公営田と官田―班田収授が揺らぐ中で、国家はどう財源を確保したのか
一言でいうと
律令国家は戸籍にもとづいて人々へ口分田を与え、租・調・庸などを負担させる仕組みを基本としていました。しかし平安時代に入ると、班田を決められた周期で実施することや、人ごとに税を確実に徴収することが難しくなっていきます。桓武天皇は801年に班田の周期を6年から12年へ延ばしました。その後、823年には大宰府管内で公営田、879年には畿内で官田が設けられ、国家・官司が田地の経営から財源を確保しようとします。これは班田収授がこの時点で完全に廃止されたという意味ではなく、律令の原則を維持しながら、財政の現実に合わせて土地・税制の運用を変えていく過程として理解します。
まず班田収授を思い出そう
律令国家では、戸籍をもとに一定年齢以上の男女へ口分田を班給し、死亡すると国家へ返すことを原則としていました。
班田は原則として6年ごとに行い、人々には租・調・庸などの負担が課されました。この仕組みを動かすには、誰がどこに住んでいるのか、誰にどれだけ田を与えるのか、誰からどれだけ税を取るのかを国家が継続的に把握する必要があります。
ところが平安時代になると、班田を予定どおり行うことや、戸籍上の把握と実際の人口・居住状況を一致させることがしだいに難しくなっていきました。
801年―班田を6年ごとから12年ごとへ変える
801年、桓武天皇は班田の周期を、それまでの6年に1回から12年に1回へ変更しました。
これは班田収授を廃止した政策ではありません。6年ごとの実施をそのまま維持することが難しくなったため、実施間隔を延ばして制度を維持しようとする対応でした。
前に学んだ令外官や格式と同じく、ここでも律令制度をただ捨てるのではなく、現実に合わせて運用を変えようとしていることが分かります。
なぜ税を集めることが難しくなったのか
律令の租税制度では、戸籍・計帳によって人々を把握し、成人男性を中心として調・庸などを負担させる仕組みが重要でした。
しかし人口移動や浮浪・逃亡などによって、国家が戸籍上の一人ひとりへ確実に負担を課す仕組みは運用しにくくなっていきます。
一方、中央政府や地方官衙には行政を維持するための財源が必要でした。そこで従来の徴税だけに依存せず、田地の経営とそこから得られる収穫を財源として利用する方法も重視されるようになります。
823年―大宰府管内で公営田を実施する
823年、大宰府管内で公営田の制度が実施されました。この政策を建議したのが大宰大弐の小野岑守です。
公営田では大宰府管内の田地を経営し、現地の農民を耕作にあたらせ、収穫を財政に利用しました。公営田制の実施によって従来の調・庸がただちに全面廃止されたわけではなく、従来の租税制度と新しい財源確保策が併存していました。
重要なのは、人ごとに調・庸を課すことだけでなく、田地の経営と生産物を利用して財源を確保する方法が現れたことです。
公営田は国の役人が直接耕したのか
『公営田』と聞くと、中央政府の役人自身が田を耕したようにも見えますが、実際の耕作を担ったのは現地の農民です。
大規模な田地を経営するため、農業経営に能力のある有力農民などの力も利用されました。国家が一人ひとりの農民を均一に把握して税を課すだけではなく、土地の実際の経営を担う人々を利用して収入を確保する方向が見え始めます。
この変化は、後に学ぶ田堵・負名など、10世紀以降の地方支配や徴税の仕組みにもつながっていきます。
879年―畿内に官田を置く
879年、畿内に官田が置かれました。元慶年間に設けられたため、元慶官田とも呼ばれます。
中納言兼民部卿の藤原冬緒の提案により、山城・大和・河内・摂津・和泉の五畿内に合計4000町の官田が設定されました。収益は官人への禄や官司の経費などを補うために使うことが想定されました。
経営には直営方式だけでなく地子を納めさせる方法も計画され、有力な農民の力を利用しながら財源を確保しようとしました。
資料で見る:富田林市史「公民から田堵へ」
公営田と官田は同じものなのか
完全に同じ制度ではありません。823年の公営田は大宰府管内で実施され、地方財政・租税運営の立て直しを目的としました。
879年の元慶官田は畿内に設定され、中央の官人給与や官司経費などを支える財源としての性格を持ちました。
大学受験では『823年―大宰府管内―公営田』『879年―畿内―官田』を区別したうえで、どちらも従来の租税収入だけでは不足する財源を田地経営から補おうとした政策として関連づけます。
879年にはもう班田収授は終わっていたのか
まだ全国一律に完全終了したとは言えません。9世紀後半にも地域によって班田を実施しようとする動きがありました。
河内国では元慶年間の班田が最後となり、その後は班田が行われなくなったとされています。つまり『班田がうまくいかなくなる → すぐに全国で廃止される』という単純な変化ではありません。
班田を続けようとする政策と、公営田・官田のような新しい財源確保策が並行して存在していました。その後10世紀になると班田収授は行われなくなり、地方支配や徴税の仕組みはさらに大きく変化します。
『公地公民制が崩壊した』だけで終わらせない
この時期を『班田収授制が崩壊した』『公地公民制が崩壊した』という一言だけで説明すると、国家がどのように対応したのかが見えなくなります。
朝廷は班田の周期を変更し、公営田や官田を設け、財源を確保する新しい仕組みを試しました。国家が土地や税の管理をやめたのではなく、従来とは異なる方法で管理しようとしています。
平安前期は、戸籍・人・口分田を中心とする支配から、土地の実際の経営やそこから得られる収入をより重視する方向へ徐々に変化していった時期として理解すると、10世紀の王朝国家へつながりやすくなります。
このページで覚えたい流れ
律令国家では戸籍にもとづいて口分田を班給し、租・調・庸などを徴収する → 班田や人ごとの課税を従来どおり運用することが難しくなる → 801年、桓武天皇が班田を6年1班から12年1班へ変更する → 制度を廃止せず運用を調整して維持しようとする → 財政不足への別の対応も必要になる → 823年、大宰府管内で公営田を実施する → 田地の経営と収穫から財源を確保する → 879年、畿内に元慶官田を設定する → 官人給与などの財源を補う
班田収授を維持する努力と、新しい土地経営・財源確保策は並行していました。その後10世紀になると班田収授が実施されなくなり、受領・田堵・負名を中心とする新しい地方支配へ変化していきます。
Review
入試で押さえるポイント
- 801年、桓武天皇が班田を6年1班から12年1班へ改める
- 823年、大宰府管内で公営田。建議したのは大宰大弐の小野岑守
- 879年、畿内に官田(元慶官田)を設置する
- 823年=公営田、879年=官田を区別する
- 公営田・官田は、従来の租税収入だけでは不足する財源を田地経営によって補う政策として理解する
- 823年や879年に班田収授制が全国一律に廃止されたわけではない
- 公営田・官田から、10世紀の班田収授停止、受領、田堵・負名へつながる長期変化を見る
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- 問1
801年に班田の周期が6年から12年へ延ばされたことは、班田収授そのものを廃止したことを意味する。
801年の変更は班田収授の廃止ではなく、6年ごとの実施が難しくなったため周期を延ばして制度を維持しようとした対応です。
本文の該当箇所を確認する - 問2
823年の公営田では、従来の人ごとの課税だけでなく、田地経営と収穫から財源を確保する方法が重視された。
大宰府管内の田地を現地農民に耕作させ、その収穫を財政へ利用することで、新しい財源確保策が導入されました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
公営田では、中央政府の役人が自ら田を耕すことが制度の中心だった。
実際の耕作を担ったのは現地の農民で、有力農民などの経営力も利用されました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
823年の公営田と879年の官田は、地域や財政上の役割に違いがあり、完全に同じ制度ではない。
公営田は大宰府管内の地方財政立て直し、元慶官田は畿内で官人給与や官司経費を支える財源という性格を持ちました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
公営田や官田が設けられた時点で、全国の班田収授はすでに一律に終了していた。
9世紀後半にも地域によって班田を続けようとする動きがあり、班田維持策と新しい財源確保策は並行していました。
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Sources
参考資料
- 2024年度一般選抜A方式 日本史デジタルハリウッド大学
801年の班田周期変更、823年の大宰府管内公営田、879年の畿内官田の基本事項を参照。
- 公営田と調庸制―貢納制から交易制へ国立国会図書館 NDLサーチ
823年に大宰府管内九国で実施された公営田制の性格と、従来の調庸制との関係を参照。
- 富田林市史 第二巻『公民から田堵へ』富田林市
9世紀後半の班田、879年の元慶官田、五畿内4000町の設定と有力農民を利用した経営について参照。
