孝謙天皇と藤原仲麻呂―なぜ恵美押勝の乱へ進んだのか
一言でいうと
749年、聖武天皇から皇位を譲られた阿倍内親王が孝謙天皇として即位しました。同じ年、藤原南家の藤原仲麻呂は大納言となり、光明皇太后のために設けられた紫微中台の長官も兼ねて急速に力を伸ばします。757年の橘奈良麻呂の変を経て政権の中心に立ち、758年には仲麻呂が支持した大炊王が淳仁天皇として即位しました。仲麻呂は恵美押勝の名を与えられ、臣下として最高位にまで上ります。しかし、孝謙上皇と淳仁天皇の関係が悪化し、道鏡が孝謙上皇から重用されるようになると仲麻呂の立場も変化し、764年の恵美押勝の乱で敗死します。その後、淳仁天皇は廃位され、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となりました。
749年―孝謙天皇が即位する
749年、聖武天皇は皇位を娘の阿倍内親王へ譲りました。阿倍内親王が第46代孝謙天皇です。父は聖武天皇、母は光明皇后で、738年にはすでに皇太子となっていました。
聖武天皇は太上天皇となり、光明皇后は皇太后となります。このため、孝謙天皇の即位によって聖武・光明の政治的影響が直ちに消えたわけではありません。
その中で急速に力を伸ばしたのが、光明皇太后と深い関係を持つ藤原仲麻呂でした。
藤原仲麻呂は藤原四子の次の世代
藤原仲麻呂は、藤原四子の一人である藤原武智麻呂の子です。つまり、藤原不比等 → 藤原武智麻呂 → 藤原仲麻呂と続く藤原南家の人物です。
737年の疫病によって藤原四子は全員亡くなりましたが、藤原氏そのものが消えたわけではありません。
前に学んだ「藤原四子の死後も、その子どもたちが後の政治へ戻ってくる」という流れが、藤原仲麻呂の台頭によって具体化します。
749年―紫微中台の長官となる
孝謙天皇が即位した749年、藤原仲麻呂は大納言へ昇進し、さらに紫微中台の長官となりました。
紫微中台は光明皇太后に仕えるために設けられた官司で、仲麻呂は皇太后の強い信任を受けながら、この組織を政治的な基盤としていきます。
ただし、「紫微中台という裏政府を作って朝廷を乗っ取った」とまで単純化する必要はありません。律令官制そのものを動かしながら、その外側にも光明皇太后を支える強力な政治基盤を持った、と理解すると分かりやすいでしょう。
756〜757年―皇位継承と仲麻呂の立場が結びつく
756年、聖武太上天皇が亡くなりました。その後、皇太子となったのが道祖王です。
しかし翌757年、道祖王は皇太子を廃されました。新しい皇太子を誰にするかをめぐって複数の皇族が候補となる中、藤原仲麻呂が支持したのが大炊王でした。
大炊王は天武天皇の孫で、舎人親王の子です。後の淳仁天皇となります。皇位継承と藤原仲麻呂の政治的立場が、ここで強く結びついていきます。
757年―養老律令を施行する
757年、養老律令が施行されました。養老律令そのものは藤原不比等らによって718年に編纂されていましたが、長く施行されず、大宝律令が使われていました。
それを約40年後に施行したのが藤原仲麻呂政権です。仲麻呂にとって藤原不比等は祖父にあたります。
ただし、「757年に養老律令を施行=この日に律令国家が完成した」という意味ではありません。実際の社会や地方行政は法令どおり一様に動いていたわけではなく、律令制度自体も現実に合わせて変化し続けていました。
757年―橘奈良麻呂の変
同じ757年、橘奈良麻呂の変が起こります。橘奈良麻呂は、以前の政権を率いていた橘諸兄の子です。
奈良麻呂らは藤原仲麻呂を排除しようと計画しましたが、密告によって事前に発覚しました。奈良麻呂をはじめ多くの関係者が捕らえられ、厳しい取り調べを受け、奈良麻呂も死亡します。
この事件によって仲麻呂に対抗する有力者が多数失脚し、藤原仲麻呂を中心とする政権が確立していきました。
橘奈良麻呂の計画はどこまで分かるのか
橘奈良麻呂の変については、『続日本紀』に詳しい取り調べの記録があります。そこでは仲麻呂の殺害や政府の掌握、別の皇族の擁立など、かなり具体的な計画が記されています。
しかし、こうした供述は事件発覚後の取り調べによって得られたものです。そのため、記録されている計画の細部をすべてそのまま実行直前の事実とみなすのではなく、国家側がまとめた事件記録であることにも注意します。
一方、事件後に多数の有力者が排除され、藤原仲麻呂の権力がさらに強まったという政治的結果は重要です。
758年―淳仁天皇が即位する
758年、孝謙天皇は大炊王へ譲位しました。大炊王が第47代淳仁天皇です。
淳仁天皇の即位を強く支えたのが藤原仲麻呂でした。同じ年、仲麻呂は恵美押勝の名を与えられ、さらに右大臣に相当する大保へ進みます。
官職名の一部も唐風に改められ、唐の制度・文化を強く意識した仲麻呂政権の特徴の一つとなりました。
淳仁天皇は「仲麻呂の操り人形」だったのか
藤原仲麻呂が淳仁天皇の即位を支え、淳仁朝で非常に大きな権力を持ったことは確かです。
しかし、「淳仁天皇=藤原仲麻呂の言うことだけを聞く操り人形」とまで説明するのは単純すぎます。淳仁天皇は正式に即位した天皇であり、朝廷には孝謙上皇、光明皇太后、藤原氏各家、皇族など複数の政治勢力が存在していました。
重要なのは、淳仁天皇と仲麻呂の政治的な結びつきが非常に強かったことです。
760年―光明皇太后が亡くなる
760年、光明皇太后が亡くなりました。仲麻呂にとって光明皇太后は、叔母であると同時に、長年にわたって政治的な後ろ盾となった重要人物でした。
仲麻呂はこの時期にはすでに大師、つまり太政大臣に相当する最高位へ進んでいましたが、光明皇太后の死によって朝廷内の政治関係も変化していきます。
その後に新たな存在感を強めるのが、孝謙上皇と僧道鏡です。
762年―孝謙上皇と淳仁天皇が対立する
762年、孝謙上皇は病気となり、僧道鏡の看病を受けました。これを契機に道鏡は孝謙上皇から強い信任を得るようになります。
同じころ、孝謙上皇と淳仁天皇の関係は悪化しました。孝謙上皇は詔を出し、日常的な小さな政務は淳仁天皇が担当し、国家の重要事項と賞罰は自分が行うという趣旨を示しました。
天皇と上皇のどちらが政治の実権を持つのかが不明確になり、淳仁天皇と結びついた藤原仲麻呂にとっても厳しい状況となっていきます。
764年―恵美押勝の乱
764年、藤原仲麻呂、すなわち恵美押勝は軍事力を用いて政治状況を変えようとしました。しかし計画は事前に発覚し、孝謙上皇側は仲麻呂から官位・氏姓を奪い、軍を動かします。
仲麻呂は近江方面へ逃れましたが、朝廷軍に敗れ、殺されました。これが恵美押勝の乱です。
道鏡への反発だけで説明するのではなく、孝謙上皇と淳仁天皇の対立、道鏡の台頭、仲麻呂の政治的基盤の弱体化、軍事権をめぐる争いが重なった政変として見る必要があります。
正倉院の武器が実際に使われた
正倉院には、聖武天皇の死後に東大寺へ献納された多数の武器・武具が保管されていました。
764年の乱が起こると、その武器・武具の多くが宝庫から持ち出され、乱の鎮圧に使われたと考えられています。政治史上の「反乱」が実際の武器動員を伴った軍事事件だったことを、実物資料から具体的に考えることができます。
資料で見る:奈良国立博物館「正倉院展」
乱の後、淳仁天皇も廃位される
藤原仲麻呂が敗れた後、淳仁天皇も皇位を失いました。孝謙上皇は、淳仁天皇が仲麻呂と政治的に結びついていたことを理由に退位させ、淡路へ送ります。
淳仁天皇は長く淡路廃帝と呼ばれ、現在の「淳仁天皇」という追号が与えられたのは明治時代になってからです。
そして764年、孝謙上皇が再び皇位につきます。同じ人物がいったん退位した後にもう一度即位することを重祚といい、再即位後は称徳天皇と呼ばれます。
「孝謙天皇対藤原氏」だったのか
この時期を、孝謙天皇・道鏡対藤原氏という単純な対立にしてしまうのも適切ではありません。藤原氏内部にも複数の家があり、仲麻呂と同じ立場ではない人物がいました。
仲麻呂の兄である藤原豊成は757年に失脚しましたが、764年に仲麻呂が敗れると右大臣へ復帰しています。藤原北家の藤原永手も、その後の称徳朝で重要な地位を占めました。
したがって、藤原仲麻呂政権の敗北=藤原氏全体の敗北ではありません。藤原氏の中でも家や人物によって政治的立場が異なっていたことを押さえます。
藤原仲麻呂の敗北を、藤原氏全体の没落と同一視しないことが重要です。
このページで覚えたい流れ
749年、孝謙天皇が即位する → 藤原仲麻呂が大納言・紫微中台長官となって台頭する → 光明皇太后の信任を背景に政治的影響力を強める → 756年、聖武太上天皇が亡くなる → 道祖王が皇太子となる → 757年、道祖王が廃太子となる → 仲麻呂が支持する大炊王が皇太子となる → 養老律令を施行する → 橘奈良麻呂の変を鎮圧し、仲麻呂政権が強まる → 758年、孝謙天皇が譲位し淳仁天皇が即位する → 仲麻呂が恵美押勝の名を与えられる → 760年、光明皇太后が亡くなる → 762年、孝謙上皇と淳仁天皇が対立する → 道鏡が孝謙上皇から重用される → 764年、恵美押勝の乱 → 仲麻呂が敗死する → 淳仁天皇が廃位される → 孝謙上皇が重祚し、称徳天皇となる
この時期は「藤原仲麻呂が権力を握って反乱を起こした」とだけ覚えるのではなく、孝謙天皇即位 → 仲麻呂の台頭 → 皇位継承への影響力拡大 → 淳仁天皇即位 → 孝謙上皇との権力関係が変化 → 恵美押勝の乱、という政治の流れで理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 749年、孝謙天皇が即位する
- 749年、藤原仲麻呂が紫微中台の長官となり、光明皇太后の信任を背景に台頭する
- 757年、718年に編纂されていた養老律令が施行される
- 757年、橘奈良麻呂の変が起こり、その後藤原仲麻呂政権が強まる
- 758年、大炊王が淳仁天皇として即位する
- 藤原仲麻呂は恵美押勝の名を与えられる
- 762年、孝謙上皇と淳仁天皇の関係が悪化し、道鏡が台頭する
- 764年、恵美押勝の乱で藤原仲麻呂が敗死する
- 淳仁天皇は廃位され、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となる
- 仲麻呂の敗北を藤原氏全体の没落と同一視しない
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- 問1
749年に孝謙天皇が即位しても、聖武太上天皇や光明皇太后の政治的影響が直ちに消えたわけではない。
聖武天皇は太上天皇、光明皇后は皇太后となり、孝謙朝でも政治的影響を持ちました。藤原仲麻呂も光明皇太后との関係を基盤に台頭します。
本文の該当箇所を確認する - 問2
紫微中台は藤原仲麻呂が律令官制を廃止して作った秘密政府で、朝廷の正式な官司とは無関係だった。
紫微中台は光明皇太后に仕えるために設けられた官司です。仲麻呂は律令官制を動かしながら、皇太后を支えるこの組織も政治基盤にしました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
養老律令は718年に編纂され、藤原仲麻呂政権下の757年に施行された。
養老律令は藤原不比等らによって718年に編纂されましたが、実際の施行は約40年後の757年です。編纂年と施行年を区別します。
本文の該当箇所を確認する - 問4
淳仁天皇は正式な天皇ではなく、藤原仲麻呂が名目だけ置いた操り人形だった。
淳仁天皇の即位を仲麻呂が強く支えたことは重要ですが、淳仁天皇は正式に即位した天皇です。朝廷には孝謙上皇や藤原氏各家、皇族など複数の政治勢力も存在しました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
恵美押勝の乱は、藤原仲麻呂が道鏡個人を嫌ったことだけを原因として起こった。
764年の乱には、孝謙上皇と淳仁天皇の対立、道鏡の台頭、仲麻呂の政治基盤の弱体化、軍事権をめぐる争いなど複数の要因が重なっていました。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 孝謙天皇奈良国立博物館 正倉院展用語解説
749年の即位、藤原仲麻呂との政治関係、764年の重祚までを参照。
- 藤原仲麻呂奈良国立博物館 正倉院展用語解説
紫微中台長官就任、政権掌握、光明皇太后との関係、恵美押勝の乱までを参照。
- 養老律令奈良国立博物館 正倉院展用語解説
718年の編纂と757年の施行を参照。
- 橘奈良麻呂の変奈良県立万葉文化館 万葉百科
757年の事件と藤原仲麻呂政権強化の政治的経過を参照。
- 恵美押勝の乱奈良県立万葉文化館 万葉百科
764年の政変、藤原仲麻呂の敗死、淳仁天皇廃位、孝謙上皇重祚までを参照。
- 淳仁天皇奈良県立万葉文化館 万葉百科
大炊王から淳仁天皇即位、藤原仲麻呂との関係、764年の廃位を参照。
- 正倉院展奈良国立博物館
正倉院宝物の武器・武具と恵美押勝の乱との関係を参照。
