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奈良時代742〜759年文化重要度 A

鑑真と戒律―なぜ日本は唐の高僧を招いたのかがんじんとかいりつ なぜにほんはとうのこうそうをまねいたのか

一言でいうと

奈良時代の日本にはすでに仏教も僧尼も存在していました。しかし、僧侶へ戒を授ける制度をさらに整えるため、朝廷は唐から正式な授戒の作法を伝えられる高僧を招こうとします。その招請を受けたのが唐の僧鑑真でした。鑑真は5度の渡航失敗を経て753年に日本へ到着し、翌754年に平城京へ入り、東大寺で聖武太上天皇・孝謙天皇らに戒を授けました。759年には唐招提寺を開き、戒律を学ぶ拠点とします。

そもそも「戒律」とは何か

仏教の出家者には、守るべき生活上・宗教上の規則があります。戒かいは仏教徒が守るべき規範、律りつは僧団の生活や秩序を定める規則として理解すると分かりやすいでしょう。

出家者として正式な戒を受ける儀式が受戒じゅかいです。唐では、すでに正式な戒を受けた僧たちが一定の作法によって新しい僧へ戒を授ける制度が整えられていました。

鑑真は、唐で発達したこの授戒の作法と律学を日本へ伝えた人物です。

鑑真以前の日本には戒律がなかったのか

鑑真が来る以前にも、日本では戒の考え方や受戒そのものは知られていました。「鑑真が来るまで、日本の僧侶には何の戒律もなかった」と考えるのは適切ではありません。

一方、8世紀の朝廷は、唐で行われていた正式な授戒の作法を導入し、僧侶を制度的に認定する仕組みをさらに整えようとしました。

鑑真の役割は、日本へ初めて戒という考えを持ってきたことではなく、唐で確立していた戒律と授戒制度を本格的に伝えたことにあります。

742年―栄叡と普照が鑑真を招く

唐へ渡っていた日本の留学僧に、栄叡ようえいと普照ふしょうがいました。

742年、二人は唐で高僧として知られていた鑑真がんじんを訪ね、日本へ伝戒の師として来てほしいと求めます。

鑑真は当時すでに江南を代表する高僧でしたが、この招請を受けて日本への渡航を決意しました。ここから約12年にわたる渡航の試みが始まります。

なぜ何度も日本へ来られなかったのか

唐から日本への航海は非常に危険でした。鑑真は日本へ渡ろうとして5度失敗し、漂流などの苦難を経験します。

その過程で視力を失ったと伝えられていますが、それでも渡日を断念せず、6回目の航海でようやく日本へ到達しました。

「盲目になっても日本へ来た」という逸話だけでなく、日本側が長期間にわたって正式な伝戒師を求め、鑑真もその要請に応え続けたことを見るのが重要です。

753年―6度目の航海で日本へ到着する

753年、鑑真はついに日本へ到着しました。

ここは年号を分けて覚えます。753年は日本へ到着した年で、平城京へ入って本格的に授戒を行うのは翌754年です。

「753年 日本到着 → 754年 平城京で授戒」という順序を押さえます。

753年は日本到着、754年は平城京で授戒。二つの出来事を区別します。

754年―平城京へ入り、東大寺で授戒する

754年、鑑真は平城京へ入りました。東大寺大仏殿の前に戒壇を設け、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇らに戒を授けます。その後、多くの僧侶にも授戒を行いました。

これによって、鑑真が伝えた正式な授戒の方法が日本で実践されるようになります。

資料で見る:奈良国立博物館「国宝 鑑真和上展」

「戒壇」とは何なのか

戒壇とは、僧侶に戒を授ける儀式を行う場所です。

754年の最初の授戒は東大寺大仏殿前に設けられた壇で行われ、その後、常設の施設として東大寺戒壇院かいだんいんが整備されました。

戒壇は単なる儀式会場ではありません。正式な受戒を行い、僧侶を制度的に位置づけることで、国家の仏教制度を支える重要な場所となりました。

なぜ国家が僧侶の資格を気にしたのか

奈良時代の仏教は国家と深く結びついていました。国分寺・国分尼寺を各国に設け、東大寺では大仏を造立しています。

こうした国家的な寺院制度を運営するには、寺院に所属する僧尼についても一定の秩序が必要です。

戒律と授戒制度を整えることは単なる宗教内部の問題ではなく、律令国家が僧尼をどのように制度の中へ位置づけるかという問題でもありました。鑑真の来日は、聖武朝の大規模な仏教政策の延長線上で見ると理解しやすくなります。

鑑真は「律宗だけ」を教えたのか

鑑真は特に律学の師として重要ですが、奈良時代の「宗」は現代の宗派と同じように、必ず一つだけを選んで所属するものと考えない方がよいでしょう。

東大寺では複数の仏教教学が学ばれており、後に南都六宗なんとろくしゅうと呼ばれる学問的な系統が発達します。その一つが律宗です。

鑑真が伝えた律学と授戒制度は、その後の日本仏教に大きな影響を残しました。

759年―唐招提寺を開く

鑑真は来日後、約5年間を東大寺で過ごしました。759年、新田部親王の旧宅地を与えられ、戒律を学ぶ人々のための修行道場を開きます。これが唐招提寺とうしょうだいじの始まりです。

ただし、759年に現在見られる唐招提寺の伽藍がすべて完成したわけではありません。創建後も鑑真の弟子たちによって伽藍の整備が続きました。

資料で見る:唐招提寺「唐招提寺とは」

鑑真和上坐像から本人の姿を想像できる

唐招提寺には国宝鑑真和上坐像がんじんわじょうざぞうが伝わっています。奈良時代の脱活乾漆造による肖像彫刻です。

教科書の人物名だけでなく、8世紀に作られた肖像を見ることで、鑑真をより具体的な歴史上の人物として捉えられます。

資料で見る:唐招提寺「御影堂」

「鑑真=盲目の僧」だけでは足りない

鑑真は「何度も遭難し、目が見えなくなっても日本へ来た僧」という人物伝で覚えられがちです。もちろんその渡航の苦難は重要です。

しかし日本史としてより重要なのは、なぜ日本側が鑑真を必要としたのかです。

奈良時代の国家は、寺院・僧尼を国家制度の中に組み込みながら仏教政策を進めていました。その中で、僧侶へ正式に戒を授ける制度を整える必要があり、唐で律学を修めた鑑真が招かれました。鑑真の来日を、個人の冒険物語だけでなく、奈良時代の国家仏教を制度面から支えた出来事として理解します。

このページで覚えたい流れ

日本ですでに仏教・僧尼が広がる → 僧侶へ正式に戒を授ける制度をさらに整える必要が生じる → 742年、栄叡・普照が唐の鑑真へ渡日を要請する → 鑑真が日本行きを決意する → 5回の渡航に失敗する → 753年、6度目の航海で日本へ到着する → 754年、平城京へ入る → 東大寺で授戒する → 戒壇院を拠点に授戒制度を整える → 律学・戒律を日本へ伝える → 759年、唐招提寺を開く → 戒律を学ぶ重要な拠点となる

鑑真は「戒律を知らなかった日本へ初めて戒を持ってきた人物」と覚えるのではなく、唐の正式な授戒制度と律学を日本へ伝え、奈良時代の僧団制度を整える大きな役割を果たした人物として理解します。

Review

入試で押さえるポイント

  • 742年、留学僧の栄叡・普照が鑑真に渡日を要請する
  • 鑑真は5回の渡航失敗を経て、753年に日本へ到着する
  • 754年、平城京へ入り、東大寺で聖武太上天皇・孝謙天皇らに授戒する
  • 東大寺に戒壇院が整備され、正式な授戒の拠点となる
  • 鑑真は唐の律学・授戒制度を本格的に日本へ伝えた
  • 759年、戒律を学ぶ道場として唐招提寺を開く
  • 753年の日本到着と754年の平城京での授戒を区別する
  • 鑑真以前の日本には戒律が存在しなかったと単純化しない

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理解度チェック

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    鑑真が来日する以前の日本には、戒の考え方も受戒も存在していなかった。

  2. 問2

    鑑真の招請には、国家的な寺院制度の中で僧尼を制度的に位置づけるため、正式な授戒制度を整える必要があったことが関係している。

  3. 問3

    鑑真は753年に日本へ到着し、翌754年に平城京へ入って東大寺で授戒を行った。

  4. 問4

    鑑真は現代の宗派と同じ意味で律宗だけに属し、他の仏教教学とは切り離された制度を日本へ作った。

  5. 問5

    759年に鑑真が唐招提寺を開いた時点で、現在見られる伽藍がすべて完成していた。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 鑑真が日本へ到着する
  2. 鑑真が東大寺で授戒を行う
  3. 鑑真が唐招提寺を開く
  4. 東大寺大仏の開眼供養が行われる

Sources

参考資料

  1. 国宝 鑑真和上展奈良国立博物館

    鑑真の渡航、753年の日本到着、754年の授戒、日本での活動について参照。

  2. 唐招提寺とは唐招提寺

    鑑真の招請、渡航、759年の唐招提寺創建とその後の伽藍整備について参照。

  3. 戒壇院戒壇堂東大寺

    754年の授戒と東大寺戒壇院の役割について参照。

  4. 御影堂唐招提寺

    国宝鑑真和上坐像と鑑真の肖像資料について参照。