薬子の変と令外官―なぜ律令にない役所が必要になったのか
一言でいうと
平安時代に入っても律令国家が突然なくなったわけではありません。しかし、律令が作られた時代には想定されていなかった政治上の問題も増えていきました。797年には国司交代を監督する勘解由使が置かれ、810年の薬子の変へ至る政治的緊張の中では、天皇の側近として機密文書や命令伝達を担う蔵人所が設けられました。さらに816年ごろには平安京の治安維持や犯罪捜査を担う検非違使が置かれます。これらは律令の令に規定されていない令外官です。平安初期の政治は『律令制が崩壊した』のではなく、律令を基本としながら新しい官職を加え、現実に合わせて制度を組み替えていったと理解します。
桓武天皇の後、誰が天皇になったのか
806年に桓武天皇が亡くなると、その子の平城天皇が即位しました。しかし809年、平城天皇は弟へ譲位し、弟が嵯峨天皇となります。
退位した平城天皇は平城上皇となって平城京へ移り、その周囲にも官人が集まりました。嵯峨天皇が平安京で政治を行う一方、平城上皇も政治的な影響力を持っていたため、二つの政治的中心が生まれかねない状況になりました。
奈良文化財研究所の発掘調査でも、809年以降の平城宮が相当な規模で再整備されたことが確認されています。
藤原薬子とはどんな人物だったのか
平城上皇の側近として大きな影響力を持った人物が藤原薬子です。その兄の藤原仲成も平城上皇側の有力者でした。
この事件は『薬子の変』と呼ばれるため、薬子一人が上皇を操って反乱を起こしたように見えやすいですが、平城上皇自身も政治的な意思を持って行動していました。
したがって、人物一人の陰謀としてではなく、嵯峨天皇側と平城上皇側の政治的対立として理解します。
797年―すでに令外官の勘解由使が置かれていた
平安初期の新しい官職は、嵯峨天皇の時代に突然始まったわけではありません。桓武天皇は797年に勘解由使を置きました。
勘解由使は、国司が交代するときに前任者と後任者の引き継ぎが適正に行われたかを審査するための官職です。
律令の既存官制だけでは処理しにくくなった問題に対し、必要な官職を追加するという対応がすでに始まっていました。
810年―なぜ蔵人所が置かれたのか
平城上皇との緊張が高まる中、810年、嵯峨天皇は蔵人所を設置しました。蔵人所は天皇のそばで機密文書を扱い、命令を伝え、宮中のさまざまな実務を担当する組織です。
初代の蔵人頭の一人には藤原冬嗣が任命されました。
重要なのは、蔵人所が太政官など従来の律令官司を廃止して置き換えたわけではないことです。既存制度を残しながら、天皇の近くで迅速・機密に動ける新しい組織を追加しました。
810年―薬子の変が起こる
810年、平城上皇は都を平城京へ戻す方針を示しました。これに対して嵯峨天皇側は、藤原薬子の官位を奪い、藤原仲成を拘束するなどして平城上皇側の動きを抑えました。
平城上皇は東国へ向かおうとしましたが、嵯峨天皇側に進路を阻まれて平城京へ戻り、出家しました。薬子は自害し、事件は短期間で終結します。
これが薬子の変です。結果として嵯峨天皇側が政治の主導権を確保し、平安京が都として定着していく重要な節目となりました。
そもそも令外官とは何なのか
勘解由使や蔵人所は、律令の官制を定めた令には規定されていない官職・組織でした。このような官職を令外官と呼びます。
『令外』という言葉から、律令を無視した制度のように見えるかもしれません。しかし実際には、律令国家の枠組みを維持しながら、現実の政治や社会に必要な機能を補うために設けられました。
平安初期を理解するときは、『律令制がすぐ崩壊した』ではなく、『律令を土台にしながら運用が変化した』と見ることが重要です。
816年ごろ―検非違使が置かれる
嵯峨天皇の時代には、さらに検非違使が置かれました。このサイトの年表では成立時期に幅を持たせ、816年ごろとしています。
検非違使は当初、平安京とその周辺の治安維持や犯罪捜査を担いました。その後は裁判や刑罰の執行にも関わり、警察・司法の機能を広く担うようになります。
これも律令に規定されていない令外官でした。既存の官司がすべてなくなったからではなく、都市の治安や犯罪へより実際的に対応するため、新しい仕組みが加えられたのです。
なぜ律令にない役所を作る必要があったのか
律令は国家運営の基本でしたが、一度作れば社会の変化に関係なく永久にそのまま使える制度ではありません。
国司の交代を監督したい → 勘解由使、天皇の側近として機密事項を迅速に処理したい → 蔵人所、平安京の治安や犯罪を専門的に処理したい → 検非違使、というように具体的な問題に応じた官職が追加されました。
令外官の成立は律令国家の消滅を意味するのではなく、律令国家が現実に合わせて制度を補い、運用方法を変化させていたことを示します。この考え方は、のちに学ぶ格式の編纂にもつながります。
このページで覚えたい流れ
797年、国司交代を監督する勘解由使を置く → 律令にない令外官で現実の問題へ対応する → 809年、平城天皇が弟の嵯峨天皇へ譲位する → 平城上皇は平城京へ移り、嵯峨天皇の政権との緊張が高まる → 810年、嵯峨天皇が蔵人所を設置する → 天皇の側近が機密文書や命令伝達を担う → 810年、薬子の変 → 嵯峨天皇側が平城上皇側を抑え、政治の主導権を確保する → 816年ごろ、検非違使を設置する → 平安京の治安・犯罪捜査などを担う
平安初期の制度変化は、律令制が突然崩壊した過程ではありません。律令の基本制度を残しながら、勘解由使・蔵人所・検非違使などの令外官を追加して現実に対応していった、と理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 810年、薬子の変。嵯峨天皇側と平城上皇側の政治的対立として理解する
- 薬子の変を藤原薬子一人の陰謀として単純化しない
- 蔵人所=嵯峨天皇=810年。天皇の側近として機密文書や命令伝達などを担当する
- 初代蔵人頭の一人が藤原冬嗣
- 検非違使=嵯峨天皇期。平安京の治安維持・犯罪捜査から裁判・刑罰にも関わる
- 勘解由使・蔵人所・検非違使はいずれも代表的な令外官
- 令外官の成立を律令制がすぐ崩壊した証拠とはせず、律令を補って現実に対応した制度と理解する
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0 / 5 問回答
- 問1
薬子の変は、藤原薬子一人が平城上皇を操って起こした陰謀として理解すれば十分である。
平城上皇自身も政治的意思を持って行動しており、事件は嵯峨天皇側と平城上皇側の政治的対立として理解する必要があります。
本文の該当箇所を確認する - 問2
810年の蔵人所は、太政官など従来の律令官司を廃止して全面的に置き換えるために設けられた。
蔵人所は既存官司を残したまま、天皇の近くで機密文書や命令伝達を迅速に処理する機能を追加した組織です。
本文の該当箇所を確認する - 問3
810年の薬子の変の結果、嵯峨天皇側が政治の主導権を確保し、平安京の都としての定着にもつながった。
平城上皇側の動きが抑えられたことで、嵯峨天皇側が政治の主導権を確保し、平安京を中心とする政治が安定する節目となりました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
勘解由使・蔵人所・検非違使のような令外官の成立は、律令国家がすでに消滅していたことを示す。
令外官は律令を無視した制度ではなく、律令国家の枠組みを維持しながら現実の問題へ対応するために機能を補ったものです。
本文の該当箇所を確認する - 問5
検非違使は平安京の治安維持や犯罪捜査を担い、その後は裁判や刑罰の執行にも関わるようになった。
検非違使は都市治安への実務的対応から始まり、次第に警察・司法の機能を広く担う令外官となりました。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 平城宮発掘調査報告II 第II章 平城宮の沿革と現状奈良文化財研究所
809〜810年の平城宮再整備と、810年の薬子の変・平城上皇の動向について参照。
- 官職・位階を調べる国立国会図書館
蔵人所・検非違使・勘解由使の補任資料と年代確認に参照。
- 京都の歴史年表 都市のすがた京都市
810年の薬子の変と、弘仁年間の検非違使による平安京の治安維持について参照。
- 一般選抜前期[B日程]日本史川崎医療福祉大学
810年の蔵人所設置、蔵人所の職掌、藤原冬嗣の蔵人頭任命について参照。
