サンフランシスコ平和条約と旧日米安全保障条約―日本の主権回復はなぜ日米安保体制と結びついたのか
一言でいうと
1951年9月8日、日本はサンフランシスコ平和条約に署名し、同じ日にアメリカ合衆国との旧日米安全保障条約にも署名しました。平和条約は1952年4月28日に発効し、日本は連合国軍による占領から離れて国際社会へ復帰します。しかし、その主権回復は米軍の撤退を意味しませんでした。冷戦と朝鮮戦争が続くなか、日本は自前の大規模な軍事力を持たず、米国は日本を東アジアの安全保障拠点として維持しようとしていました。そのため、占領軍としての米軍駐留は終わる一方、条約にもとづく米軍駐留へ形を変えます。また、沖縄などでは平和条約第3条にもとづいて米国の施政権が続き、1952年4月28日を日本列島すべての『占領終了日』とみなすことはできません。主権回復と日米安保体制は、冷戦下の講和を同じ政治過程の両面として理解する必要があります。
なぜ対日講和は冷戦下の『多数講和』になったのか
敗戦直後には、第二次世界大戦の主要連合国がそろって日本との講和を進めることが想定されていました。しかし米ソ対立が深まり、1949年に中華人民共和国が成立し、1950年には朝鮮戦争が始まると、東アジアでも冷戦が軍事衝突を伴う段階へ入りました。
米国は、日本を長く占領下に置くより、経済的に復興した主権国家として西側陣営に組み込み、安全保障上の拠点として利用できる体制を急ぐようになります。日本の吉田茂内閣も、占領の終了と国際社会への復帰を優先し、全面的な再軍備より経済復興を重視する立場から米国との講和交渉を進めました。
1951年9月4日から8日に開かれたサンフランシスコ講和会議には52か国が参加し、日本を含む49か国が平和条約に署名しました。ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは会議に参加したものの署名せず、中華人民共和国と中華民国はいずれも招請されませんでした。インド、ビルマ、ユーゴスラビアも会議に参加しませんでした。したがって、この講和はすべての対日戦争当事国との関係を一度に解決する『全面講和』ではありませんでした。
サンフランシスコ平和条約は何を定めたのか
平和条約第1条は、条約が日本と各締約国との間で発効した日に戦争状態を終え、連合国が日本とその領水に対する日本国民の完全な主権を承認すると定めました。これによって日本は、占領下の国家から主権国家へ法的地位を移していきます。
条約は同時に、朝鮮、台湾・澎湖諸島、千島列島、南樺太の一部、旧南洋群島などに関する日本の権利・権原・請求権の放棄や、賠償・請求権など戦後処理の原則を定めました。ただし、放棄した地域の帰属先がすべて条文で確定されたわけではなく、後の外交上・領土上の論点も残りました。
第6条は、連合国の占領軍を条約発効後なるべく早く、遅くとも90日以内に撤退させるとしました。ただし、日本と一つ以上の連合国との間の協定にもとづく外国軍隊の駐留は妨げないとも規定しました。この例外が、同日に結ばれた日米安全保障条約と結びつきます。
なぜ平和条約と同じ日に日米安全保障条約が結ばれたのか
日本は敗戦後に旧陸海軍を解体し、1951年時点でも国家防衛を担う本格的な軍隊を持っていませんでした。一方、朝鮮戦争の継続によって東アジアの軍事的緊張は高く、米国は日本から軍事拠点を失うことを望みませんでした。
旧日米安全保障条約は、日本が米国に対し、米陸海空軍を日本国内およびその周辺に配備する権利を与える構造をとりました。米軍は、日本の安全に寄与するとともに、極東の国際的な平和と安全の維持にも使用できるとされました。
この条約は1960年の新しい日米安全保障条約とは異なり、日米双方の防衛義務を対称的に定めたものではありませんでした。また、条約本文には今日のような事前協議制度もありません。講和によって占領を終わらせながら、米軍の駐留を別の法的根拠で継続させるための安全保障枠組みだった点が重要です。
日米行政協定は何を具体化したのか
旧日米安全保障条約第3条は、米軍の日本国内およびその周辺での配備条件を両政府間の行政協定で定めるとしました。これを受け、1952年2月28日に日米行政協定が署名され、平和条約・旧安保条約と同じ4月28日に発効しました。
行政協定は、米軍が使用する施設・区域、軍人・軍属や家族の法的地位、出入国、課税、刑事裁判権など、駐留を実際に運用するための事項を定めました。占領中には連合国軍が占領権限にもとづいて施設を使用していましたが、講和後は日米間の条約・協定にもとづく駐留へ法的性格が変わったのです。
したがって1952年4月28日は、『外国軍が日本からいなくなった日』ではありません。占領統治の法的根拠が終了し、同時に日米安保体制にもとづく米軍駐留が始まった日として捉える必要があります。
1952年4月28日に沖縄を含む日本全域の占領が終わったのか
そうではありません。平和条約第3条は、北緯29度以南の南西諸島、南方諸島などについて、米国を唯一の施政権者とする信託統治制度を国連に提案できることを定め、その提案が行われて可決されるまで、米国が行政・立法・司法上の権力を行使できるとしました。
そのため、本土側ではGHQ/SCAPによる占領統治が終了した一方、沖縄などでは米国の施政権が継続しました。1952年4月28日を『日本の主権回復の日』と呼ぶ場合でも、地域によって経験が異なったことを外してはなりません。
沖縄で米国統治がどのように続き、日本への復帰がどのように争点となったのかは後のTopicで詳しく扱います。ここでは、講和条約が日本全域を一律に同じ状態へ戻したわけではないことを押さえます。
主権回復と日米安保体制をどう結びつけて理解すればよいのか
1952年4月28日の平和条約発効によって、日本政府は占領当局の指令に従う立場を離れ、外交や内政を自ら決定する主権国家として国際社会へ復帰しました。一方、安全保障では米軍駐留を受け入れ、米国との同盟関係を基礎にする道を選びました。
この組み合わせには、冷戦下で安全保障を確保したい日本政府の判断、東アジアに軍事拠点を維持したい米国の戦略、再軍備より経済復興を優先したい吉田内閣の政策が重なっていました。したがって主権回復と米軍駐留の継続は矛盾して別々に起きたのではなく、同じ講和構想のなかで制度化されました。
ただし、サンフランシスコ平和条約に参加しなかった国との関係、沖縄などの施政権、基地をめぐる負担、安全保障のあり方はその後も政治争点として残ります。1951〜1952年の講和は戦後処理の終点ではなく、戦後日本の外交・安全保障体制の出発点でもありました。
Review
入試で押さえるポイント
- サンフランシスコ平和条約は1951年9月8日に署名され、1952年4月28日に発効しました。条約発効によって日本は占領統治から離れ、主権国家として国際社会へ復帰しました。
- サンフランシスコ講和会議には52か国が参加し、日本を含む49か国が署名しました。ソ連・ポーランド・チェコスロバキアは署名せず、中国の二政府は招請されず、インド・ビルマ・ユーゴスラビアも参加しませんでした。
- 旧日米安全保障条約も1951年9月8日に署名され、1952年4月28日に発効しました。占領終了後も米軍が日本国内およびその周辺に駐留する法的枠組みがつくられました。
- 1952年2月の日米行政協定は、米軍の施設・区域や軍人・軍属の地位など、駐留の具体的条件を定めました。
- 1952年4月28日を沖縄を含む日本全域の占領終了日とみなしてはいけません。平和条約第3条にもとづき、沖縄などでは米国の施政権が続きました。
- 主権回復と日米安保体制は、冷戦・朝鮮戦争下で同時に形成された戦後日本の外交・安全保障秩序として関連づけて理解します。
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- 問1
サンフランシスコ平和条約は、第二次世界大戦で日本と交戦したすべての国が参加・署名し、対日戦後処理を一度に全面解決した講和だった。
ソ連などは署名せず、中国の二政府は招請されず、インドなども参加しませんでした。すべての当事国との関係を一度に解決した全面講和ではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1952年4月28日の主権回復は、占領軍としての駐留を終わらせた一方、別の日米協定にもとづく米軍駐留の継続を認める仕組みと結びついていた。
平和条約は占領軍の撤退を定めつつ、協定にもとづく外国軍駐留を認めました。旧日米安保条約によって米軍駐留は新たな法的根拠で続きました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1951年の旧日米安全保障条約は、1960年の新安保条約と同様に、日米双方の防衛義務を対称的に定めた条約だった。
旧安保条約は米軍の日本国内・周辺への配備を認める構造で、1960年条約のような対称的な相互防衛義務や今日の事前協議制度を備えていませんでした。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1952年の日米行政協定は、米軍が使用する施設・区域や軍人・軍属の法的地位など、講和後の駐留を具体的に運用する条件を定めた。
行政協定は施設・区域、出入国、課税、刑事裁判権などを定め、占領権限による駐留から条約・協定にもとづく駐留への移行を具体化しました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1952年4月28日の平和条約発効によって、沖縄を含む日本全域で米国の施政権が同時に終了した。
本土側の占領統治は終了しましたが、沖縄などでは平和条約第3条にもとづいて米国の施政権が継続しました。地域ごとの経験を区別する必要があります。
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Sources
参考資料
- 日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 調印・発効外務省
講和会議の参加国・署名国、日米安全保障条約調印、条約発効までの外交過程を確認。
- サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)データベース『世界と日本』
主権、領域、米国施政権、占領軍撤退と外国軍駐留に関する条文を確認。
- 日米安全保障条約(旧)データベース『世界と日本』
1951年旧日米安全保障条約の前文および米軍配備に関する条文を確認。
- 日米行政協定データベース『世界と日本』
1952年2月28日署名・4月28日発効の行政協定と駐留条件を確認。
- Records of the U.S. Delegation to the Japanese Peace Conference国立国会図書館
中国の二政府が招請されず、インド・ビルマ・ユーゴスラビアが会議出席を拒否した経緯を確認。
