日ソ共同宣言と国連加盟―独立後の日本はどのように国際社会への復帰を進めたのか
一言でいうと
1952年にサンフランシスコ平和条約が発効して日本は主権を回復しましたが、ソ連は同条約に署名していなかったため、日ソ間では戦争状態の終了と国交正常化がなお課題として残っていました。また、日本は国際連合への加盟を申請していましたが、冷戦下でソ連が反対していたため実現していませんでした。鳩山一郎内閣は日ソ国交回復を重要課題とし、領土問題をめぐる対立から平和条約そのものの締結はできなかったものの、1956年10月19日に日ソ共同宣言へ署名しました。宣言は戦争状態の終了、外交・領事関係の回復、ソ連による日本の国連加盟支持、抑留者の送還、賠償請求権の放棄などを定め、平和条約交渉を継続することも確認しました。12月12日に宣言が発効すると国連加盟への障害が取り除かれ、同月18日、日本は80番目の国連加盟国となりました。したがって1956年は、日本が西側諸国との講和に続いてソ連との関係を正常化し、冷戦下の国際社会へ参加する制度的な条件を整えた年といえます。ただし、領土問題と平和条約は解決されず、その後の日ソ・日露関係に残されました。
なぜ1952年の主権回復後も日ソ関係は正常化していなかったのか
1951年のサンフランシスコ講和会議にはソ連も参加しましたが、ソ連は平和条約へ署名しませんでした。そのため1952年4月に条約が発効して日本が主権を回復しても、日本とソ連との間では戦争状態の終了や外交関係の回復が別に必要でした。
もう一つの課題が国際連合への加盟です。日本は主権回復後に加盟を申請しましたが、新規加盟には安全保障理事会の勧告が必要で、常任理事国であるソ連の反対によって実現しませんでした。冷戦下では、日ソ関係の正常化と国連加盟が相互に関係する外交課題になっていたのです。
なぜ日ソ交渉は平和条約ではなく共同宣言にまとまったのか
鳩山一郎内閣は、吉田茂内閣期よりも日ソ国交回復を積極的に進めました。1955年から交渉が始まり、1956年には重光葵外相によるモスクワ交渉などが続きましたが、領土問題をめぐる両国の立場は一致しませんでした。
そこで両政府は、領土問題の最終解決を待ってすべてを止めるのではなく、まず戦争状態を終わらせて外交関係を回復し、その後も平和条約交渉を続ける方式を選びました。10月に鳩山首相自身がモスクワを訪れ、10月19日に日ソ共同宣言が署名されました。平和条約ではなく共同宣言となったこと自体が、国交回復では合意できても戦後処理のすべては決着していなかったことを示しています。
日ソ共同宣言は何を定めたのか
共同宣言は、発効日に両国間の戦争状態を終了し、平和・友好善隣関係と外交・領事関係を回復すると定めました。また、ソ連は日本の国連加盟申請を支持し、ソ連で有罪判決を受けた日本人の釈放・送還や消息不明者の調査を行うこと、対日賠償請求権を放棄することなども盛り込まれました。
さらに両国は、通商関係を安定させるための交渉を始め、すでに署名されていた漁業条約などを共同宣言の発効と同時に効力発生させることに合意しました。国交回復は外交だけでなく、人の帰還、漁業、経済関係の再開とも結びついていました。
共同宣言は日本とソ連の議会で承認され、12月12日に東京で批准書が交換されて発効しました。したがって10月19日は署名日、12月12日は発効日として区別する必要があります。
領土問題は共同宣言で解決したのか
解決していません。第9項では、外交関係回復後も平和条約締結交渉を継続することを確認しました。そのうえでソ連は、歯舞群島と色丹島を平和条約締結後に日本へ引き渡すことに同意しました。
一方、国後島・択捉島を含む領土問題について日ソ両国の立場は一致せず、平和条約そのものは締結されませんでした。このTopicでは現在の領有権主張の当否を一方的に確定するのではなく、1956年時点で国交は回復したものの、領土問題と平和条約交渉が未解決のまま残ったという制度上の事実を押さえます。
日ソ共同宣言=平和条約ではありません。国交回復と戦争状態の終了は実現しましたが、平和条約締結交渉は継続課題として残りました。
日ソ国交回復はなぜ国連加盟につながったのか
国連への新規加盟には安全保障理事会の勧告と総会の承認が必要です。日本は1952年の主権回復後に加盟を求めていましたが、常任理事国ソ連の反対が障害になっていました。日ソ共同宣言第4項でソ連が日本の国連加盟申請を支持すると約束したことで、この障害が取り除かれました。
共同宣言が発効した1956年12月12日、安全保障理事会は日本の加盟を全会一致で勧告しました。12月18日には国連総会も全会一致で加盟を承認し、日本は80番目の加盟国となりました。重光葵外相は総会で受諾演説を行い、日本は国連を外交活動の重要な場として利用していくことになります。
ここで重要なのは、国連加盟が日ソ国交回復とは別々に偶然起きたのではないことです。ソ連の支持を共同宣言に組み込み、国交正常化を冷戦下の国際機構への参加へつなげた点に、1956年外交の特徴があります。
1956年の国際社会復帰をどう理解すればよいのか
日本の『国際社会復帰』は一日で完成した出来事ではありません。1951年の平和条約署名、1952年の主権回復、1956年の日ソ国交回復と国連加盟という複数の段階を経て進みました。しかも日米安全保障体制を基軸としながら、ソ連とも外交関係を回復するという冷戦下の外交でした。
国連加盟は、日本が国際機関で発言・投票し、多国間外交へ本格的に参加できる制度的地位を得たことを意味します。一方で、日ソ間に平和条約がなく領土問題が残ったことからも分かるように、国際社会への復帰はすべての戦後問題の解決と同義ではありませんでした。
Review
入試で押さえるポイント
- ソ連はサンフランシスコ平和条約に署名していなかったため、1952年の日本の主権回復後も日ソ間の戦争状態終了・国交回復は未解決だった
- 1956年10月19日に日ソ共同宣言へ署名し、12月12日の批准書交換で発効して戦争状態が終了・国交が回復した
- 共同宣言はソ連による日本の国連加盟支持、抑留者の釈放・送還、賠償請求権放棄などを定めた
- 共同宣言第9項では平和条約交渉の継続と、平和条約締結後の歯舞群島・色丹島の日本への引き渡しを定めたが、領土問題と平和条約は未解決のまま残った
- 1956年12月18日に国連総会が全会一致で日本の加盟を承認し、日本は80番目の国連加盟国となった
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- 問1
1952年にサンフランシスコ平和条約が発効した時点で、ソ連との戦争状態も自動的に終了し、日ソ国交は正常化した。
ソ連はサンフランシスコ平和条約に署名していなかったため、日ソ間では戦争状態の終了と外交関係の回復を別に実現する必要がありました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1956年の日ソ共同宣言は平和条約そのものであり、領土問題を含む日ソ間の戦後処理をすべて最終解決した。
共同宣言は戦争状態の終了と国交回復を実現しましたが、平和条約ではなく、領土問題と平和条約交渉は継続課題として残りました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
日ソ共同宣言は国交回復だけでなく、ソ連による日本の国連加盟支持や抑留者の釈放・送還なども定めた。
共同宣言には戦争状態の終了・外交関係回復に加え、国連加盟支持、抑留者の釈放・送還、賠償請求権放棄などが盛り込まれました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
日本の国連加盟は日ソ国交回復と無関係に進み、ソ連の支持の有無は加盟手続に影響しなかった。
国連加盟には安全保障理事会の勧告が必要で、常任理事国ソ連の反対が障害でした。共同宣言でソ連が加盟支持を約束したことで障害が取り除かれました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1956年の国連加盟は国際社会復帰の重要な段階だったが、日ソ平和条約や領土問題など、すべての戦後問題が解決したことを意味しなかった。
日本の国際社会復帰は1952年の主権回復、1956年の日ソ国交回復・国連加盟など複数段階で進み、未解決の外交課題も残りました。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 6-8 日ソ交渉と鳩山内閣国立国会図書館
鳩山内閣の日ソ国交回復方針、1956年の交渉経過と共同宣言署名の確認に使用。
- 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言・御署名原本国立公文書館
共同宣言の発効、戦争状態終了、国交回復、国連加盟支持、抑留者送還、平和条約交渉継続などの確認に使用。
- 日ソ・日露間の平和条約締結交渉外務省
1956年共同宣言と平和条約・領土問題の未解決部分、歯舞群島・色丹島に関する規定の確認に使用。
- 日本の国際連合加盟50周年外務省
1952年以後の加盟申請、ソ連の反対、日ソ国交正常化後の安保理勧告と1956年12月18日の加盟承認の確認に使用。
- 日ソ共同宣言(日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言)データベース『世界と日本』
共同宣言各項の条文内容と署名日・参加者の確認に使用。
