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昭和時代1945年7〜9月政治・外交重要度 A

ポツダム宣言・ソ連参戦から降伏文書調印へ―日本の戦争は1945年にどのような過程で終結したのかぽつだむせんげんそれんさんせんからこうふくぶんしょちょういんへ にほんのせんそうはせんきゅうひゃくよんじゅうごねんにどのようなかていでしゅうけつしたのか

一言でいうと

1945年夏、日本の降伏は一つの出来事だけで決まったのではありません。7月26日に米英中がポツダム宣言を発表した後も日本政府は戦争を継続しましたが、広島への原爆投下、ソ連の対日参戦、長崎への原爆投下が続くなかで、政府・軍部は戦争終結の条件をめぐって対立しました。8月10日に天皇の地位に関する条件を付して受諾を申し入れ、連合国の回答を受けた後、8月14日の御前会議で最終的な受諾が決定されました。翌15日の放送で国民に伝えられましたが、各地の戦闘や武装解除は直ちに完了したわけではなく、9月2日の降伏文書調印によって日本政府と大本営が連合国への正式な降伏を文書で確定しました。戦争終結は、軍事・外交・国内政治の変化が重なった段階的な過程として捉える必要があります。

ポツダム宣言は日本に何を求めたのか

1945年7月26日、アメリカ・イギリス・中国はポツダム宣言ぽつだむせんげんを発表しました。宣言は日本軍の無条件降伏、軍国主義的勢力の排除、日本軍の武装解除、連合国による占領などを示し、日本政府に受諾か「迅速且完全なる壊滅」かの選択を迫りました。ソ連は当時まだ日本と日ソ中立条約の関係にあり、この宣言の最初の発表国には含まれていませんでした。

日本政府はソ連を仲介者として和平の可能性を探っていましたが、ソ連から具体的な仲介回答を得られないまま時間が経過しました。7月28日、鈴木貫太郎首相は記者会見で宣言を「黙殺」し戦争を続ける趣旨を述べました。これは正式な受諾拒否の外交文書ではありませんでしたが、少なくともこの段階で政府が宣言を受け入れて戦争終結へ進んだわけではありませんでした。

重要なのは、ポツダム宣言が単なる停戦提案ではなく、敗戦後の日本の武装解除・占領・政治改革につながる基本条件を示していたことです。一方、日本政府内では、とくに天皇の地位をどのように扱うかが受諾判断の大きな争点となりました。

原爆投下とソ連参戦は政府の判断をどう変えたのか

8月6日に広島へ原子爆弾が投下され、8月8日にはソ連が日本へ宣戦を通告しました。ソ連軍は翌9日から満州などへ進攻し、日本政府が期待していたソ連による和平仲介の可能性は失われました。同じ9日には長崎へ二発目の原子爆弾が投下されました。

この急激な軍事・外交状況の悪化を受けて、政府最高首脳はポツダム宣言受諾を協議しました。しかし、受諾条件をめぐって意見は一致しませんでした。陸軍を中心に複数条件を求める意見が残る一方、東郷茂徳外相らは天皇の地位に関する一点を条件として受諾する案を主張しました。

8月9日深夜から10日未明の御前会議では、最終的に昭和天皇の判断によって、天皇の国家統治上の地位を害する要求を含まないとの了解のもとで宣言を受諾する方針が決まりました。日本政府は10日、この趣旨を中立国を通じて連合国側へ伝えました。

なぜ8月10日の申入れだけでは終わらなかったのか

連合国側は8月11日、アメリカ国務長官バーンズ名義の回答を日本へ伝えました。いわゆるバーンズ回答ばーんずかいとうは、降伏後の天皇と日本政府の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれること、最終的な日本の政治形態は国民の自由な意思によって定められることを示しました。

日本政府内では、この回答が天皇の地位を十分に保障しているかをめぐって再び意見が割れました。軍部の一部には戦争継続論が残り、受諾決定は自動的には進みませんでした。8月14日の御前会議で再び天皇の判断が求められ、ポツダム宣言を受諾する最終決定が行われました。

同日、日本政府は受諾を連合国側へ通告し、「終戦の詔書」が発布されました。したがって、広島・長崎への原爆投下やソ連参戦は降伏決定の重大な背景ですが、どれか一つだけを日本降伏の唯一の原因とするのではなく、政府内部の意思決定と受諾条件をめぐる交渉も含めて理解する必要があります。

8月15日は何が終わった日なのか

8月14日に録音された「終戦の詔書」は、翌15日正午にラジオで放送されました。いわゆる玉音放送ぎょくおんほうそうによって、ポツダム宣言受諾と戦争終結の決定が広く国民へ知らされました。8月15日は日本社会にとって敗戦と戦争終結を認識する象徴的な日となりました。

しかし、8月15日を「世界各地ですべての戦闘が終わった日」とするのは正確ではありません。日本軍部隊への停戦命令の伝達、武装解除、連合国への降伏手続には地域差があり、ソ連軍の進攻下にあった南樺太や千島列島などでは15日後も戦闘が続きました。

また、戦争が終わることと、旧植民地・占領地の統治が整理され、軍人や民間人が帰国することも同じではありません。こうした帝国領域の解体と人びとの移動は、次のTopic 32・33で扱います。

9月2日の降伏文書調印にはどんな意味があったのか

1945年9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号で降伏文書こうふくぶんしょの調印式が行われました。日本側では重光葵外相が天皇と日本政府を代表し、梅津美治郎参謀総長が大本営を代表して署名しました。連合国側ではマッカーサー連合国最高司令官と各国代表が署名しました。

降伏文書は、日本がポツダム宣言の条項を受諾することを改めて確認し、日本軍の無条件降伏と、天皇・日本政府が連合国最高司令官の要求に従うことを文書化しました。8月14日の受諾決定、15日の国民への放送を経て、9月2日に正式な降伏手続が完了したのです。

このように1945年の戦争終結には、「宣言提示」「受諾をめぐる政府内対立」「受諾通告」「国民への放送」「各軍の停戦・武装解除」「正式な降伏文書調印」という複数の段階がありました。どの日付が何を意味するのかを区別して覚えることが重要です。

1945年の日本の降伏は、原爆投下だけでもソ連参戦だけでも説明できません。ポツダム宣言への対応、軍事状況の急変、政府・軍部内の対立、天皇の判断、連合国との応答を経て8月14日に受諾が最終決定され、15日に国民へ伝えられ、9月2日に降伏文書が調印されました。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1945年7月26日に米英中がポツダム宣言を発表し、日本軍の無条件降伏、武装解除、占領などの条件を示した
  • 8月6日の広島原爆、8月8日のソ連対日宣戦、8月9日の長崎原爆が相次ぎ、ソ連を仲介とする和平構想も失われた
  • 8月10日に日本政府は天皇の地位に関する条件を付してポツダム宣言受諾を申し入れ、11日のバーンズ回答を受けて再協議した
  • 8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾が最終決定され、翌15日の玉音放送で国民へ伝えられた
  • 8月15日後も地域によって戦闘・武装解除は続き、戦争終結を一日だけで説明しない
  • 9月2日に重光葵・梅津美治郎らがミズーリ号上で降伏文書に署名し、正式な降伏手続が行われた

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  1. 問1

    1945年7月26日のポツダム宣言は、アメリカ・イギリス・中国に加えてソ連も最初から共同発表国として署名した。

  2. 問2

    ソ連の対日参戦は、日本政府が期待していたソ連を仲介者とする和平構想を成り立たなくさせ、原爆投下とともに降伏判断を迫る状況を強めた。

  3. 問3

    8月10日に日本政府が受諾を申し入れた時点でポツダム宣言受諾は無条件に最終確定し、その後は政府内で再協議されなかった。

  4. 問4

    8月15日の玉音放送で受諾決定が国民に伝えられた後も、停戦命令の伝達や武装解除には地域差があり、南樺太や千島列島などでは戦闘が続いた。

  5. 問5

    1945年9月2日の降伏文書調印は、ポツダム宣言受諾と日本軍の降伏を文書で正式に確定する手続だった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 米英中が日本に降伏を求めるポツダム宣言を発表する
  2. アメリカが広島に原子爆弾を投下する
  3. ソ連が日本に宣戦する
  4. アメリカが長崎に原子爆弾を投下する
  5. 日本政府がポツダム宣言受諾を決定する
  6. 終戦の詔書がラジオ放送され国民に敗戦が伝えられる
  7. 日本政府が降伏文書に調印する

Sources

参考資料

  1. 詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日国立国会図書館

    ポツダム宣言発表、ソ連対日宣戦、8月10日・14日の受諾決定など終戦過程の日付を確認

  2. 用語解説 ポツダム宣言国立国会図書館

    ポツダム宣言の発表国・内容、ソ連の参加、受諾決定の概要を確認

  3. 昭和20年(1945)8月 ポツダム宣言を受諾する国立公文書館

    8月14日の御前会議、終戦の詔書案、8月15日の放送を確認

  4. 終戦の詔書 1945年8月14日国立国会図書館

    詔書の発布日と8月15日正午のラジオ放送を確認

  5. ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係国立国会図書館

    8月10日・14日の日本政府通告、連合国側回答と正式降伏へ向けた手続を確認

  6. 外交史料 Q&A 昭和戦後期外務省

    1945年9月2日の降伏文書調印、日本側・連合国側署名者を確認