桓武天皇の改革と二度の遷都―奈良時代はどう終わったのか
一言でいうと
770年に光仁天皇が即位すると、皇統は天武天皇系から天智天皇系へ移りました。そして781年、その子である桓武天皇が即位します。桓武天皇は律令国家を立て直そうとする中で政治・軍事・地方支配を改革し、784年には約70年間続いた平城京を離れて長岡京へ遷都しました。ところが長岡京では造営責任者の藤原種継が暗殺され、皇太子早良親王が事件への関与を疑われて廃されます。その後も都の造営が続く一方、東北では朝廷と蝦夷の対立が激しくなり、789年には朝廷軍が阿弖流為らの勢力に大敗しました。さらに792年には多くの国で軍団を廃止して健児を置くなど軍事制度も改められ、794年、桓武天皇は平安京へ遷都します。長岡京を単なる失敗した都と考えるのではなく、平城京から離れて新しい政治体制を作ろうとする改革の途中にあった都として理解します。
780年―東北では伊治呰麻呂の反乱が起こる
桓武天皇即位の前年、780年に陸奥国で大きな事件が起こりました。伊治呰麻呂の反乱です。
伊治呰麻呂は、朝廷の支配下に組み込まれていた蝦夷系の地域有力者でした。反乱によって陸奥国府の多賀城が焼かれました。
ここで重要なのは、奈良時代末になれば東北地方全体がすでに朝廷の完全な支配下に入っていた、と考えないことです。多賀城などを拠点に朝廷側の支配領域は北へ広がっていましたが、その外側や境界地域には独自の社会を営む人々がおり、朝廷との協力・対立の関係も地域や時期によって異なっていました。
「蝦夷」とは一つの民族名なのか
古代国家の史料では、東北などで朝廷の支配に十分組み込まれていない人々を蝦夷と呼びました。
しかし、「蝦夷」という一つの統一民族が存在し、全員が一つの国として朝廷と戦っていたと考えるのは単純すぎます。朝廷側へ協力する地域有力者もいれば、反発する集団もいました。伊治呰麻呂自身も朝廷から官位を与えられた人物です。
したがって、朝廷対蝦夷という二つの固定された集団の戦争というより、朝廷の支配拡大にともなって東北各地の人々との関係が組み替えられていく過程として見ます。
781年―桓武天皇が即位する
781年、光仁天皇が譲位し、皇太子の山部親王が即位しました。これが桓武天皇です。
桓武天皇の父である光仁天皇は天智天皇の孫でした。そのため、称徳天皇まで続いていた天武天皇系の皇統から、天智天皇 → 志貴皇子 → 光仁天皇 → 桓武天皇という系統へ皇位が移ったことになります。
桓武天皇は、新しい皇統のもとで国家運営の立て直しを進めていきます。
なぜ平城京を離れようとしたのか
平城京は710年以来、奈良時代の政治・文化の中心でした。しかし桓武天皇は即位からわずか3年後、新しい都を造ることを決めます。
理由を一つだけに絞ることはできません。政治面では、平城京を基盤とする既存の貴族社会から距離を取り、新しい皇統のもとで政権を再編する意味があったと考えられています。
また、長岡京のある乙訓地域は桂川・宇治川・木津川・淀川などにつながる水運の便利な場所で、全国から税や物資を運ぶうえでも優れた立地でした。奈良の寺院勢力が嫌だったから逃げた、とだけ説明するのではなく、政治・交通・経済など複数の目的を持つ遷都として考えます。
784年―長岡京へ遷都する
784年、桓武天皇は平城京から山背国乙訓郡へ都を移しました。これが長岡京です。現在の京都府向日市・長岡京市・大山崎町・京都市の一部にあたります。
長岡京は東西約4.3キロメートル、南北約5.3キロメートルに及ぶ大規模な計画都市で、平安京にも匹敵する規模でした。
したがって、784年から794年まで天皇が一時的に仮住まいしていたという理解は適切ではありません。大極殿・朝堂院・内裏が造られ、貴族や官人の宅地も配置された正式な都でした。
長岡宮の跡は現在も残っている
長岡京の政治の中心が長岡宮でした。現在の向日市では、大極殿・朝堂院・内裏などの遺構が発掘され、国史跡として保存されています。
長岡宮大極殿は、桓武天皇が重要な政務や儀式を行った建物でした。長岡京は史料の中だけに存在する幻の都ではなく、都市の構造を発掘調査から具体的に確認できる都です。
資料で見る:向日市「長岡宮大極殿跡」
785年―藤原種継が暗殺される
長岡京造営の中心人物が藤原種継でした。しかし785年、長岡京の造営中に種継が矢で射られ、死亡します。
犯人として大伴氏などの人々が捕らえられ、さらに事件への関与を疑われたのが桓武天皇の弟で皇太子だった早良親王です。
早良親王は皇太子を廃され、乙訓寺へ幽閉された後、淡路国へ送られることになりました。しかし親王は自らの無実を訴えて食を断ち、移送途中に亡くなりました。
「早良親王の祟りで長岡京を捨てた」のか
その後、桓武天皇の周囲では皇族の病気や死、洪水などの災害が相次ぎました。当時の朝廷では、それらを早良親王の祟りと考えるようになります。
792年には皇太子の病気について占った結果、早良親王の祟りと判断されたことも記録されています。
ただし、早良親王の祟りが怖くなったから長岡京を捨てて平安京へ逃げた、とだけ説明するのは避けます。これは当時の人々が災害や病気をどのように理解したかを示す重要な事実ですが、現代の歴史学として実際の遷都原因を祟りと断定することはできません。
長岡京はなぜ10年で終わったのか
長岡京が短命に終わった理由も一つではありません。長岡京では洪水など水害への対応が必要でした。
また発掘調査から、都市造営を進める中で土地利用や都の構造に問題が生じ、桓武天皇が考える新しい都を実現するには、さらに別の場所へ移る必要が生じたとする見方があります。
したがって、藤原種継暗殺だけ、早良親王の祟りだけ、洪水だけのどれか一つを原因とするのではなく、政治・都市造営・自然環境など複数の問題が重なったと考えます。
都づくりの一方で東北への軍事行動も続く
桓武天皇が長岡京を造営していた時期、東北では朝廷の支配拡大をめぐる軍事行動が続いていました。780年の伊治呰麻呂の反乱以後も、朝廷は北上川流域の胆沢方面へ軍を進めます。
つまり桓武朝では、新しい都を造ることと東北への軍事行動を続けることが同時に進められていました。どちらも大量の人員・物資・財政負担を必要とする国家的事業でした。
789年―阿弖流為らに朝廷軍が敗れる
789年、朝廷は大軍を胆沢地方へ送りました。しかし朝廷軍は、阿弖流為らが率いる地域勢力に大敗します。
現在の奥州市周辺にあたる胆沢地域は、この時点ではまだ朝廷の支配下に十分組み込まれていませんでした。
ここでも、桓武天皇が蝦夷を征服したとは覚えません。789年の時点ではむしろ朝廷側が大敗しています。阿弖流為の降伏や胆沢城の造営は802年であり、平安京遷都より後の出来事です。
阿弖流為は奈良時代の人物なのか、平安時代の人物なのか
阿弖流為の活動は、奈良時代末から平安時代初頭にまたがっています。789年の朝廷軍撃退は、このサイトの区分では奈良時代。802年の降伏は平安時代です。
したがって阿弖流為は、時代区分をまたいで理解する必要のある人物です。このページでは789年までを扱い、その後の坂上田村麻呂・胆沢城・802年の降伏については平安時代で続きを学びます。
792年―軍団を廃止し、健児を置く
792年、桓武天皇は多くの国で従来の軍団を廃止しました。代わって、選ばれた兵士を用いる健児の制度が置かれます。
ただし、東北支配の前線である陸奥・出羽や、佐渡では軍団が残されました。
この改革は、律令国家成立期以来の軍事制度をそのまま維持するのではなく、社会の現実に合わせて制度を組み替えようとした桓武朝の改革の一つです。
793年―さらに新しい都を造り始める
793年、桓武天皇は山背国葛野郡宇太村の地を新しい都の候補として調査させました。現在の京都市です。
まもなく新しい宮都の建設が始まり、長岡京の内裏なども解体されていきます。宅地の配分も始まり、翌年の遷都に向けて都市の建設が本格化しました。
つまり794年になって突然「今日から京都を都にする」と決めたのではなく、前年から計画的な造営・移転が進められていました。
794年―平安京へ遷都する
794年10月、桓武天皇は新しい都へ移りました。翌月、この都が平安京と名付けられます。
平安京は朱雀大路を中心に左右の京を配置し、その北部に内裏や官庁を置く計画都市でした。
ここから一般に平安時代と呼ばれる時代が始まります。このサイトでも、710年の平城京遷都を奈良時代開始、794年の平安京遷都を奈良時代終了・平安時代開始として区切ります。
784年に平城京を離れたのに、なぜ奈良時代は794年までなのか
桓武天皇は784年に平城京から長岡京へ移っています。それなら、奈良に都がない784年からはもう奈良時代ではないのでは、と感じるかもしれません。
歴史の時代区分は、その時代の人々が使っていた正式名称ではなく、後世の研究・教育上の区分です。奈良時代については一般に710年の平城京遷都から794年の平安京遷都までと区切ります。
そのため長岡京の10年間も、一般的な時代区分では奈良時代末として扱われます。このサイトもこの区分を採用しています。
平城京から平安京へ移ったら、国家は別物になったのか
794年は非常に大きな節目です。しかし、平安京へ移った瞬間に律令国家が消えて、まったく別の国家になったわけではありません。
律令、官僚制度、国・郡による地方行政、租税など、奈良時代から続く仕組みの多くは平安時代にも残ります。一方で、班田収授の運用、軍事制度、地方支配、蝦夷との戦争、仏教政策、皇位継承や貴族政治などは変化していきます。
つまり794年は、奈良時代の制度を捨ててゼロから作り直した年ではなく、奈良時代に形成された律令国家を引き継ぎながら新しい方向へ再編していく大きな転換点です。
このページで覚えたい流れ
770年、光仁天皇が即位する → 皇統が天武天皇系から天智天皇系へ移る → 780年、伊治呰麻呂の反乱で多賀城が焼かれる → 東北支配がまだ進行途中であることが明らかになる → 781年、桓武天皇が即位する → 国家運営の立て直しを進める → 784年、平城京を離れて長岡京へ遷都する → 水陸交通に優れた新しい政治拠点を築く → 785年、長岡京造営を担った藤原種継が暗殺される → 早良親王が事件への関与を疑われて廃され、死亡する → 長岡京造営を続けながら東北への軍事行動も進める → 789年、朝廷軍が阿弖流為らの勢力に大敗する → 792年、多くの国で軍団を廃止し健児を置く → 793年、新しい都の建設を始める → 794年、平安京へ遷都する → 奈良時代が終わり、平安時代へ移る
奈良時代の終わりは、平城京を捨てて京都へ移っただけではありません。皇統の変化 → 桓武天皇の即位 → 政治・軍事制度の改革 → 長岡京への遷都 → 東北で続く支配拡大 → 平安京への遷都、という複数の変化が重なり、奈良時代の律令国家が次の段階へ移っていく過程として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 780年、伊治呰麻呂の反乱で多賀城が焼かれる
- 781年、光仁天皇の子で天智天皇系の桓武天皇が即位する
- 784年、長岡京へ遷都する
- 長岡京は単なる仮の都ではなく、784〜794年の正式な都である
- 785年、藤原種継が暗殺され、早良親王が関与を疑われて皇太子を廃される
- 早良親王の祟りだけを平安京遷都の原因としない
- 789年、朝廷軍が阿弖流為らの勢力に敗れる
- 阿弖流為の降伏は802年で、平安時代に入ってから
- 792年、陸奥・出羽・佐渡を除く多くの国で軍団を廃止し健児を置く
- 794年、平安京へ遷都する
- 一般的な時代区分では784〜794年の長岡京期も奈良時代に含める
- 794年に律令国家が消滅したわけではなく、奈良時代の制度を引き継ぎながら再編が進む
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理解度チェック
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0 / 5 問回答
- 問1
780年までに東北地方全体は朝廷の直接支配下に入り、その後に伊治呰麻呂の反乱が起きた。
780年の伊治呰麻呂の反乱で多賀城が焼かれたことからも、奈良時代末の東北支配はまだ拡大の途上でした。境界地域には独自の社会があり、朝廷との関係も地域ごとに異なっていました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
長岡京は784〜794年の正式な計画都市で、桓武天皇が一時的に仮住まいしただけの場所ではない。
長岡京には大極殿・朝堂院・内裏が造られ、貴族や官人の宅地も配置されました。平安京にも匹敵する規模を持つ正式な都でした。
本文の該当箇所を確認する - 問3
平安京への遷都は、早良親王の祟りを恐れたことだけが原因だったと歴史学上確定している。
当時の朝廷が病気や災害を早良親王の祟りと考えたことは史料に見えますが、遷都原因を祟りだけに限定することはできません。政治・都市造営・自然環境など複数の問題を考える必要があります。
本文の該当箇所を確認する - 問4
792年の軍制改革では多くの国で軍団が廃止されたが、陸奥・出羽・佐渡では軍団が残された。
792年には多くの国で軍団を廃止して健児を置きましたが、東北支配の前線である陸奥・出羽と佐渡では軍団が維持されました。全国一律の廃止ではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問5
794年の平安京遷都によって律令国家の制度は廃止され、まったく別の国家制度へ一斉に切り替わった。
平安京遷都後も律令・官僚制度・国郡制・租税など奈良時代からの仕組みは多く残りました。794年は断絶ではなく、律令国家を引き継ぎながら再編する大きな転換点です。
本文の該当箇所を確認する
Result
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Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
参考資料
- 多賀城跡宮城県
780年の伊治呰麻呂の反乱と多賀城政庁の焼失・再建について参照。
- 古代I(奈良時代~平安初期)奥州市
789年の胆沢遠征と阿弖流為らによる朝廷軍撃退について参照。
- 長岡京とは向日市
784〜794年の長岡京の規模と正式な都としての都市構造を参照。
- 遷都前向日市
長岡京遷都の政治的背景と水陸交通上の立地について参照。
- 桓武天皇向日市
桓武天皇期の長岡京、早良親王、792年の軍事制度改革について参照。
- 遷都後向日市
長岡京の都市計画変化と平安京遷都へ至る背景について参照。
- 京都の歴史年表 都市のすがた京都市
793年の新都造営開始と794年の平安京遷都について参照。
