Knowledge Check
奈良時代の理解度テスト
9つの詳細学習トピックにある45問から、毎回10問を出題します。 各トピックからなるべく均等に選ぶため、時代全体の理解を確認できます。
Test
理解度テスト
詳細トピックの確認問題から、トピックが偏りすぎないように10問をランダムで出題します。
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『古事記』の成立事情を知る重要な根拠には、『古事記』自身の序文がある。
『古事記』序文は、天武天皇による帝紀・旧辞の整理、稗田阿礼の誦習、元明天皇による太安万侶への撰録命令などを伝える重要な史料です。ただし、その記述を無条件に客観的記録とみなすのではなく、成立目的や編纂過程には議論があります。
出題元の学習トピックを確認する風土記は、地方に伝わる神話や昔話だけを集めるために編纂された。
713年の地誌編纂では、伝承だけでなく地名・産物・土地の状態・山川などの情報も求められました。風土記は中央政府が各地を把握するための地誌という性格を持ちます。
出題元の学習トピックを確認する『日本書紀』は全30巻からなり、漢文を用いて歴史を基本的に年代順に記した編年体の史書である。
720年に完成した『日本書紀』は、舎人親王らが編纂した勅撰国史で、全30巻・漢文・編年体という特徴を持ちます。
出題元の学習トピックを確認する『古事記』は国内向け、『日本書紀』は外国向けという目的で作られたことが、史料から明確に確定している。
両書の性格には違いがありますが、『古事記』の成立目的には現在も議論があります。「国内向け/外国向け」と完全に二分して確定事項として覚えるのは適切ではありません。
出題元の学習トピックを確認する『古事記』『日本書紀』『風土記』に記された神話や伝承は、書物に記録された以上、そのまま歴史的事実として扱える。
神話や伝承をそのまま史実とすることはできません。一方で、国家や地域が自らの過去をどのように理解し記録したかを考える史料として重要です。
出題元の学習トピックを確認する722年の百万町歩開墾計画によって、名称どおり百万町歩の田地が実際に開墾された。
「百万町歩」は政策の大規模さを示す名称ですが、その数字どおりの田地が実際に開墾されたという意味ではありません。重要なのは、政府が大規模な耕地拡大を政策として推進したことです。
出題元の学習トピックを確認する三世一身法では、新しい溝や池を造って開墾した土地は三世、既存の灌漑施設を利用した場合は一身の保有が認められた。
723年の三世一身法は、開墾に必要な労力の違いに応じて保有期間を区別しました。新しい灌漑施設を造った場合は三世、既存施設を利用した場合は一身です。
出題元の学習トピックを確認する墾田永年私財法によって、身分に関係なく好きな場所を無制限に開墾して永久私有できるようになった。
墾田の永年保有は認められましたが、国司への申請などの手続きが必要で、位階などに応じた開墾面積の上限もありました。国家が土地を制度の外へ完全に手放したわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する墾田永年私財法は、私人による開墾を利用して耕地と税収の基盤を広げようとする、律令国家の政策でもあった。
743年の法は土地支配を放棄したというより、開墾者に利益を認めることで耕地拡大を促す政策でした。班田や徴税などの仕組みも、その日に消滅したわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する奈良時代の初期荘園は、平安時代中期以降の寄進地系荘園と同じ仕組みが743年に完成したものである。
奈良時代の初期荘園は、寺院や貴族などによる開墾を中心に形成されました。後の寄進地系荘園や不輸・不入と結びつく荘園とは仕組みが異なります。
出題元の学習トピックを確認する奈良時代前半は、藤原不比等の死後も藤原氏が途切れず政権の中心を占め続けた。
720年の藤原不比等死後には長屋王が政権の中心へ進み、729年の長屋王の変後に藤原四子が台頭し、737年の四子死去後は橘諸兄が中心となりました。
出題元の学習トピックを確認する長屋王の変は、長屋王が光明子の立后に反対したことだけが原因だったと確定している。
長屋王と藤原氏をめぐる政治的対立は重要ですが、事件の原因や計画主体を一つに断定することはできません。光明子立后への反対だけで説明するのは単純化です。
出題元の学習トピックを確認する藤原不比等の4人の息子である武智麻呂・房前・宇合・麻呂は、731年には全員が参議以上となった。
藤原四子は731年に4人全員が参議以上となり、朝廷の重要官職を兄弟が占める体制を形成しました。
出題元の学習トピックを確認する737年の疫病で藤原四子は全員亡くなったが、それによって藤原氏そのものが政治から消滅したわけではない。
737年に終わったのは藤原四子が担っていた政権です。四子の子孫はその後も政治に関わり、藤原氏は奈良・平安時代を通じて大きな勢力を保ちました。
出題元の学習トピックを確認する長屋王・藤原四子・橘諸兄の政権交代は、皇族派と藤原派という二陣営が常に対立した結果として説明できる。
奈良時代前半の朝廷では天皇・皇族・藤原氏・他氏族が婚姻や官職を通じて複雑に結びついていました。二陣営の固定的な対立だけで捉えるのは適切ではありません。
出題元の学習トピックを確認する藤原広嗣の乱は、藤原四子の死後に橘諸兄が政権の中心となり、吉備真備・玄昉らが重用された政治状況と関係して起こった。
藤原宇合の子・広嗣は740年、玄昉・吉備真備の排除を求めて上表し、九州で挙兵しました。藤原四子の死後に生じた政権再編が背景にあります。
出題元の学習トピックを確認する聖武天皇の関東行幸は、現在の関東地方を巡ったためこの名で呼ばれる。
ここでの「関東」は現代の関東地方ではなく、古代の三関である鈴鹿関や不破関より東へ進んだことによる呼び方です。
出題元の学習トピックを確認する恭仁京への移動は聖武天皇の一時的な滞在にすぎず、国家の政治・儀礼の中心を移すための造営は行われなかった。
恭仁宮には平城宮の大極殿などが移築され、政治・儀礼の中心そのものを移そうとする大規模な造営が進められました。
出題元の学習トピックを確認する740〜745年には、恭仁京・難波宮・紫香楽宮をそれぞれ完成させてから次の都へ移った。
恭仁京も紫香楽宮も造営途中で政治の中心が移り、建物や資材の再利用も行われました。完成した首都を順番に捨てたという動きではありません。
出題元の学習トピックを確認する聖武天皇期の宮都移動は、疫病・政争・藤原広嗣の乱・仏教政策・災害など複数の条件が重なった時期として考える必要がある。
740〜745年の移動理由を一つに固定することはできません。政治状況、国家的仏教事業、宮都造営、災害などを合わせて捉えるのが適切です。
出題元の学習トピックを確認する仏教の力で国家を守る鎮護国家の考え方は、聖武天皇が741年に初めて作り出した。
国家を仏教によって守ろうとする考えや儀礼は奈良時代以前からありました。聖武天皇の特徴は、それを国分寺・国分尼寺や大仏という全国的・大規模な事業へ展開したことです。
出題元の学習トピックを確認する741年には、全国の国分寺・国分尼寺が一斉に完成した。
741年は建立を命じる詔が出された年です。実際の寺院造営には土地選定や資材調達、僧尼の配置などが必要で、各地で時間をかけて進められました。
出題元の学習トピックを確認する国分寺・国分尼寺は、国司・郡司による地方行政とは無関係な私的寺院ではなく、国家が各国へ展開した寺院網だった。
国分寺造営には地方の人員・資材・技術も動員されました。行政網と仏教寺院網が同じ律令国家の地方支配の中に存在していた点が重要です。
出題元の学習トピックを確認する743年は大仏造立の詔が出された年で、東大寺大仏の開眼供養は752年に行われた。
743年は紫香楽で大仏造立の詔が出された年です。その後、造立事業は奈良へ移り、752年に東大寺で開眼供養が行われました。
出題元の学習トピックを確認する聖武天皇は鎮護国家政策を進めるため、律令官僚制や土地政策を停止し、国家運営を仏教だけに切り替えた。
国分寺・大仏政策と同じ時期にも律令官僚制や地方行政は続き、743年には墾田永年私財法も出されています。仏教は政治・行政と並ぶ国家運営の重要な手段でした。
出題元の学習トピックを確認する鑑真が来日する以前の日本には、戒の考え方も受戒も存在していなかった。
鑑真以前にも日本では戒や受戒は知られていました。鑑真の重要性は、唐で整えられていた正式な授戒の作法と律学を本格的に伝えた点にあります。
出題元の学習トピックを確認する鑑真の招請には、国家的な寺院制度の中で僧尼を制度的に位置づけるため、正式な授戒制度を整える必要があったことが関係している。
奈良時代の国家仏教では寺院だけでなく僧尼の秩序も重要でした。鑑真の来日は、国家が僧侶の資格・授戒制度をさらに整える動きと結びついています。
出題元の学習トピックを確認する鑑真は753年に日本へ到着し、翌754年に平城京へ入って東大寺で授戒を行った。
753年は日本到着、754年は平城京での授戒です。二つの年を同じ出来事としてまとめず、順序を区別します。
出題元の学習トピックを確認する鑑真は現代の宗派と同じ意味で律宗だけに属し、他の仏教教学とは切り離された制度を日本へ作った。
奈良時代の「宗」は現代の宗派と同じ所属単位ではありません。東大寺では複数の教学が学ばれ、律宗も後に南都六宗と呼ばれる学問的系統の一つとして位置づけられます。
出題元の学習トピックを確認する759年に鑑真が唐招提寺を開いた時点で、現在見られる伽藍がすべて完成していた。
759年は鑑真が戒律を学ぶ道場を開いた年です。伽藍の整備はその後も弟子たちによって続けられました。
出題元の学習トピックを確認する749年に孝謙天皇が即位しても、聖武太上天皇や光明皇太后の政治的影響が直ちに消えたわけではない。
聖武天皇は太上天皇、光明皇后は皇太后となり、孝謙朝でも政治的影響を持ちました。藤原仲麻呂も光明皇太后との関係を基盤に台頭します。
出題元の学習トピックを確認する紫微中台は藤原仲麻呂が律令官制を廃止して作った秘密政府で、朝廷の正式な官司とは無関係だった。
紫微中台は光明皇太后に仕えるために設けられた官司です。仲麻呂は律令官制を動かしながら、皇太后を支えるこの組織も政治基盤にしました。
出題元の学習トピックを確認する養老律令は718年に編纂され、藤原仲麻呂政権下の757年に施行された。
養老律令は藤原不比等らによって718年に編纂されましたが、実際の施行は約40年後の757年です。編纂年と施行年を区別します。
出題元の学習トピックを確認する淳仁天皇は正式な天皇ではなく、藤原仲麻呂が名目だけ置いた操り人形だった。
淳仁天皇の即位を仲麻呂が強く支えたことは重要ですが、淳仁天皇は正式に即位した天皇です。朝廷には孝謙上皇や藤原氏各家、皇族など複数の政治勢力も存在しました。
出題元の学習トピックを確認する恵美押勝の乱は、藤原仲麻呂が道鏡個人を嫌ったことだけを原因として起こった。
764年の乱には、孝謙上皇と淳仁天皇の対立、道鏡の台頭、仲麻呂の政治基盤の弱体化、軍事権をめぐる争いなど複数の要因が重なっていました。
出題元の学習トピックを確認する孝謙天皇と称徳天皇は別人ではなく、孝謙上皇が764年に重祚した後の天皇名が称徳天皇である。
阿倍内親王は749年に孝謙天皇として即位し、758年に譲位した後、764年に再び即位して称徳天皇となりました。
出題元の学習トピックを確認する『続日本紀』が道鏡を天皇同然の権力者として描く記述は、失脚後の政治状況を経た公式史書の評価であることを考慮せず、そのまま同時代の客観的事実として読める。
『続日本紀』は道鏡の権力の大きさを考える重要史料ですが、道鏡失脚後に成立した公式史書でもあります。人物評価をそのまま無条件に受け取るのは適切ではありません。
出題元の学習トピックを確認する769年に最初の宇佐八幡の神託が伝わると、称徳天皇は確認を行わず、ただちに道鏡を天皇にした。
称徳天皇は最初の神託だけで皇位継承を決めず、和気清麻呂を宇佐へ派遣して神託の真偽を確認させました。道鏡の即位は実現していません。
出題元の学習トピックを確認する道鏡自身が最初の神託を偽造して皇位を奪おうとしたことは、同時代史料によって直接確認されている。
道鏡が皇位を望んだとする後世の記述はありますが、最初の神託を道鏡自身が作ったと直接示す同時代史料はありません。偽神託を自ら仕組んだとまでは断定できません。
出題元の学習トピックを確認する宇佐八幡神託事件は、子も皇太子もいなかった称徳天皇の後継者をどうするかという皇位継承問題としても捉える必要がある。
称徳天皇には子がなく、皇太子も置かれていませんでした。道鏡個人の野望だけでなく、称徳天皇自身の後継者構想を含む政治問題として考えることが重要です。
出題元の学習トピックを確認する780年までに東北地方全体は朝廷の直接支配下に入り、その後に伊治呰麻呂の反乱が起きた。
780年の伊治呰麻呂の反乱で多賀城が焼かれたことからも、奈良時代末の東北支配はまだ拡大の途上でした。境界地域には独自の社会があり、朝廷との関係も地域ごとに異なっていました。
出題元の学習トピックを確認する長岡京は784〜794年の正式な計画都市で、桓武天皇が一時的に仮住まいしただけの場所ではない。
長岡京には大極殿・朝堂院・内裏が造られ、貴族や官人の宅地も配置されました。平安京にも匹敵する規模を持つ正式な都でした。
出題元の学習トピックを確認する平安京への遷都は、早良親王の祟りを恐れたことだけが原因だったと歴史学上確定している。
当時の朝廷が病気や災害を早良親王の祟りと考えたことは史料に見えますが、遷都原因を祟りだけに限定することはできません。政治・都市造営・自然環境など複数の問題を考える必要があります。
出題元の学習トピックを確認する792年の軍制改革では多くの国で軍団が廃止されたが、陸奥・出羽・佐渡では軍団が残された。
792年には多くの国で軍団を廃止して健児を置きましたが、東北支配の前線である陸奥・出羽と佐渡では軍団が維持されました。全国一律の廃止ではありません。
出題元の学習トピックを確認する794年の平安京遷都によって律令国家の制度は廃止され、まったく別の国家制度へ一斉に切り替わった。
平安京遷都後も律令・官僚制度・国郡制・租税など奈良時代からの仕組みは多く残りました。794年は断絶ではなく、律令国家を引き継ぎながら再編する大きな転換点です。
出題元の学習トピックを確認する
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