長屋王・藤原四子・橘諸兄―奈良時代前半の政権はどう移ったのか
一言でいうと
奈良時代前半の政治は、単純に藤原氏がずっと権力を握っていたと見ると流れを見失います。720年に藤原不比等が亡くなった後、皇族出身の長屋王が政権の中心に立ちます。しかし729年の長屋王の変で失脚すると、不比等の4人の息子である藤原四子が政界の中心となりました。ところが737年、天然痘とみられる疫病の大流行によって四兄弟全員が相次いで亡くなります。その結果、翌738年には橘諸兄が右大臣となり、政権の中心が再び変化しました。長屋王 → 藤原四子 → 橘諸兄という流れをつかむと、その後の藤原広嗣の乱や聖武天皇の相次ぐ宮都移動も理解しやすくなります。
藤原不比等の死後、長屋王が政権の中心へ
飛鳥時代末から奈良時代初めにかけて政治の中心にいたのが藤原不比等です。不比等は大宝律令・養老律令の編纂に関わり、娘の宮子は文武天皇の夫人となって聖武天皇を産み、もう一人の娘である光明子も聖武天皇の夫人となりました。
しかし720年、不比等が亡くなります。その後に朝廷の最高位へ進んだ人物の一人が長屋王でした。
長屋王は天武天皇の孫で、高市皇子の子です。妻の吉備内親王は元明天皇の娘であり、皇室と非常に近い血統を持つ有力皇族でした。
721年に右大臣、724年には左大臣となり、聖武天皇の即位後の朝廷で重要な地位を占めます。
長屋王はどれほど有力だったのか
現在の奈良市二条大路南では、長屋王の邸宅跡が発掘されています。邸宅は平城京の4町分、およそ7万平方メートルを占める大規模なものでした。
さらに約4万点もの木簡が発見され、長屋王家には家政を担当する組織があり、各地から食料などが運び込まれていたことが分かっています。
「長屋王」と記された木簡も実際に出土しています。長屋王は教科書では729年の事件だけで登場しがちですが、それ以前には平城京を代表する最高級の皇族・政治家として大きな権力を持っていた人物です。
資料で見る:奈良市「長屋王邸跡」
729年―長屋王の変
729年、長屋王が国家に対する謀反を企てているという密告が行われました。朝廷側は長屋王の邸宅を包囲し、長屋王は妻の吉備内親王や子どもたちとともに自害へ追い込まれます。これが長屋王の変です。
ただし、「藤原四子が長屋王を完全な無実の罪で陥れた」とまで単純化するのは避けます。事件の背景には藤原氏と長屋王をめぐる政治的な対立があったと考えられますが、謀反の密告がなぜ起こり、どの人物がどこまで事件を計画したのかについては慎重に見る必要があります。
重要なのは、この事件によって左大臣だった長屋王が政治の中心から排除されたという結果です。
光明子が皇后になる
長屋王の変が起きた729年、その後に大きな政治的出来事が続きます。聖武天皇の夫人だった光明子が皇后となりました。
光明子は藤原不比等の娘で、藤原四子の姉妹です。長屋王の変後には、光明皇后の兄弟である藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂が政界の中心へ進んでいきます。
このため、長屋王の失脚 → 光明子の立后 → 藤原四子の台頭という政治的な流れを押さえることが重要です。
ただし、長屋王が光明子の立后に反対したから殺された、と原因を一点に固定するのは避けます。
藤原四子とは誰か
藤原四子とは、藤原不比等の4人の息子です。武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4人を指します。
後世、それぞれの子孫は藤原氏の4つの家へつながります。武智麻呂は南家、房前は北家、宇合は式家、麻呂は京家の祖とされます。
731年には4人全員が参議以上の地位につき、朝廷の重要官職を藤原兄弟が占める体制が形成されました。
奈良時代の政治を見るときには「藤原氏」という一つの集団だけを見るのではなく、ここから南家・北家・式家・京家へ分かれていくことも押さえておくと、その後の藤原氏内部の動きが分かりやすくなります。
737年―疫病が政権そのものを変える
ところが藤原四子の政権は長く続きませんでした。735年ごろから天然痘とみられる疫病が広がり、737年には平城京でも大流行します。
この疫病によって藤原四子は、房前、麻呂、武智麻呂、宇合と737年のうちに全員が相次いで亡くなりました。
政治史では戦争や政争に注目しがちですが、ここでは感染症が政権中枢の構成そのものを変えてしまったことが重要です。
藤原氏そのものが滅びたわけではない
藤原四子が全員亡くなったからといって、藤原氏が政治の世界から消えたわけではありません。武智麻呂・房前・宇合らには子どもがおり、その子孫は後の奈良・平安時代の政治で再び大きな力を持ちます。
たとえば宇合の子である藤原広嗣は、この数年後の740年に反乱を起こします。
したがって737年は、「藤原氏が滅亡した年」ではなく、藤原四子が担っていた政権が突然終わった年と理解します。
737年に終わったのは藤原氏そのものではなく、藤原四子が担っていた政権です。
738年―橘諸兄が右大臣となる
藤原四子が亡くなった後、政界の中心へ進んだのが橘諸兄です。
諸兄はもともと葛城王という皇族で、736年に母の県犬養三千代に由来する橘姓を賜りました。
737年に大納言、738年には右大臣へ昇進し、聖武朝の政治を主導するようになります。諸兄のもとでは、遣唐使として唐で学び735年に帰国した吉備真備や僧玄昉らも重用されるようになります。
しかし、この新しい政治体制に反発した藤原氏の人物がいました。藤原宇合の子、藤原広嗣です。この対立は740年の藤原広嗣の乱へつながっていきます。
「皇族対藤原氏」の繰り返しなのか
長屋王は皇族、藤原四子は藤原氏、橘諸兄も皇族出身です。そのため、皇族 → 藤原氏 → 皇族と政権が交互に入れ替わったように見えます。
しかし、実際の政治はそこまで単純ではありません。天皇・皇族・藤原氏・その他の有力氏族が婚姻関係でも結びつき、官職を分担しながら朝廷を運営していました。
「皇族派と藤原派が常に二つに分かれて戦っていた」と考えるより、その時々の有力者の死・婚姻・昇進・事件などによって政権の中心人物が変化していったと見る方が適切です。
このページで覚えたい流れ
藤原不比等が奈良時代初めの政治を主導する → 720年、不比等が死去する → 皇族の長屋王が政権の中心へ進む → 724年、長屋王が左大臣となる → 729年、長屋王の変で長屋王が自害する → 同年、藤原不比等の娘・光明子が皇后となる → 不比等の4人の息子、藤原四子が政治の中心となる → 731〜737年ごろ、藤原四子が政権を主導する → 735〜737年、天然痘とみられる疫病が大流行する → 737年、藤原四子が全員死亡する → 政権中枢に大きな空白が生じる → 738年、橘諸兄が右大臣となり政権を担う → 吉備真備・玄昉らも重用される → これに反発する藤原広嗣が740年に挙兵する
奈良時代前半の政治は、人物名を個別に暗記するより、「長屋王 → 藤原四子 → 橘諸兄」という政権の移り変わりで覚えると、その後の藤原広嗣の乱や聖武天皇の政治へ自然につながります。
Review
入試で押さえるポイント
- 729年、長屋王の変で左大臣長屋王が謀反の疑いをかけられ、妻子とともに自害する
- 同じ729年、藤原不比等の娘・光明子が皇后となる
- 藤原四子は武智麻呂・房前・宇合・麻呂で、それぞれ南家・北家・式家・京家の祖となる
- 737年の疫病流行で藤原四子全員が死亡し、政権の構成が大きく変わる
- 738年、橘諸兄が右大臣となり、聖武朝の政治を主導する
- 長屋王の変を光明子立后への反対だけが原因とし、737年を藤原氏滅亡と単純化しない
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0 / 5 問回答
- 問1
奈良時代前半は、藤原不比等の死後も藤原氏が途切れず政権の中心を占め続けた。
720年の藤原不比等死後には長屋王が政権の中心へ進み、729年の長屋王の変後に藤原四子が台頭し、737年の四子死去後は橘諸兄が中心となりました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
長屋王の変は、長屋王が光明子の立后に反対したことだけが原因だったと確定している。
長屋王と藤原氏をめぐる政治的対立は重要ですが、事件の原因や計画主体を一つに断定することはできません。光明子立后への反対だけで説明するのは単純化です。
本文の該当箇所を確認する - 問3
藤原不比等の4人の息子である武智麻呂・房前・宇合・麻呂は、731年には全員が参議以上となった。
藤原四子は731年に4人全員が参議以上となり、朝廷の重要官職を兄弟が占める体制を形成しました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
737年の疫病で藤原四子は全員亡くなったが、それによって藤原氏そのものが政治から消滅したわけではない。
737年に終わったのは藤原四子が担っていた政権です。四子の子孫はその後も政治に関わり、藤原氏は奈良・平安時代を通じて大きな勢力を保ちました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
長屋王・藤原四子・橘諸兄の政権交代は、皇族派と藤原派という二陣営が常に対立した結果として説明できる。
奈良時代前半の朝廷では天皇・皇族・藤原氏・他氏族が婚姻や官職を通じて複雑に結びついていました。二陣営の固定的な対立だけで捉えるのは適切ではありません。
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