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奈良時代740〜745年政治・外交重要度 A

藤原広嗣の乱と聖武天皇の宮都移動―なぜ都を何度も移したのかふじわらのひろつぐのらんとしょうむてんのうのきゅうといどう なぜみやこをなんどもうつしたのか

一言でいうと

740年、藤原広嗣の乱が九州で起こりました。その直後、聖武天皇は平城京を離れて東方へ行幸し、同年末には恭仁京へ遷都します。しかし恭仁京の造営は途中で停止され、744年には難波宮が皇都となり、その後は近江の紫香楽宮が事実上の政治の中心となりました。そして745年、聖武天皇は再び平城京へ戻ります。この一連の移動を「聖武天皇が気まぐれに都を変えた」と理解するのではなく、疫病や政争、藤原広嗣の乱、仏教政策、新しい宮都の造営などが重なった時期として見ます。

740年―藤原広嗣の乱

737年の疫病で藤原四子が全員亡くなると、橘諸兄が政権の中心となり、吉備真備や玄昉らが重用されるようになりました。

これに不満を持った人物の一人が、藤原宇合の子である藤原広嗣ふじわらのひろつぐです。

広嗣は大宰少弐として九州にいましたが、740年、玄昉・吉備真備の排除を求める上表を提出し、九州で兵を挙げました。朝廷は大野東人を大将軍とする追討軍を派遣し、広嗣軍を破ります。広嗣は逃亡しましたが捕らえられ、処刑されました。

前のページで見た、藤原四子の死 → 橘諸兄政権 → 吉備真備・玄昉の重用という政治の変化が、藤原広嗣の乱へつながっていきます。

乱の直後、聖武天皇は平城京を離れる

藤原広嗣の乱が起きた740年、聖武天皇は平城京を出発しました。伊賀・伊勢・美濃・近江などを巡り、最終的に山背国の恭仁へ向かいます。この行程は一般に関東行幸かんとうぎょうこうと呼ばれます。

現在の関東地方を巡ったという意味ではなく、古代の三関の一つである鈴鹿関や不破関より東へ進んだことによる名称です。

行幸は藤原広嗣の乱の直後に始まり、騎兵を伴っていたことなどから軍事的な性格も指摘されています。

ただし、藤原広嗣の乱が起きたため聖武天皇が恐れて都から逃げた、という単純な説明にはしません。乱と宮都移動が近接していることは重要ですが、遷都の目的を乱だけで説明できる確実な史料があるわけではありません。

740年―恭仁京へ遷都する

740年末、聖武天皇は平城京へ戻らず、山背国相楽郡に恭仁京くにきょうを置きました。現在の京都府木津川市です。

恭仁宮の造営にあたっては、平城宮の大極殿などの建物が解体され、恭仁宮へ移築されました。現在も恭仁宮跡では大極殿跡の基壇や礎石を見ることができます。

つまり恭仁京への移動は、天皇だけが一時的に滞在したというより、国家の政治・儀礼の中心そのものを移そうとする大規模な事業でした。

資料で見る:木津川市「特別史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)」

恭仁京では重要政策も進められた

恭仁京は短命な都でしたが、その間にも重要な政策が進められました。741年には国分寺・国分尼寺建立の詔が出され、743年には墾田永年私財法が出されています。

つまり「都が定まらず政治が止まっていた」わけではありません。

一方で、742年には近江国の紫香楽にも宮が造られ始め、743年には恭仁宮の造営が停止されました。この時期には複数の宮都・造営事業が並行して進んでいたことが重要です。

紫香楽では大仏を造ろうとした

聖武天皇は742年から紫香楽宮への行幸を繰り返しました。そして743年、紫香楽で大仏造立の詔を出します。

現在の滋賀県甲賀市では、宮殿跡だけでなく、大仏を造立しようとした寺院跡なども確認されています。

この時期の宮都移動を考えるとき、聖武天皇の仏教政策を切り離すことはできません。ただし、国分寺や大仏建立の意味については別の詳細テーマで扱い、ここでは宮都移動と国家的な仏教事業が同時に進んでいたことを押さえます。

資料で見る:甲賀市「天平の都 紫香楽宮跡」

744年―難波宮を皇都とする

744年、聖武天皇は難波宮なにわのみやを皇都としました。現在の大阪市にあった奈良時代の難波宮です。

難波は瀬戸内海と内陸水運を結ぶ交通上の重要地点でもあり、以前から副都的な機能を持っていました。

しかし難波宮が政治の中心となった期間も長くはありません。聖武天皇はその後、紫香楽へ移っていきます。

ここでも「正式な都」「天皇が滞在する宮」「副都」などの性格が時期によって変わるため、単純に都市名だけを並べないことが重要です。

745年―紫香楽宮が事実上の都となる

745年初めには、紫香楽宮しがらきのみやが事実上の都として機能していました。

発掘調査では、宮町地区から正殿や脇殿、内裏と考えられる大規模な建物群が見つかっています。

かつては別の場所が紫香楽宮の中心と考えられていましたが、長年の発掘調査によって宮殿の姿が徐々に明らかになってきました。つまり紫香楽も、単なる山中の一時的な避難場所ではありませんでした。

それなのに、なぜ平城京へ戻ったのか

745年、紫香楽周辺では地震が相次ぎ、火災などの不穏な出来事も起きました。『続日本紀』には、官人らにどこを京とするべきかを尋ね、平城を望む意見が示されたことも記されています。

そして745年、聖武天皇は平城京へ還都しました。

ただし、地震が起きたから平城京へ戻った、と原因を一つに絞ることも避けます。紫香楽での大仏造営、宮都建設への負担、官人側の意向、火災・地震など、複数の事情が重なった中で還都が決まったと見る方が適切です。

5年間で「都を4回造り直した」のか

740〜745年だけを見ると、平城京 → 恭仁京 → 難波宮 → 紫香楽宮 → 平城京と目まぐるしく移動しています。

しかし、それぞれで完全な都市を一から完成させてから次へ移ったわけではありません。恭仁京は造営途中で中止され、紫香楽でも宮殿や大仏の造営が進行している途中で平城へ戻っています。

また、平城宮から恭仁宮へ大極殿などを移築したように、建物や資材も再利用されました。「首都を完成 → 捨てる → また完成」という動きではなく、複数の宮都候補を造営しながら政治の中心が移動した時期と考える方が実態に近いでしょう。

なぜ聖武天皇は都を何度も移したのか

この問いには、一つだけの答えはありません。背景としては、735〜737年の疫病、737年の藤原四子の死、740年の藤原広嗣の乱、橘諸兄政権を中心とする政治状況、国分寺・大仏造立などの仏教政策、新たな宮都の建設、地震・火災などの災害といった複数の要素が重なっています。

したがって「聖武天皇が○○を嫌ったから」のような心理的な理由一つで説明しないことが重要です。

この5年間は、疫病・政争・反乱が続いた社会不安の中で、聖武天皇が政治・宗教の新しい中心を模索した時期として捉えると流れが見えやすくなります。

740〜745年の宮都移動は、藤原広嗣の乱・仏教政策・災害など一つの理由だけに固定せず、複数の政治・社会条件が重なった時期として理解します。

このページで覚えたい流れ

737年、疫病で藤原四子が全員死亡する → 橘諸兄が政権の中心となる → 吉備真備・玄昉らが重用される → 740年、藤原広嗣の乱が九州で起こる → 朝廷軍が反乱を鎮圧する → 聖武天皇が平城京を離れて関東行幸へ出る → 740年末、恭仁京へ遷都する → 741年、国分寺・国分尼寺建立の詔 → 紫香楽宮の造営も進める → 743年、恭仁宮造営を停止する → 紫香楽で大仏造立の詔を出す → 744年、難波宮を皇都とする → 紫香楽宮へ政治の中心が移る → 地震・火災なども相次ぐ → 745年、平城京へ還都する

この時期は都の名前を暗記するだけではなく、政治不安 → 藤原広嗣の乱 → 宮都の移動 → 仏教政策 → 平城京への帰還という大きな流れで理解します。

Review

入試で押さえるポイント

  • 740年、藤原宇合の子・藤原広嗣が九州で挙兵する
  • 740年、藤原広嗣の乱後に聖武天皇は平城京を離れ、同年末に恭仁京へ遷都する
  • 恭仁宮には平城宮の大極殿などが移築された
  • 744年、難波宮が皇都と定められる
  • 745年、紫香楽宮へ政治の中心が移る
  • 745年、聖武天皇は平城京へ還都する
  • 宮都移動の理由を藤原広嗣の乱・仏教政策・災害など一つだけに固定しない

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    藤原広嗣の乱は、藤原四子の死後に橘諸兄が政権の中心となり、吉備真備・玄昉らが重用された政治状況と関係して起こった。

  2. 問2

    聖武天皇の関東行幸は、現在の関東地方を巡ったためこの名で呼ばれる。

  3. 問3

    恭仁京への移動は聖武天皇の一時的な滞在にすぎず、国家の政治・儀礼の中心を移すための造営は行われなかった。

  4. 問4

    740〜745年には、恭仁京・難波宮・紫香楽宮をそれぞれ完成させてから次の都へ移った。

  5. 問5

    聖武天皇期の宮都移動は、疫病・政争・藤原広嗣の乱・仏教政策・災害など複数の条件が重なった時期として考える必要がある。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 藤原広嗣の乱が起こる
  2. 恭仁京へ遷都する
  3. 難波宮が皇都と定められる
  4. 紫香楽宮へ都を移す
  5. 平城京へ還都する
  6. 橘諸兄が右大臣となり政権を担う
  7. 国分寺・国分尼寺建立の詔が出される
  8. 大仏造立の詔が出される

Sources

参考資料

  1. 藤原広嗣の乱奈良県立万葉文化館 万葉百科

    740年の藤原広嗣の上表・挙兵、朝廷軍による鎮圧までの経過を参照。

  2. 関東行幸奈良県立万葉文化館 万葉百科

    740年の聖武天皇の行幸経路と藤原広嗣の乱後の政治状況を参照。

  3. 特別史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)木津川市

    740年の恭仁京遷都、平城宮大極殿の移築、恭仁宮跡の発掘成果を参照。

  4. 天平の都 紫香楽宮跡甲賀市

    紫香楽宮の造営、宮町地区の宮殿遺構、大仏造立との関係を参照。

  5. 恭仁京奈良県立万葉文化館 万葉百科

    740〜745年の恭仁京・難波宮・紫香楽宮・平城京還都の時系列を参照。