承和の変から摂関政治へ―藤原良房・基経はどう権力を強めたのか
一言でいうと
平安時代の藤原氏は、最初から天皇を押さえて政治を独占していたわけではありません。9世紀、藤原北家の藤原良房は皇位継承に深く関わり、自分の娘を天皇家へ入れて清和天皇の外祖父となりました。幼い清和天皇が即位すると政務を補佐し、人臣として初めて摂政となった人物として位置づけられます。その後、養子の藤原基経がこの立場を引き継ぎ、887年には関白となりました。ただし、この時点から摂関政治が切れ目なく完成したわけではありません。天皇家との婚姻関係・皇位継承への関与・摂政や関白という政治的位置が組み合わされ、後の摂関政治の基礎が形成された時期として理解します。
まず藤原北家とは何なのか
奈良時代から藤原氏は有力貴族でしたが、藤原氏の内部には南家・北家・式家・京家など複数の系統がありました。平安時代に特に力を伸ばしたのが藤原北家です。
前に学んだ蔵人頭の藤原冬嗣も北家の人物で、その子が藤原良房です。良房の政治的地位は、養子の藤原基経、さらに後の藤原道長・頼通へつながる北家の発展の重要な出発点となりました。
842年―承和の変が起こる
842年、嵯峨上皇が亡くなった直後に承和の変が起こりました。当時の天皇は仁明天皇で、皇太子には淳和天皇の皇子である恒貞親王が立っていました。
伴健岑や橘逸勢らが恒貞親王を東国へ移そうとしたという疑いをかけられ、事件の結果、関係者が処罰され、恒貞親王も皇太子を廃されました。
新たな皇太子となったのが仁明天皇の皇子・道康親王です。後の文徳天皇であり、承和の変は単なる貴族同士の争いではなく、どの皇統が次の天皇となるのかという皇位継承問題と深く関係していました。
承和の変は藤原良房の陰謀だったのか
承和の変の後、良房と関係の深い皇統が有利になったため、事件を良房がすべて仕組んだ陰謀として説明することがあります。
しかし、事件の全過程を良房一人の計画として断定するのは避けます。確実なのは、恒貞親王が廃太子となり、道康親王が皇太子となったことで、良房の政治的立場がその後さらに強くなっていったことです。
事件によって誰が利益を得たかと、誰が事件をどこまで計画したかは分けて考えます。
藤原氏はなぜ天皇の外祖父を目指したのか
良房は娘の藤原明子を、のちの文徳天皇となる道康親王の后にしました。明子が産んだ皇子が惟仁親王です。
惟仁親王が天皇になれば、良房は天皇の母方の祖父である外祖父となります。幼い天皇にとって母方の親族は身近な後見者になりやすく、政治的な補佐役となるうえでも有利でした。
後の摂関政治では、藤原氏の娘を天皇の后にする → 皇子が生まれる → 皇子が天皇となる → 藤原氏が外祖父として補佐する、という構造が重要になります。
858年―藤原良房が摂政となる
858年、文徳天皇が亡くなり、惟仁親王が9歳で清和天皇として即位しました。良房は清和天皇の外祖父でした。
幼い天皇の政務を補佐する立場として良房の政治的役割が大きくなります。高校日本史では、858年に藤原良房が人臣として初めて摂政となったと押さえます。
史料上は858年の良房の立場と、866年に改めて天下の政を摂行するよう命じられたこととの関係に議論があります。学習上は、幼帝清和天皇の外祖父である良房が人臣摂政の先例を作ったことを中心に理解します。
そもそも摂政とは何なのか
摂政は、幼い天皇などが十分に政務を行えない場合に、天皇を補佐して政務を行う立場です。
天皇を補佐する仕組み自体が良房から始まったわけではありません。良房が重要なのは、皇族ではない臣下である人臣として摂政となった点です。
ここから、天皇の母方の親族である藤原氏が幼い天皇を摂政として補佐する、という後の政治形態につながっていきます。
866年―応天門の変が起こる
866年、平安宮の応天門が炎上しました。大納言の伴善男は当初、左大臣の源信が放火したと訴えました。
その後、伴善男側が事件に関与したとする告発が出され、伴善男は流罪となりました。これが応天門の変です。
事件によって古くからの有力氏族である伴氏は大きな打撃を受け、結果として良房の政治的優位はさらに強まりました。ただし、良房自身が放火を計画したと断定することは避けます。
『伴大納言絵巻』で事件を見る
応天門の変は、国宝『伴大納言絵巻』にも描かれています。炎上する応天門や逃げる人々、事件をめぐる告発などが生き生きと表現されています。
ただし、この絵巻は866年当時に描かれた記録画ではなく、12世紀に制作されたものです。事件そのものを知る資料であると同時に、後世の人々が応天門の変をどのように物語化したかを見る資料として扱います。
資料で見る:出光美術館「伴大納言絵巻」
良房の次はなぜ藤原基経なのか
良房には政治的後継者となる男子がいなかったため、兄・藤原長良の子である藤原基経を養子としました。
876年、幼い陽成天皇が即位すると基経が摂政となり、良房が作った人臣摂政の先例が次の世代へ継承されます。
良房一代だけの特別な地位ではなく、藤原北家の政治的地位として受け継がれ始めたことが重要です。
887年―藤原基経が関白となる
887年、宇多天皇が即位しました。宇多天皇は成人した天皇だったため、幼い天皇を補佐する摂政とは事情が異なります。
そこで基経に与えられた政治的位置が関白です。関白は、天皇が重要な政治判断を行う前に政務へ関与し、補佐する立場として発達していきます。
大学受験では『藤原良房=人臣初の摂政』『藤原基経=初の関白』という組み合わせを確実に押さえます。
阿衡の紛議とは何だったのか
基経が関白となった直後、宇多天皇との間で阿衡の紛議が起こりました。
宇多天皇が基経に政治を任せる詔書の中で、中国古代の官職名である『阿衡』という語が使われました。しかし『阿衡には実際の職務がない』とする解釈が示され、基経は政務を拒否しました。
政治が停滞した結果、宇多天皇側が詔書の表現を撤回します。この事件は、関白という肩書きだけでなく、基経自身が朝廷で非常に大きな政治力を持っていたことを示しています。
887年に摂関政治が完成したのか
良房が摂政となり、基経が関白となったことで、後の摂関政治につながる重要な仕組みはできました。
しかし基経が891年に亡くなると、宇多天皇は藤原氏だけに政治を任せず、菅原道真なども登用します。続く醍醐天皇の時代にも天皇が自ら政治を行う時期があります。
したがって858年から摂関政治が切れ目なく続いたとは考えません。良房・基経の時代は、摂政・関白という先例が作られ、藤原北家が外戚として政治に関与する仕組みの基礎が形成された段階です。
なぜ藤原氏は強くなれたのか
藤原北家の台頭を、政敵を次々と追放したからだけで説明すると不十分です。
天皇家と婚姻する → 娘が皇子を産む → 皇子が天皇となる → 外祖父となる → 幼帝なら摂政として補佐する → 成人天皇にも関白として関与する、という仕組みが重要でした。
藤原氏は武力で天皇家を倒したのではなく、天皇家の内部へ婚姻によって深く入り込み、天皇を補佐する立場を政治権力へ変えていきました。
このページで覚えたい流れ
842年、承和の変 → 恒貞親王が廃太子となる → 道康親王が皇太子となり、のち文徳天皇となる → 良房の娘・明子と文徳天皇の間に惟仁親王が生まれる → 858年、惟仁親王が清和天皇として即位する → 外祖父の藤原良房が幼帝を補佐し、人臣初の摂政という先例を作る → 866年、応天門の変で伴善男が失脚する → 良房の政治的優位がさらに強まる → 養子の藤原基経が地位を引き継ぐ → 887年、基経が関白となる → 887〜888年、阿衡の紛議
この時期は摂関政治が完全に定着した時代ではありません。天皇家との婚姻・外祖父という立場・摂政と関白という政治的位置が組み合わされ、後の藤原北家による摂関政治の基礎が形成された段階として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 842年、承和の変。恒貞親王が廃太子となり、道康親王が皇太子となる
- 藤原良房は藤原北家。天皇家との婚姻と外戚関係を背景に権力を強める
- 858年、清和天皇即位。藤原良房=人臣初の摂政として押さえる
- 866年、応天門の変。伴善男が失脚する。良房自身が放火を計画したと断定しない
- 藤原基経は良房の養子で、その政治的地位を継承する
- 887年、藤原基経=初の関白
- 887〜888年、阿衡の紛議。宇多天皇と基経の政治関係を示す
- 摂関政治の基本構造は、天皇との婚姻 → 外祖父 → 摂政・関白
- 良房・基経の時代は摂関政治の完成ではなく、その基礎形成の段階と理解する
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- 問1
承和の変は、藤原良房が事件の全過程を計画した陰謀だったと確定している。
事件後に良房と関係の深い皇統が有利になったことは確かですが、事件の全過程を良房一人の計画と断定することはできません。
本文の該当箇所を確認する - 問2
藤原氏が天皇の外祖父となることは、幼い天皇の身近な後見者として政治に関与するうえで有利だった。
娘を天皇の后とし、その皇子が即位すると外祖父となる構造は、後の摂関政治を支える重要な仕組みでした。
本文の該当箇所を確認する - 問3
藤原良房が重要なのは、天皇を補佐する仕組みそのものを初めて作ったからである。
天皇を補佐する仕組み自体は以前からありました。良房の重要性は、皇族ではない人臣として摂政となった先例を作った点にあります。
本文の該当箇所を確認する - 問4
藤原基経の関白は、幼帝だけでなく成人した天皇の政務にも藤原氏が関与する政治的位置として発達した。
887年に成人した宇多天皇が即位すると、基経は摂政とは異なる関白という立場で政務へ関与しました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
887年に藤原基経が関白となった後、摂関政治は中断なく続き、天皇親政の時期はなくなった。
基経の死後には宇多天皇が菅原道真らを登用し、醍醐天皇期にも天皇が自ら政治を行う時期がありました。良房・基経期は摂関政治の基礎形成段階です。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 承和の変に関する研究資料国立国会図書館 NDLサーチ
842年の承和の変と皇位継承をめぐる政治状況について参照。
- 伴大納言絵巻出光美術館
応天門の変を描いた12世紀の『伴大納言絵巻』の内容と制作時期について参照。
- 藤原良房の摂政就任に関するレファレンス国立国会図書館 レファレンス協同データベース
858年と866年における藤原良房の摂政・政務摂行の位置づけについて参照。
- 関白成立に関する研究資料国立国会図書館 NDLサーチ
887年の藤原基経と関白の成立、阿衡の紛議の背景について参照。
