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室町時代1349〜1352年を中心に政治・外交重要度 A

観応の擾乱と半済令―幕府内部の対立と長期内乱はどう地方支配を変えたのかかんのうのじょうらんとはんぜいれい ばくふないぶのたいりつとちょうきないらんはどうちほうしはいをかえたのか

一言でいうと

室町幕府成立直後、足利尊氏と弟の足利直義は役割を分担して政権を運営していました。しかし、尊氏の執事で軍事・恩賞に大きな影響力を持った高師直と、政務・裁判を担った直義との対立が激しくなり、やがて尊氏と直義自身の争いへ発展します。これが観応の擾乱です。幕府内部の争いは南北朝の対立とも結びつき、各勢力は地方武士を味方につけるため軍事動員と恩賞を繰り返しました。そのなかで1352年には、戦費・兵粮を確保するため本所領の年貢半分を軍勢に充てる半済令が出されます。観応の擾乱と半済令を、長期内乱のなかで守護や有力武士の役割が拡大し、室町時代の地方支配が変化していく転換点として理解します。

尊氏と直義は最初から対立していたのか

そうではありません。室町幕府成立後、足利尊氏あしかがたかうじと弟の足利直義あしかがただよしは役割を分担して政権を運営しました。

尊氏は将軍として武士との主従関係や恩賞などに関わり、直義は政務や裁判を広く担当しました。直義のもとには内談方ないだんかたが置かれ、所領をめぐる訴訟なども処理されました。

つまり尊氏がすべてを一人で決めていたわけではありません。幕府成立初期には、尊氏と直義が異なる役割を担うことで政権が成り立っていました。

高師直と直義はなぜ対立したのか

尊氏を支えた有力者の一人が高師直こうのもろなおです。師直は尊氏の執事として、軍事行動や武士との関係で大きな役割を果たしました。

南朝との戦いが続くなかでは、実際に戦う武士を組織し、その功績に報いることが政権維持のため重要でした。一方、直義は所領秩序や裁判など政務を担っていました。

二人を単純に「武士を優遇する師直」と「荘園領主を守る直義」という二つの思想だけに分ける必要はありません。ただし、軍事動員と恩賞を重視する政治と、所領秩序や裁判を重視する政治の間に緊張が生じたことは重要です。

やがて直義と師直の政治的対立は深まり、幕府内部の有力武士もそれぞれの側へ分かれていきました。

なぜ観応の擾乱が始まったのか

1349年、師直側の圧力によって直義は政務から退きました。しかし対立はこれで終わりません。

1350年、直義は京都を離れて挙兵し、師直・高師泰こうのもろやすらに対抗します。さらに直義は南朝とも結びました。

もともと北朝を支えていた室町幕府の内部対立に南朝が関わり、尊氏・師直方と直義方の争いは各地の守護・武士を巻き込む大規模な内乱になりました。これを観応の擾乱かんのうのじょうらんと呼びます。

観応の擾乱を単なる足利兄弟の家族争いと考えず、幕府内部の権力関係と南北朝内乱が結びついた全国規模の争乱として理解します。

高師直が死ねば争いは終わったのか

終わりませんでした。1351年、直義方が優勢となり、尊氏と直義はいったん和睦します。その後、高師直・師泰兄弟は殺害されました。

しかし今度は、尊氏と直義自身の政治的対立が再び表面化しました。直義は再び京都を離れ、尊氏と各地で争うことになります。

観応の擾乱が重要なのは、幕府内部の対立が「直義対師直」から「尊氏対直義」へ変化しながら続いたことです。幕府を率いる足利氏自身が分裂したため、地方の武士たちもどちらにつくのか判断を迫られました。

尊氏はなぜ南朝と講和したのか

尊氏は直義との戦いを有利に進めるため、1351年に南朝と講和しました。尊氏は本来、京都の北朝を支えて幕府を成立させた人物ですが、幕府内部の内戦のなかでは南朝との協力を選んだのです。

この講和によって北朝はいったん停止され、南朝側へ皇統を一本化する形がとられました。これを正平の一統しょうへいのいっとうと呼びます。

しかし、この状態は長続きしません。1352年には再び南朝と尊氏方が対立し、南北朝の内乱が再開しました。この時期は「北朝対南朝」という二陣営だけでは説明できず、幕府内部の争いと南北朝の対立が重なっていました。

観応の擾乱が終わると政治は安定したのか

尊氏は直義を追って東国へ進み、1352年初めに直義を降伏させました。直義は鎌倉に入り、その後まもなく死去します。

直義の死については毒殺説も知られていますが、確定した事実として扱う必要はありません。学習上重要なのは、直義の死によって尊氏との直接的な争いが終わったことです。

しかし南北朝の戦争は続き、直義側についていた武士も各地で活動しました。幕府は地方の守護や武将を味方につなぎ止め、軍勢を維持するため、軍事費や恩賞を確保し続けなければなりませんでした。

半済令とは何のために出されたのか

1352年、幕府は半済令はんぜいれいを出しました。南北朝の内乱では、多数の武士を長期間戦わせるための兵粮や軍事費が必要でした。

まず近江・美濃・尾張の3か国について、本所領の年貢半分を兵粮料所ひょうろうりょうしょとして、その年に限って軍勢へ預けることが認められました。残り半分は従来の荘園領主へ渡すこととされ、同年には対象地域がさらに広げられました。

最初から「荘園の土地半分を永久に守護へ与える制度」だったわけではありません。もともとは戦時の兵粮・軍費を確保するための臨時的な措置だった点が重要です。

なぜ半済が守護の力を強めることになったのか

半済を実施するうえでは、各国で軍勢をまとめる守護の役割が重要になりました。守護は国内の荘園や所領に関与し、軍事費を確保し、配下の武士へ利益を配分する立場を強めていきます。

これは軍事・警察上の職務を中心とした鎌倉時代の守護からの大きな変化です。南北朝の内乱のなかで、守護は荘園・公領の経済的な権益や国内武士の統制にも深く関わるようになりました。

ただし「1352年の半済令によって、その瞬間に守護大名が完成した」と考えるのは早すぎます。半済の展開、守護請、国内武士との主従関係など、複数の変化が重なることで守護は次第に守護大名へ成長していきます。

このページで覚えたい流れ

尊氏と直義が役割を分担して幕府を運営 → 高師直と直義の対立が深まる → 1349年、直義が政務から退く → 1350年、直義が挙兵 → 観応の擾乱 → 直義が南朝とも結ぶ → 1351年、高師直・師泰が殺害される → 尊氏と直義が直接対立 → 尊氏が南朝と講和 → 正平の一統 → 尊氏が直義を破る → 1352年、直義死去 → 南北朝内乱は続く → 幕府は地方武士の軍事力と兵粮を必要とする → 1352年、半済令 → 守護の荘園・国内武士への関与が拡大 → 守護大名の成長へ

観応の擾乱と半済令を別々の暗記事項にせず、長期内乱による軍事動員が幕府内部の権力関係と地方支配を変えていった流れとして理解します。

Review

入試で押さえるポイント

  • 観応の擾乱は1350〜1352年を中心とする室町幕府内部の大規模な内乱
  • 足利直義は政務・裁判、高師直は尊氏の執事として軍事面などで大きな役割を担った
  • 対立は直義対師直だけで終わらず、足利尊氏対直義の争いへ発展
  • 尊氏が南朝と講和した結果、一時的に正平の一統が成立
  • 1352年の半済令は当初、戦費・兵粮確保のため本所領の年貢半分を軍勢へ充てる臨時措置
  • 長期内乱のなかで守護の軍事・経済・地方支配上の役割が拡大し、守護大名の成長へつながった

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    室町幕府成立初期には、足利尊氏と直義が役割を分担して政権を運営していた。

  2. 問2

    観応の擾乱は、足利尊氏と直義の個人的な兄弟げんかだけで起きた局地的な争いだった。

  3. 問3

    1351年に高師直・師泰が殺害されると、観応の擾乱はその時点で完全に終結した。

  4. 問4

    1352年の半済令は当初、本所領の年貢半分を戦時の兵粮・軍費へ充てる臨時的措置として出された。

  5. 問5

    1352年に半済令が出されたことで、その年に全国の守護が一斉に守護大名へ完成した。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 観応の擾乱が起こる
  2. 半済令が出される
  3. 後醍醐天皇が吉野へ移り南北朝の内乱が始まる
  4. 守護が国内支配を強め守護大名へ成長する

Sources

参考資料

  1. 古代中世法制史料の解説東京大学デジタルアーカイブポータル

    足利直義が政務の大部分を担い、内談方で訴訟審理を行ったことを確認する参考資料

  2. 観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い国立国会図書館サーチ

    観応の擾乱の全体像と尊氏・直義・高師直・南朝の関係を確認する参考資料

  3. 群書類従 第505-506冊(巻406上下)国立国会図書館デジタルコレクション

    半済令を含む『建武以来追加』を収録する法制史料の参考資料