鎌倉府と関東の争乱―将軍・鎌倉公方・関東管領の対立はなぜ長期内乱へ進んだのか
一言でいうと
室町時代の関東では、京都の幕府がすべてを直接統治していたわけではありません。1349年に足利尊氏の子・足利基氏が鎌倉へ下り、その後、鎌倉公方と関東管領を中心とする鎌倉府の体制が形成されました。鎌倉府は室町幕府の秩序に属しながら、東国を統治する独自の政治基盤も持っていました。この二重性のなかで、鎌倉公方と京都の将軍、さらに鎌倉府内部の関東管領との対立が深まり、1438年の永享の乱、1440年の結城合戦、1454年の享徳の乱へつながります。1455年には足利成氏が古河へ移り、古河公方が成立しました。関東では応仁の乱より前から長期的な政治分裂が進んでいたことを理解します。
鎌倉府とはどのような政治組織だったのか
室町幕府成立後、東国を統治する拠点として鎌倉に置かれた政治組織が鎌倉府です。1349年、足利尊氏の子足利基氏が鎌倉へ下り、その基礎が整いました。
基氏の子孫は鎌倉府の長として鎌倉公方と呼ばれるようになります。その補佐役として重要だったのが関東管領で、主に上杉氏が務めました。
鎌倉府を単なる京都幕府の出先機関と考えるのは不十分です。京都の将軍と結びつきながら、鎌倉公方のもとに奉公する武士などを抱え、東国を統治する独自の政治基盤も形成しました。
なぜ京都の将軍と鎌倉公方は対立しやすかったのか
鎌倉公方は足利将軍家の一族であり、室町幕府の秩序と無関係な独立君主ではありませんでした。一方で、代を重ねるにつれて関東の武士との結びつきを深め、東国政治の中心として独自の権力基盤を持つようになります。
京都から見れば鎌倉公方は幕府秩序のなかで将軍に従うべき存在ですが、鎌倉公方側には東国を実際に統治する足利氏の政権としての自負と利害がありました。
さらに関東管領は鎌倉公方を補佐しながら、京都の幕府とも結びついていました。したがって関東政治は「京都の将軍対鎌倉公方」だけではなく、鎌倉府内部の公方と関東管領の関係まで含めて見る必要があります。
永享の乱はなぜ起こったのか
4代鎌倉公方足利持氏の時代、京都の6代将軍足利義教との関係が緊張しました。ただし義教が最初から鎌倉府の征討だけを目指していたわけではなく、両者が関係修復を試みた時期もありました。
同時に鎌倉府内部では、持氏と関東管領上杉憲実の対立が深まります。政治方針や東国支配をめぐる対立が決定的になると、持氏は憲実に対する軍事行動へ進みました。
1438年、義教は憲実側を支持して持氏追討に動き、永享の乱が起こります。持氏は敗れ、1439年に自害しました。永享の乱は、京都幕府と鎌倉公方の対立に、鎌倉府内部の公方と関東管領の対立が重なった事件として理解します。
持氏が死んだあとも、なぜ争いは終わらなかったのか
永享の乱で持氏が死んでも、鎌倉公方を支持する関東の武士たちまで消えたわけではありませんでした。
1440年、下総の武将結城氏朝らは、持氏の遺児である春王丸・安王丸を擁立して幕府に抵抗しました。これが結城合戦です。
幕府軍は結城城を攻め、1441年に結城方は敗北しました。春王丸・安王丸も捕らえられて殺害されます。この戦いは、永享の乱後も関東で鎌倉公方をめぐる政治対立が継続していたことを示します。
資料を見る:文化遺産オンライン「紙本著色結城合戦絵詞」
なぜ鎌倉公方は再び置かれたのか
結城合戦後も、関東では鎌倉公方を政治的な中心として必要とする勢力が残っていました。その後、持氏の遺児である足利成氏が鎌倉公方として政治を再開します。
鎌倉公方は関東の武士にとって、所領や権利を認め、争いを裁定する権威でもありました。鎌倉府が持氏個人だけで成り立っていたのではなく、関東社会の政治秩序に組み込まれた存在だったことが分かります。
しかし、公方が復活しても持氏の時代から続く上杉氏との対立は解消しませんでした。この対立が次の享徳の乱へつながります。
享徳の乱はなぜ始まったのか
1454年、足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことをきっかけに、享徳の乱が始まりました。
永享の乱で表面化した鎌倉公方と上杉氏の対立が、次の世代でも再燃したことになります。京都の幕府も上杉氏側を支援し、関東各地の武士が公方方・上杉方などに分かれて戦いました。
享徳の乱は短期間では終わらず、1482年の和睦まで続きます。関東では、1467年に京都で応仁の乱が始まるより前から、長期内乱と政治勢力の再編が進んでいました。
なぜ古河公方が生まれたのか
享徳の乱が始まると成氏は鎌倉を維持できなくなり、1455年に下総の古河へ拠点を移しました。ここから成氏とその後継者は古河公方と呼ばれます。
これは単に鎌倉公方が引っ越したという話ではありません。鎌倉という従来の政治中心を失っても、成氏は北関東などの武士から支持を得て、公方として政治勢力を維持しました。
鎌倉府という一つの政治中心が崩れたあとも、公方と上杉氏など複数の勢力が並立・対立する状態が続いたことが、室町後期の関東政治の大きな特徴です。
関東の内乱は応仁の乱とどうつながるのか
本サイトでは1467年を室町時代と戦国時代の境界にしていますが、日本列島の各地域が1467年に一斉に同じ変化をしたわけではありません。
関東では享徳の乱が1454年にすでに始まり、1467年を越えて1482年まで続きました。京都の応仁の乱とは別の経緯から、長期的な政治分裂が先行していたことになります。
したがって「応仁の乱が起きて初めて全国が乱れた」と理解せず、地域ごとに異なる政治秩序の崩れ方があったことを押さえます。
このページで覚えたい流れ
1349年 足利基氏が鎌倉へ下る → 鎌倉公方・関東管領を中心とする鎌倉府が形成 → 鎌倉公方の独自性が強まる → 足利持氏と関東管領上杉憲実が対立 → 京都の足利義教も介入 → 1438年 永享の乱 → 持氏自害 → 1440年 結城合戦 → 足利成氏が鎌倉公方として政治を再開 → 成氏と上杉氏が再び対立 → 1454年 享徳の乱 → 1455年 成氏が古河へ移り古河公方が成立 → 関東の長期内乱へ
京都の室町幕府だけで室町政治を完結させず、鎌倉府内部の対立と京都幕府との関係が重なって、関東独自の長期内乱へ進んだことを理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 鎌倉府は鎌倉公方と関東管領を中心に東国を支配し、鎌倉公方は足利基氏の系統、関東管領は主に上杉氏
- 永享の乱は将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏の対立だけでなく、持氏と関東管領上杉憲実の対立も重要
- 永享の乱後、持氏の遺児を擁立して起こったのが1440年の結城合戦
- 享徳の乱は1454年の足利成氏による関東管領上杉憲忠殺害を契機に始まった
- 1455年に成氏が古河へ移り、古河公方が成立した
- 享徳の乱は1482年まで続き、関東では応仁の乱以前から長期的な政治分裂が進んでいた
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- 問1
鎌倉府は京都の室町幕府から命令を伝えるだけの出先機関で、東国に独自の政治基盤を持たなかった。
鎌倉府は幕府秩序に属しつつ、鎌倉公方のもとに武士を抱え、東国を統治する独自の政治基盤も形成しました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
永享の乱には、京都の将軍義教と鎌倉公方持氏の対立だけでなく、持氏と関東管領上杉憲実の対立も重なっていた。
鎌倉府内部の公方・関東管領の対立へ京都幕府が介入したことが、永享の乱の重要な構造です。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1439年に足利持氏が自害すると、鎌倉公方を支持する勢力も消え、関東の争乱は終結した。
持氏の遺児を擁立した結城合戦が続き、その後は足利成氏が鎌倉公方となって政治を再開しました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
享徳の乱は1454年に始まり、関東では1467年の応仁の乱より前から長期的な政治分裂が進んでいた。
享徳の乱は1482年まで続き、京都の応仁の乱とは異なる経緯で関東の内乱が先行していました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1467年の応仁の乱を境に、日本列島のすべての地域で同時に政治秩序が崩れ始めた。
関東では享徳の乱がすでに1454年から続いており、地域ごとに政治秩序の変化の時期と経緯は異なりました。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 動乱の東国史 第5巻 鎌倉府と室町幕府国立国会図書館サーチ
鎌倉府の構造、鎌倉公方と室町幕府・関東管領の関係を確認する参考文献
- 足利義教期の対関東政策CiNii Research・史学研究会
永享の乱に至る義教・持氏・関東管領の関係を単純化しないための研究
- 紙本著色結城合戦絵詞文化遺産オンライン
永享の乱後の持氏遺児と結城氏による1440〜1441年の結城合戦を確認する文化財資料
- 古河公方 足利氏古河市 古河歴史博物館
1455年の足利成氏の古河移転と古河公方成立を確認する公的資料
- 享徳の乱、江の島合戦について詳細に書かれている資料を見たい。国立国会図書館 レファレンス協同データベース(鎌倉市中央図書館)
享徳の乱が1454年に始まり1482年の和睦まで続いたことを確認する資料
