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昭和時代1940年政治・外交重要度 A

政党解党と大政翼賛会―既成政党はなぜ解体され、『新体制』へ組み込まれたのかせいとうかいとうとたいせいよくさんかい きせいせいとうはなぜかいたいされしんたいせいへくみこまれたのか

一言でいうと

1940年、日本の既成政党は相次いで解党し、近衛文麿が掲げた『新体制』のもとで大政翼賛会が成立しました。ただし、これは1932年の五・一五事件で政党内閣が終わったことと同じ出来事ではありません。政党はその後も帝国議会の会派・政治組織として存続していましたが、日中戦争の長期化、政党政治への不信、総力戦体制を一元的に運営しようとする構想、1940年の欧州情勢などを背景に、既成政党を解消して新たな国民組織へ合流する動きが強まりました。10月12日に発足した大政翼賛会は首相を総裁とし全国に支部を置きましたが、近衛が構想した『一大強力政党』がそのまま実現したわけではありません。旧政党人、官僚、軍、革新派など異なる勢力を抱え、翌1941年には政治活動を行う政党ではなく行政を補助する国民運動組織としての性格を強めました。

1932年の政党内閣終焉と1940年の政党解党は何が違うのか

1932年の五・一五事件後、犬養毅内閣に代わって斎藤実内閣が成立し、政党総裁を首相とする政党内閣の時代はいったん終わりました。しかし、立憲政友会や立憲民政党などの政党そのものが消滅したわけではなく、その後も帝国議会で議席を持ち、予算や法案の審議に関わり続けました。

したがって、1940年の政党解党は、政党内閣が終わった1932年からさらに進んだ別の段階です。政党という組織自体が解かれ、その構成員が新体制運動のもとで別の政治組織へ再編されていきました。

この違いを押さえると、1930年代の政治変化を『軍部が強くなって政党がすぐ消えた』という一本線で理解せず、政党内閣の終焉、議会政治の圧迫、政党解党という複数の段階に分けて見ることができます。

なぜ1940年に既成政党は相次いで解党したのか

日中戦争が長期化するなか、政治・経済・社会を戦争遂行へ一元的に動員する『新体制』を求める議論が強まりました。1940年にはドイツ軍が西ヨーロッパで急速に勝利し、既成の議会政治や政党間競争よりも強力な政治統合を求める空気がさらに高まります。

同年2月には、民政党の斎藤隆夫が衆議院で日中戦争の目的と犠牲を厳しく問う反軍演説を行い、3月に議員除名となりました。この事件は、議会で政府・軍部の戦争政策を公然と批判することが強い圧力を受けていたことを示します。ただし、この除名だけが政党解党の直接原因だったわけではありません。

6月24日、近衛文麿は枢密院議長を辞任して新体制運動を推進する姿勢を示しました。すると7月に社会大衆党や政友会各派などが解党し、8月には立憲民政党も解党しました。各党は同じ経緯で一斉に法的強制を受けて解散したのではなく、近衛を中心とする新組織へ政治勢力を結集する流れのなかで、相次いで自らの党組織を解いていったのです。

第2次近衛内閣はどのように大政翼賛会をつくったのか

1940年7月22日に第2次近衛文麿内閣が成立すると、新体制づくりは政府の具体的な政治課題になりました。8月28日から新体制準備会が開かれ、国民運動を実行・指導・推進する新組織の構想が検討されました。

その結果、10月12日に大政翼賛会が発足しました。総裁は内閣総理大臣が兼ね、中央本部のほか、道府県・市町村の支部や中央・地方の協力会議を設け、全国的な組織網を通じて『大政翼賛運動』を進める仕組みがつくられました。

既成政党が解党した後に全国組織が成立したため、大政翼賛会を単純に『唯一の政党』と考えたくなります。しかし、実際の制度と政治過程はそれほど単純ではありませんでした。大政翼賛会には革新派だけでなく旧政党人や既成勢力も入り、目指す政治体制について内部の考えが一致していたわけではありません。

なぜ大政翼賛会を単純な『一党独裁政党』と呼べないのか

近衛新体制運動には既成政党に代わる『一大強力政党』をつくろうとする構想がありましたが、大政翼賛会はその構想どおりの政党にはなりませんでした。旧政党勢力、官僚、軍部、革新派などが同居したため、組織の性格や権限をめぐって対立が続きました。

また、地方組織の形成では内務官僚の影響が強く、既存の行政機構と翼賛会をどう関係づけるかも問題になりました。1941年2月には大政翼賛会が公事結社とされて政治活動を制限され、内務省主導の行政補助的な国民運動組織へ改組されます。

つまり、1940年の政党解党は政党間競争を大きく後退させましたが、その後にナチ党のような一つの政党が国家権力を独占する仕組みがそのまま成立したわけではありません。日本では、翼賛会、官僚機構、軍、議会、地域組織などが重なり合う形で戦時政治の動員体制がつくられていきました。

政治組織の再編は職場へどう広がったのか

新体制は国政の政党だけを組み替える構想ではありませんでした。職場では1930年代末から産業報国運動が進み、労働者と経営側を『事業一家』として一つの組織へまとめ、労使対立を抑えて戦争遂行への協力を求める方向が強まりました。

1940年には主要な労働組合が次々に解散し、11月23日に大日本産業報国会が成立しました。中央本部から道府県、支部、各事業場の産業報国会へつながる組織網が形成され、職場も国家的な国民動員の体系へ組み込まれていきました。

ただし、ここで見るのは組織再編です。労働力を誰にどこへ配置するかという国民徴用令などの制度や、物資・資金・価格の経済統制は前Topicの戦時統制経済で扱うべき別の仕組みです。1940年の『新体制』は、それらの経済統制と並行して、政党・地域・職場の組織を戦争協力へ結びつけようとした政治社会的な再編でした。

1940年の政党解党は、1932年の政党内閣終焉とは別の段階です。各政党が新体制運動のなかで組織を解き、大政翼賛会が全国組織として成立しましたが、近衛が構想した『一大強力政党』がそのまま実現したわけではありません。翼賛会は既成勢力や行政機構を抱え込みながら、戦時動員を支える国民運動・行政補助組織へ性格を変えていきました。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1932年は政党内閣の終焉、1940年は既成政党そのものの相次ぐ解党という別段階
  • 1940年6月に近衛文麿が新体制運動推進を表明し、7〜8月に社会大衆党・政友会各派・立憲民政党などが相次いで解党
  • 1940年7月22日に第2次近衛内閣が成立し、8月の新体制準備会を経て10月12日に大政翼賛会が発足
  • 大政翼賛会は首相を総裁とし、中央本部と道府県・市町村支部、協力会議を設置
  • 大政翼賛会は近衛の『一大強力政党』構想どおりの単純な一党独裁政党にはならず、1941年には行政補助組織としての性格を強めた
  • 1940年11月23日に大日本産業報国会が成立し、職場でも戦時動員に向けた組織再編が進展

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  1. 問1

    1932年の五・一五事件で政党内閣が終わった時点で、政友会や民政党など既成政党も解散し、帝国議会から政党勢力が消えた。

  2. 問2

    1940年の既成政党は、同じ日に一斉に法律で強制解散させられたのではなく、新体制運動への結集が進むなかで7〜8月に相次いで党組織を解いた。

  3. 問3

    第2次近衛内閣のもとで新体制準備会を経て、1940年10月12日に大政翼賛会が発足し、全国に支部を置く組織網がつくられた。

  4. 問4

    大政翼賛会は近衛の構想どおり一つの政党が国家権力を独占する組織となり、1941年以後も政党として自由に政治活動を行った。

  5. 問5

    大日本産業報国会は国民徴用令と同じ制度であり、国家が個々の労働者の就業先を直接指定することだけを目的とした組織だった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 既成政党が相次いで解党し新体制運動へ合流する
  2. 大政翼賛会が発足する
  3. 大日本産業報国会が発足し労働組合の戦時統合が進む

Sources

参考資料

  1. 4-10 反軍演説国立国会図書館

    1940年2月2日の斎藤隆夫反軍演説、速記録削除、3月の議員除名までの経過を確認

  2. 4-11 近衛新党国立国会図書館

    近衛文麿の新体制運動推進表明、1940年7〜8月の各政党解党、大政翼賛会が『一大強力政党』にはならなかったことを確認

  3. 4-12 大政翼賛会国立国会図書館

    第2次近衛内閣、新体制準備会、1940年10月12日の大政翼賛会発足、組織構成と1941年の公事結社化・行政補助機関への改組を確認

  4. 年表|史料にみる日本の近代国立国会図書館

    1940年の反軍演説、新体制運動、政党解党、第2次近衛内閣、大政翼賛会発足の時系列を照合

  5. 大日本産業報国会[労]1940.11.23法政大学大原社会問題研究所

    主要労組の解散、大日本産業報国会の1940年11月23日成立、中央から事業場までの組織体系を確認