南進と対米英開戦決定―日本はなぜ日中戦争の最中にアメリカ・イギリスとの戦争へ進んだのか
一言でいうと
日中戦争が長期化するなか、日本は中国への補給路を遮断し、石油・ゴムなどの資源を確保できる南方への進出を強めました。1940年9月にはフランス領インドシナ北部へ進駐し、日独伊三国同盟を締結します。1941年7月の南部仏印進駐に対し、アメリカ・イギリス・オランダは日本資産の凍結や貿易制限を強め、アメリカからの石油供給も事実上止まりました。しかし、日本政府はただちに開戦したわけではありません。日米交渉を続ける一方、9月6日と11月5日の御前会議で戦争準備と外交交渉を並行させる期限付き方針を決定し、近衛文麿内閣の退陣後も東条英機内閣が交渉と開戦準備を進めました。11月26日のハル・ノートを日本側が受け入れ難い回答と判断したのち、12月1日の御前会議で対米英蘭開戦が正式に決定されます。開戦は資源不足だけ、ハル・ノートだけ、あるいは軍部だけで説明できるものではなく、日中戦争から撤兵しない方針、南進、対外同盟、経済制裁、外交交渉の不一致、政府と軍の戦略判断が重なった結果として捉える必要があります。
日中戦争の長期化はなぜ「南進」へ結びついたのか
1937年に始まった日中戦争は、日本が想定したような短期決着になりませんでした。重慶へ移った国民政府は抗戦を続け、イギリス領ビルマやフランス領インドシナなどを経由する国外からの補給も戦争継続を支えました。日本にとっては、中国への補給路を遮断することが戦争終結策の一つと考えられるようになります。
同時に、長期戦は石油・鉄鉱石・ゴムなどの戦略物資を大量に必要としました。日本は重要物資の多くを輸入に依存しており、東南アジア、とくに蘭領東インドの石油や英領マラヤなどの資源への関心を強めます。南方への進出は、中国への補給遮断と資源確保という複数の目的を持っていました。
1940年にはドイツ軍が西ヨーロッパで急速に勝利し、フランスやオランダの本国が大きな打撃を受けました。日本政府と軍は、欧州諸国のアジア植民地に対する統制が弱まった国際情勢を利用して南方政策を進めます。同年9月、日本軍はフランス領インドシナ北部へ進駐しました。ただし、この時点で対米英戦争がすでに決定していたわけではありません。
日独伊三国同盟は何を狙い、日米関係に何をもたらしたのか
1940年9月27日、日本はドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結びました。条約は、日本・ドイツ・イタリアのいずれかが当時の欧州戦争または日中戦争に参加していない国から攻撃を受けた場合、相互に援助することを定めました。念頭には、アメリカが欧州戦争やアジアの戦争へ介入することを抑止する狙いがありました。
しかし、三国同盟はアメリカを日本への譲歩へ導いたわけではありません。むしろ日本がドイツ・イタリアと結びついたことは、アメリカ側の警戒を強める要因となりました。一方、日本側でも同盟をどこまで適用するかは自動的に決まるものではなく、同盟締結そのものが対米戦争の決定だったと理解するのは不正確です。
1941年4月には日本とソ連が日ソ中立条約を結びましたが、6月にドイツがソ連へ侵攻すると、日本国内では北方へ進むか南方へ進むかも改めて検討されました。最終的には対ソ開戦をただちに選ばず、南方進出を進める方針が強まります。こうした外交・軍事上の選択が、1941年夏の南部仏印進駐へつながりました。
南部仏印進駐と米英蘭の経済措置は何を変えたのか
1941年7月、日本はヴィシー政権下のフランス政府に軍事基地の使用などを認めさせ、フランス領インドシナ南部へ進駐しました。南部仏印は英領マラヤ、シンガポール、蘭領東インドに近く、日本軍がさらに南方へ進出するための拠点になり得る位置にありました。アメリカ・イギリス・オランダは、日本の行動を東南アジアへのさらなる軍事進出の危険として受け止めます。
アメリカ政府は7月26日付の大統領令で在米日本資産を凍結し、日本との金融・貿易取引を許可制のもとに置きました。イギリスとオランダ領東インドも資産凍結や輸出統制を強めます。アメリカの許可制度の運用によって対日石油輸出はほどなく事実上停止し、日本が重要な供給源としていた石油を入手する道は大きく狭まりました。
石油供給の停止は日本の軍事・経済計画に重大な圧力を与えました。備蓄を消費し続ければ将来の軍事行動そのものが難しくなるため、軍部には時間が経つほど戦力条件が悪化するという認識が強まります。しかし、ここから「石油を止められたので日本は自動的に開戦した」と結論づけることはできません。制裁を受ける原因となった南進を維持するのか、中国からの撤兵を含む外交的譲歩を行うのか、それとも資源地域を軍事的に確保するのかという政策選択が残されていました。
日米交渉では何が一致せず、なぜ妥協できなかったのか
日本とアメリカは1941年春から、関係悪化を食い止めるための交渉を続けていました。主な争点には、日本軍の中国・フランス領インドシナからの撤兵、中国における日本の権益と日中和平、アメリカによる中国支援、通商の無差別原則、日独伊三国同盟の扱いなどがありました。両国は「平和的解決」を掲げながら、その前提となる中国政策と南方政策で大きく隔たっていました。
近衛文麿首相はルーズベルト大統領との首脳会談によって妥協を探ろうとしましたが、アメリカ側は首脳会談の前に基本問題で合意することを求めました。日本側では陸軍を含む国内調整も難しく、首脳会談は実現しませんでした。近衛内閣は10月16日に総辞職し、18日に陸軍大臣だった東条英機を首相とする内閣が成立します。
東条内閣の成立は、その日に開戦が決定したことを意味しません。新内閣はそれまでの国策を再検討し、外交による解決可能性と戦争の場合の見通しを改めて検討しました。しかし、日本が中国での戦争目的や占領地域からの撤兵について大幅な譲歩を避ける一方、アメリカも日本軍の進出を前提とした現状固定を受け入れず、両国の妥協可能な範囲は狭まっていきました。
御前会議はなぜ外交交渉と戦争準備を同時に進めたのか
1941年9月6日の御前会議では帝国国策遂行要領が決定されました。ここでは、対米英戦争を辞さない覚悟で戦争準備を進める一方、アメリカとの外交交渉を続け、日本側の要求が通らない場合には開戦を決意するという方針が示されました。外交と戦争準備は二者択一ではなく、期限を区切って並行して進められたのです。
東条内閣成立後の再検討を経て、11月5日の御前会議では新たな帝国国策遂行要領が決定され、外交交渉を続けながら12月初めを武力発動の時期とする準備が進められました。同時に日本側は、比較的広い条件を示す甲案と、南部仏印から北部への撤兵などを条件に経済関係の回復を求める乙案を最終的な交渉案としてアメリカへ提示していきます。
この過程では、政府と陸海軍が開戦後の作戦、船舶、物資、長期戦の見通しを検討しながら外交の成否を待っていました。したがって開戦決定は、軍が外交と無関係に一方的に進めたとも、政府が最後まで戦争準備をせず外交だけを行ったとも説明できません。国家の政策決定機構のなかで、外交交渉と軍事準備が同時に進められていました。
ハル・ノートから12月1日の開戦決定まで何が起きたのか
1941年11月26日、アメリカの国務長官コーデル・ハルは野村吉三郎・来栖三郎両大使に、太平洋地域の包括的な解決の基礎となる提案を手交しました。一般にハル・ノートと呼ばれるこの文書は、日本軍の中国・フランス領インドシナからの撤退などを求め、日本側が提示していた乙案とは大きく隔たる内容でした。
日本政府・軍部の指導層はハル・ノートを受け入れ難い回答と判断し、日米交渉によって予定期限までに妥結する見込みは失われたとみなしました。ただし、ハル・ノートだけを突然の原因として開戦を説明すると、その前に進められていた南進、経済制裁、9月・11月の御前会議決定、南方作戦準備、日米交渉の長期的な対立を見落とします。
12月1日の御前会議で、日本はアメリカ・イギリス・オランダに対する開戦を正式に決定しました。ここで初めて、国家意思として対米英蘭戦争の開始が最終決定されたことが重要です。実際の軍事行動は12月8日のマレー半島への上陸・攻撃やハワイ真珠湾攻撃などから始まりますが、その占領拡大と「大東亜共栄圏」は次のTopicで扱います。
対米英蘭開戦は、日中戦争の長期化から南進を進めた日本が、三国同盟と南部仏印進駐によって米英蘭との対立を深め、経済圧迫を受けるなかで、外交交渉と戦争準備を期限付きで並行させ、最終的に妥協可能性を失った末の政策決定でした。資源・制裁・ハル・ノートのいずれか一つだけで説明せず、日本側自身の政策選択を含む連続した意思決定として捉える必要があります。
Review
入試で押さえるポイント
- 1940年9月、日本軍はフランス領インドシナ北部へ進駐し、9月27日に日独伊三国同盟を締結した
- 南進には中国への補給路遮断と東南アジアの戦略物資確保という複数の目的があった
- 1941年7月の南部仏印進駐後、米英蘭は対日資産凍結・貿易統制を強め、アメリカからの石油輸出は事実上停止した
- 1941年9月6日の御前会議では、対米交渉を続けながら対米英戦争の準備を進める帝国国策遂行要領が決定された
- 近衛内閣総辞職後の1941年10月18日に東条英機内閣が成立したが、この時点で開戦が最終決定されたわけではない
- 11月5日の御前会議では外交交渉の継続と12月初めの武力発動準備が並行して進められ、日本は甲案・乙案を最終交渉案とした
- 11月26日のハル・ノートは中国・フランス領インドシナからの日本軍撤退などを求め、日本側は受け入れ難い回答と判断した
- 1941年12月1日の御前会議で対米英蘭開戦が正式に決定された。開戦を資源問題・経済制裁・ハル・ノートなど一因だけで説明しない
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- 問1
日本の南進には、中国への国外補給路を遮断する狙いと、石油・ゴムなど南方の戦略物資を確保する狙いの両方があった。
日中戦争の長期化への対応として、中国への補給遮断と東南アジアの資源確保が南進の重要な目的になりました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1940年の日独伊三国同盟締結によって、日本の対米英開戦はその場で正式に決定された。
三国同盟はアメリカの介入を抑止する狙いなどを持ちましたが、同盟締結そのものが対米英開戦の最終決定だったわけではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1941年夏にアメリカからの石油供給が事実上止まった時点で、日本には外交的譲歩などの政策選択は残されておらず、開戦は自動的に決まった。
石油停止は重大な圧力でしたが、南進を維持するか、中国からの撤兵を含む譲歩を行うか、資源地域を軍事的に確保するかという政策選択は残っていました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1941年10月に東条英機内閣が成立した時点では、対米英開戦はまだ最終決定されておらず、外交による解決可能性も再検討された。
東条内閣は成立後に国策を再検討し、外交交渉と戦争準備を並行して進めました。正式な開戦決定は12月1日の御前会議です。
本文の該当箇所を確認する - 問5
対米英蘭開戦は、11月26日のハル・ノートだけが突然の原因となって決まり、それ以前の南進・経済制裁・御前会議での戦争準備は開戦判断と関係がなかった。
ハル・ノートは最終局面の重要な文書でしたが、開戦判断は南進、経済制裁、日米交渉の対立、9月・11月の御前会議決定や作戦準備の積み重ねの上にありました。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 日本外交文書デジタルコレクション 日米交渉―1941年― 上巻外務省外交史料館
1941年前半から9月までの日米交渉、日米首脳会談申入れ、日本側提案の形成過程を確認
- 日本外交文書デジタルコレクション 日米交渉―1941年― 下巻外務省外交史料館
甲案・乙案による最終交渉、ハル・ノート受領から開戦までの外交文書構成を確認
- 『日本外交文書 第二次欧州大戦と日本 第二冊上・下』外務省
南部仏印進駐の政策決定と外交交渉、米英蘭の対日資産凍結・貿易制限への対応を確認
- 公文書に見る日米交渉―1941年9月6日 第6回御前会議国立公文書館アジア歴史資料センター
帝国国策遂行要領で戦争準備と対米交渉を期限付きで並行させた方針を確認
- 公文書に見る日米交渉―1941年11月5日 第7回御前会議国立公文書館アジア歴史資料センター
再決定された帝国国策遂行要領と対米甲案・乙案、12月初めを見据えた交渉期限を確認
- 公文書に見る日米交渉―1941年12月1日 第8回御前会議国立公文書館アジア歴史資料センター
日米交渉不成立を受けた対米英蘭開戦の国家意思決定を確認
- Foreign Relations of the United States, 1941, The Far East, Volume IV: November 26 telegramU.S. Department of State, Office of the Historian
1941年11月26日にハル国務長官が日本側大使へ二文書を手交した米国側外交記録を確認
