米国施政権下の沖縄と島ぐるみ闘争―日本の主権回復後も沖縄はなぜ米軍統治下に置かれたのか
一言でいうと
沖縄では1945年の地上戦後から米軍による統治が始まり、本土で連合国占領が終わった1952年4月28日以後も米国施政権が続きました。サンフランシスコ平和条約第3条は、北緯29度以南の南西諸島などについて、信託統治提案が行われるまで米国が行政・立法・司法の権限を行使できると定めたためです。米国民政府(USCAR)の管理下には1952年に琉球政府が設けられましたが、最終的な統治権限は米側にありました。冷戦と朝鮮戦争を背景に沖縄の軍事的重要性が高まると、米軍は基地を拡張し、1950年代には土地の強制接収を進めました。これに対して琉球政府立法院などは、一括払い反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対という「土地を守る四原則」を掲げます。1956年、米国議会のプライス勧告が従来の軍用地政策をおおむね支持すると、反対運動は地主だけでなく政党、労働組合、市町村、住民へ広がり、「島ぐるみ闘争」と呼ばれる大規模な運動になりました。この経験は自治権拡大や日本復帰を求める運動にもつながり、1960年には沖縄県祖国復帰協議会が結成されます。したがって戦後沖縄史では、1952年の日本の主権回復と沖縄の米国施政権継続を区別し、基地建設・土地問題と住民運動がどのように結びついたかを見る必要があります。
なぜ1952年に日本が主権を回復しても沖縄の米国施政権は終わらなかったのか
沖縄では1945年の沖縄戦の過程で米軍が上陸し、日本政府から切り離された軍政が始まりました。本土では連合国軍総司令部による占領が続きましたが、沖縄では米軍が地域を直接統治する体制が形成されました。
1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約の第3条は、北緯29度以南の南西諸島などについて、米国が国連へ信託統治を提案でき、それまでの間、米国が行政・立法・司法のすべての権限を行使できると定めました。この条項により、条約が発効した1952年4月28日にも沖縄の施政権は日本政府へ戻りませんでした。
したがって1952年4月28日は、本土にとっては占領終了と主権回復の日でしたが、沖縄にとっては米国施政権の継続が制度的に明確になった日でもありました。後に沖縄の復帰運動では、この日が『4・28』として重要な象徴になります。
1952年4月28日を『沖縄を含む日本全国の占領が終わった日』とは扱いません。本土の主権回復と沖縄の施政権問題は分けて理解する必要があります。
USCARと琉球政府はどのような関係だったのか
米軍統治の組織は戦後に何度か変わり、1950年12月には琉球列島米国民政府(USCAR)が設置されました。USCARは米国の統治機関として、沖縄を含む琉球列島の行政を監督しました。
1952年4月1日には、沖縄・宮古・八重山などの群島別政府を統合する形で琉球政府が発足しました。琉球政府は立法・行政・司法の三権を備え、住民の日常行政を担いましたが、USCARの管理下に置かれ、米側が最終的な権限を保持していました。
つまり、琉球政府が存在したから沖縄が独立した主権国家になったわけでも、日本政府の施政権が回復したわけでもありません。住民による政治参加や自治の制度が整えられる一方、その上位に米国施政権がある二重の構造でした。
なぜ軍用地の接収が大きな政治問題になったのか
冷戦の深まりと朝鮮戦争を背景に、米国は沖縄を東アジアの軍事拠点として重視し、基地の恒久化・拡張を進めました。講和発効後、軍用地を使用する契約を地主と結ぼうとしましたが、提示された地代や契約条件への反発が強く、契約に応じない地主も多くいました。
米側は布令を根拠に土地接収を進め、1953年以後、武装兵やブルドーザーを伴う強制接収が行われました。1955年には伊江島真謝や宜野湾村伊佐浜などでも住民の立ち退きを伴う接収が進み、後に『銃剣とブルドーザー』と表現される基地拡張が、生活・農地・地域社会に直接かかわる問題となりました。
さらにUSCARは1954年、軍用地料を一括払いする方針を示しました。住民側には、それが長期にわたる基地使用を固定し、実質的な土地買い上げにつながるという強い懸念がありました。こうして基地問題は安全保障の抽象的な論争ではなく、土地所有と生活再建をめぐる切実な争点になりました。
『土地を守る四原則』とプライス勧告は何をめぐって対立したのか
1954年4月、琉球政府立法院は軍用地問題について請願決議を行い、やがて『土地を守る四原則』として共有される要求を掲げました。内容は、土地の買い上げ・地料一括払いに反対すること、使用中の土地へ適正な補償を毎年支払うこと、米軍による損害へ適正な賠償を行うこと、不要地を解放し新規接収を避けることでした。
琉球政府や立法院、市町村長、軍用地主らは四原則を基礎に米側と交渉し、1955年には代表団を米国へ派遣しました。米国下院軍事委員会はプライス議員を団長とする調査団を沖縄へ送り、翌1956年6月に報告書を公表します。
しかしプライス勧告は、沖縄の基地を米国の極東戦略に重要な拠点と位置づけ、従来の軍用地政策をおおむね支持しました。沖縄側が求めた四原則の多くが退けられたため、失望と反発が急速に広がりました。
なぜ土地問題は『島ぐるみ闘争』へ広がったのか
プライス勧告が伝えられた1956年6月、沖縄各地で四原則の貫徹を求める住民大会が開かれました。6月25日には那覇とコザの大会に計15万人が集まったと沖縄県公文書館は記録しています。軍用地主だけでなく、市町村、政党、労働組合、青年・婦人団体など幅広い人びとが参加し、運動は全島規模になりました。
この運動が『島ぐるみ』と呼ばれたのは、個々の地主と米軍の契約問題を越え、土地を守ること、自治を拡大すること、米国統治そのものを問い直すことが結びついたからです。米軍基地が広い土地を占める沖縄では、軍用地政策が地域社会全体の将来に関わる問題として受け止められました。
運動の結果、米側の政策にも修正が生じました。1958年には軍用地料の一括払いを中止する方針が示され、その後の新土地計画では原則として年払いなどが採用されました。要求がすべて実現したわけではありませんが、島ぐるみ闘争は住民運動が統治政策を動かし得ることを示しました。
島ぐるみ闘争は日本復帰運動とどうつながったのか
米国施政権の継続に対する不満は、土地問題だけに限られませんでした。行政上の最終権限が米側にあることや基地負担を背景に、日本への復帰を求める運動も続きました。1953年に奄美群島が日本へ返還されたことは、沖縄でも復帰を現実の政治課題として意識させる一つの材料になりました。
1960年4月28日には、教職員会、労働組合、政党など幅広い団体が参加して沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成されました。4月28日という日付は、1952年に本土の占領が終わる一方で沖縄では米国施政権が続いたことを示す象徴として、復帰要求の行動と結びつきました。
ただし、1972年の返還交渉や返還後も残った米軍基地の問題は別の段階です。このTopicでは、1950年代の土地闘争を通じて米国統治への異議申し立てと自治・復帰要求が強まり、1960年代の復帰運動の組織化へつながったところまでを押さえます。
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入試で押さえるポイント
- サンフランシスコ平和条約第3条により、1952年4月28日の日本の主権回復後も沖縄では米国が行政・立法・司法の権限を行使する施政権が続いた
- 1950年にUSCARが設置され、1952年に琉球政府が発足したが、琉球政府は米国民政府の管理下に置かれていた
- 1954年の『土地を守る四原則』は、一括払い反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対を柱とした
- 1956年のプライス勧告が従来の軍用地政策をおおむね支持したことで反対運動が全島へ広がり、島ぐるみ闘争へ発展した
- 島ぐるみ闘争は自治権拡大や日本復帰を求める運動とも結びつき、1960年には沖縄県祖国復帰協議会が結成された
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- 問1
1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効すると、沖縄を含む日本全域で米国による施政権が終了した。
本土では占領が終了しましたが、沖縄では平和条約第3条にもとづき米国の施政権が継続しました。本土の主権回復と沖縄の統治状況は区別する必要があります。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1952年に発足した琉球政府は住民の日常行政を担ったが、USCARの管理下にあり、米側が最終的な統治権限を保持していた。
琉球政府は立法・行政・司法の制度を備えましたが、独立した主権国家でも日本政府の施政権回復でもなく、USCARの管理下に置かれていました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
『土地を守る四原則』は、米軍基地の長期使用を認める代わりに軍用地料を一括で受け取ることを住民側が求めた方針だった。
四原則は土地の買い上げ・地料一括払いに反対し、適正な年払い補償、損害賠償、不要地解放と新規接収反対などを求めました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1956年の島ぐるみ闘争には軍用地主だけでなく、市町村、政党、労働組合、青年・婦人団体など幅広い層が参加し、米側の土地政策にも修正を促した。
プライス勧告への反発から運動は全島規模へ広がり、1958年には軍用地料の一括払い中止など政策修正につながりました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
島ぐるみ闘争によって1956年中に沖縄の施政権は日本へ返還され、復帰運動はそこで終結した。
米国施政権はその後も続きました。土地闘争や自治要求は日本復帰運動とも結びつき、1960年には沖縄県祖国復帰協議会が結成されました。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 1952年4月28日 『対日平和条約』発効沖縄県公文書館
平和条約発効後も沖縄で米国施政権が継続したこと、奄美返還と復帰運動の経過確認に使用。
- 行政主席の時代沖縄県公文書館
1950年のUSCAR設置、1952年4月1日の琉球政府設立と統治機構の確認に使用。
- 1956年6月9日 USCAR、『プライス勧告』を沖縄住民に伝える沖縄県公文書館
軍用地接収、四原則、プライス勧告、住民大会、島ぐるみ闘争とその後の土地政策修正の確認に使用。
- 第1章 基地問題の推移及び現状沖縄県
軍用地問題に関する四原則の具体的内容と四者・五者協議会の確認に使用。
- Treaty of Peace with Japan外務省
サンフランシスコ平和条約第3条が米国へ行政・立法・司法権の行使を認めた条文の確認に使用。
- 日本復帰への道沖縄県公文書館
強制接収、島ぐるみ闘争、奄美返還、沖縄県祖国復帰協議会へ至る戦後沖縄史の流れを確認。
