺社にも将軍の命令を及ぼす政治秩序を作ろうとした側面も区別して理解する必要があります。
出題元の学習トピックを確認する1441年の嘉吉の乱で義教が殺害されると、室町幕府そのものも同年に滅亡した。
幕府は赤松氏を討伐して存続しました。ただし義教個人が主導した強い将軍政治は大きな打撃を受けました。
出題元の学習トピックを確認する嘉吉の徳政一揆では、一揆の圧力を受けて室町幕府自身が徳政令を出した点が、正長の土一揆との重要な違いである。
正長の土一揆では幕府の全国一律の徳政令はなく私徳政が広がりましたが、1441年には幕府が徳政令を発しました。
出題元の学習トピックを確認する鎌倉府は京都の室町幕府から命令を伝えるだけの出先機関で、東国に独自の政治基盤を持たなかった。
鎌倉府は幕府秩序に属しつつ、鎌倉公方のもとに武士を抱え、東国を統治する独自の政治基盤も形成しました。
出題元の学習トピックを確認する永享の乱には、京都の将軍義教と鎌倉公方持氏の対立だけでなく、持氏と関東管領上杉憲実の対立も重なっていた。
鎌倉府内部の公方・関東管領の対立へ京都幕府が介入したことが、永享の乱の重要な構造です。
出題元の学習トピックを確認する1439年に足利持氏が自害すると、鎌倉公方を支持する勢力も消え、関東の争乱は終結した。
持氏の遺児を擁立した結城合戦が続き、その後は足利成氏が鎌倉公方となって政治を再開しました。
出題元の学習トピックを確認する享徳の乱は1454年に始まり、関東では1467年の応仁の乱より前から長期的な政治分裂が進んでいた。
享徳の乱は1482年まで続き、京都の応仁の乱とは異なる経緯で関東の内乱が先行していました。
出題元の学習トピックを確認する1467年の応仁の乱を境に、日本列島のすべての地域で同時に政治秩序が崩れ始めた。
関東では享徳の乱がすでに1454年から続いており、地域ごとに政治秩序の変化の時期と経緯は異なりました。
出題元の学習トピックを確認する応仁の乱は、足利義政の後継問題だけが原因となって起きた戦争だった。
将軍家の継承問題に加え、畠山氏・斯波氏の家督争いや細川・山名を中心とする有力守護の対立が重なりました。
出題元の学習トピックを確認する応仁の乱が長期化した背景には、参加勢力ごとに家督・所領など複数の争点があり、一つの問題だけを解決しても戦争を終えにくかったことがある。
1473年に勝元・宗全が死去しても各勢力の争点は残り、戦闘は1477年まで続きました。
出題元の学習トピックを確認する応仁の乱によって京都は完全に消滅し、戦乱中には生活・商業・宗教活動がすべて停止した。
大きな被害は受けましたが、人々の生活や商業・宗教活動は戦乱中も続き、乱後には都市社会の再編も進みました。
出題元の学習トピックを確認する応仁の乱前から関東では享徳の乱が続いており、戦国時代への政治的変化は地域ごとに異なる時期・経緯で進んだ。
本サイトでは1467年を区切りとしますが、全国が同時に一斉変化したのではなく、関東などでは政治分裂が先行していました。
出題元の学習トピックを確認する1467年に応仁の乱が始まった時点で室町幕府は滅亡し、足利将軍家も政治から消えた。
室町幕府は応仁の乱後も存続し、1573年まで続きました。1467年は幕府・守護大名秩序が大きく動揺する転換点です。
出題元の学習トピックを確認する中世の北海道と本州は交易上ほぼ切り離されており、十三湊を介した物資移動はほとんどなかった。
十三湊などを介して中国製陶磁器・銅銭などが北海道へ、昆布・鮭などが本州へ動く北方交易が発達しました。
出題元の学習トピックを確認する道南ではアイヌ・和人間の交易が発達する一方、生活圏・資源・勢力関係をめぐる摩擦や武力衝突も起こり得た。
交流と対立は排他的ではなく、接触が増えるなかで交易と緊張の双方が存在していました。
出題元の学習トピックを確認する『新羅之記録』は1457年の戦いと同時期に作成された一次記録なので、小刀をめぐる発端の話をそのまま確定事実として扱える。
『新羅之記録』は1646年成立の後世史料で、松前氏の由緒を含むため史料批判が必要です。
出題元の学習トピックを確認する1457年に大きな武力衝突が起きたことと、後世史料が伝える戦闘の細部とは区別して理解する必要がある。
戦いの細部は主として後世史料に依存するため、事件そのものと後代に整理された具体的物語を分けて扱います。
出題元の学習トピックを確認するコシャマインの戦い後、アイヌと和人の交易・社会的接触は完全に断絶し、道南は直ちに和人だけの社会となった。
勝山館などを通じて交易・接触は続き、考古資料からもアイヌと和人の関わりが確認されています。
出題元の学習トピックを確認する1372年の察度による遣明は、室町幕府を仲介せず琉球の支配者が明と直接外交関係を結んだ重要な節目である。
琉球は足利将軍を介したのではなく、自ら使節を送り明の外交秩序へ直接参加しました。
出題元の学習トピックを確認する琉球の進貢貿易は、明から命じられた貢物を受動的に納めるだけで、琉球側が独自に船や使節を組織する余地はなかった。
琉球王府は明との外交制度を利用しながら、自ら船・使節を送り海上交易ネットワークを広げました。
出題元の学習トピックを確認する1429年の三山統一によって、琉球王国の統治制度と中央集権化はその年にすべて完成した。
統一後も王位継承争いや各地の按司統制の課題があり、中央集権化は後の時代にも進みました。
出題元の学習トピックを確認する琉球の中継貿易の発展には地理的位置だけでなく、王府による外交関係の構築や航海・通訳などを支える組織化も重要だった。
東シナ海の位置に加え、王府が各地域へ継続的に使節・交易船を送り、外交と航海を運営したことが繁栄を支えました。
出題元の学習トピックを確認する1458年の万国津梁の鐘が鋳造されたことで初めて琉球の海外交易が始まり、その後に明との外交が成立した。
明との外交は1372年から続き、中継貿易も先に発展していました。鐘はそうした海上交易国家としての王国像を象徴する史料です。
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