Knowledge Check
弥生時代の理解度テスト
8つの詳細学習トピックにある40問から、毎回10問を出題します。 各トピックからなるべく均等に選ぶため、時代全体の理解を確認できます。
Test
理解度テスト
詳細トピックの確認問題から、トピックが偏りすぎないように10問をランダムで出題します。
0 / 10 問回答
水田稲作が伝わるまで、縄文時代の人々は植物を栽培することがなく、食料は狩猟・採集・漁労だけで得ていた。
縄文時代にも植物の管理・栽培は行われていました。大きな変化は、水田を造成して水を管理し、コメを継続的・組織的に生産する農耕体系が伝わったことです。
出題元の学習トピックを確認する菜畑遺跡では水田跡だけでなく水路や井堰も見つかっており、水を管理する一連の水田農耕が行われていたことが分かる。
菜畑遺跡では水田、水路、井堰、炭化米、農具などが確認されています。単にコメが存在しただけでなく、水田をつくり水量を調節する農耕体系が重要です。
出題元の学習トピックを確認する水田稲作が始まると、狩猟・採集・漁労はすぐに行われなくなり、食料生産はコメづくりだけになった。
菜畑遺跡では稲作とともに雑穀・豆類、狩猟、採集、魚介類の利用も確認されています。既存の多様な食料利用と水田稲作は併存しました。
出題元の学習トピックを確認する水田稲作が九州北部へ伝わることと、それが継続的な生活・生産の仕組みとして定着することは、連続する変化だが同じ意味ではない。
伝来は技術が地域へ入ること、定着はその技術が継続的な生産や生活の仕組みとして根づくことです。両者を分けて考えると移行過程を理解しやすくなります。
出題元の学習トピックを確認する紀元前10世紀ごろに九州北部へ水田稲作が伝わると、日本列島全体がほぼ同時に縄文文化から弥生文化へ移行した。
水田稲作は九州北部から時間をかけて広がり、受け入れた時期や程度には大きな地域差がありました。北海道では続縄文文化が展開するなど、列島全体が同時に移行したわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する環壕が見つかった集落は、敵との戦争だけを目的につくられた要塞だったと断定できる。
誤りです。環壕には防御だけでなく、集落内部の空間を区画する機能が考えられる例もあります。環壕の存在だけから具体的な戦争の有無や目的までは断定できません。
出題元の学習トピックを確認する傷を受けた人骨は人どうしの暴力を考える資料になるが、一体の人骨だけから、どの集団が何のために戦ったのかまで確定できるとは限らない。
正しいです。受傷人骨や武器は暴力・武力衝突を考える手がかりになりますが、具体的な当事者や原因まで同じ資料から確定できるわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する豪華な副葬品をもつ墓が現れたことは、固定した身分制度をもつ統一国家がすでに完成していたことを直接示す。
誤りです。墓の大きさや副葬品の差は、有力者の成長や社会的格差を考える資料になりますが、それだけで統一国家や固定した身分制度の完成を示すことはできません。
出題元の学習トピックを確認する吉野ヶ里遺跡は、弥生時代を通じて同じ規模・同じ構造の集落のまま続いた。
誤りです。吉野ヶ里遺跡は前期の環壕集落から、中期・後期にかけて規模を拡大し、大型建物や特別な区画をもつ政治的中心へ変化しました。
出題元の学習トピックを確認するムラからクニへの変化は、集落・人骨・武器・墓・副葬品など複数の考古資料を組み合わせて考える必要がある。
正しいです。一つの資料だけで弥生社会全体を説明せず、異なる資料から見える集落・暴力・格差・有力者の成長を組み合わせて理解することが重要です。
出題元の学習トピックを確認する水田稲作と青銅器・鉄器は、日本列島全体に同じ時期に一斉に広がった。
誤りです。水田稲作と金属器の広がり方や時期は同じではなく、金属器の普及にも地域差がありました。
出題元の学習トピックを確認する銅剣・銅矛などには、実用的な武器として伝わった後、大型化・扁平化して祭器へ変化したものがある。
正しいです。武器形青銅器は伝来当初の実用的な形から、日本列島で大型化・扁平化し、祭りや儀礼に使う祭器へ発達しました。
出題元の学習トピックを確認する銅鐸を用いた儀式の具体的な内容や、何を祈ったのかは考古資料から詳しく確定している。
誤りです。銅鐸が祭器として使われたと考えられる一方、具体的な儀式の内容や祈りの対象まで確定しているわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する武器形青銅器と銅鐸の分布は、弥生時代を通じて境界の変わらない二つの文化圏に完全に分かれていた。
誤りです。青銅祭器には地域差がありますが、その分布や使われ方は時期によっても変化します。固定した二文化圏として理解するのは適切ではありません。
出題元の学習トピックを確認する鉄器が広がっても、石器や木器はすぐには消えず、弥生時代には併用された。
正しいです。鉄器は実用品として広がりましたが、伝来直後に石器や木器を全面的に置き換えたわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する東北北部まで水田稲作が伝わると、その後は途切れることなく北へ拡大し続けた。
誤りです。東北北部では水田稲作が確認されますが、縄文文化以来の要素も残り、その後に稲作が行われなくなる時期もありました。北への広がりは一直線ではありません。
出題元の学習トピックを確認する北海道が水田稲作を基盤とする弥生文化へ移行しなかったことは、本州との交流がなかったことを意味しない。
正しいです。北海道では続縄文文化が展開しましたが、本州から鉄器などが入り、本州やサハリン方面との交流も行われました。
出題元の学習トピックを確認する弥生時代並行期の沖縄では、水田稲作を行っていたことが考古資料から確認されている。
誤りです。現在のところ、この時期の沖縄で稲作が行われていたことを示す証拠は確認されていません。
出題元の学習トピックを確認する沖縄と九州の間に「貝の道」の交易があったからといって、沖縄が水田稲作社会へ移行したとはいえない。
正しいです。南海産の貝や土器・金属製品が移動する交流はありましたが、物や情報を受け入れることと、社会の生産基盤まで同じになることは別です。
出題元の学習トピックを確認する弥生時代の同じ時間帯にも、日本列島では地域によって異なる社会や文化が並存していた。
正しいです。東北北部では水田稲作、北海道では続縄文文化、沖縄諸島では稲作を基盤としない社会が並行して展開しました。
出題元の学習トピックを確認する中国史書に倭の記事が現れたことは、この時期の日本列島で文字による歴史記録が一般化していたことを示す。
誤りです。『漢書』『後漢書』などは中国側から見た倭の記録です。中国史書に倭の記事があることと、日本列島で同時代の歴史書が一般化していたことは別です。
出題元の学習トピックを確認する『漢書』の「百余国」は、現代国家と同じ意味の国が正確に百余存在したという厳密な国数として読む必要はない。
正しいです。重要なのは、倭が一つの統一国家ではなく、多数の政治的集団に分かれていたと中国側が記録している点です。
出題元の学習トピックを確認する57年の金印は、北部九州の有力なクニの王が後漢と外交したことを考える資料だが、奴国王が日本列島全体を支配していた証拠ではない。
正しいです。奴国王と後漢の外交関係は確認できますが、同時期の倭には多数のクニが存在しており、奴国王の列島全体支配を示すものではありません。
出題元の学習トピックを確認する107年に帥升らが献じた「生口」160人は、史料上、160人の奴隷だったことが確定している。
誤りです。「生口」が具体的にどのような立場の人々を指したのかには議論があり、「160人の奴隷」とだけ断定するのは適切ではありません。
出題元の学習トピックを確認する107年の史料に「倭国王」とあることから、この時点で日本列島全体を統一する国家が成立していたと断定できる。
誤りです。「倭国王」という称号は政治的まとまりの拡大を考える手がかりですが、帥升の本拠や支配範囲は明確ではなく、列島全体の統一を示すものではありません。
出題元の学習トピックを確認する倭国大乱は、現在の日本列島全体を二分して戦った全国戦争だったと史料から確定できる。
誤りです。中国史書が「倭」と認識した政治世界の中で複数のクニが争ったことは読み取れますが、現在の日本列島全体を二分した全国戦争と断定することはできません。
出題元の学習トピックを確認する『魏志倭人伝』は、卑弥呼が他のクニを武力で征服して倭王になったと記している。
誤りです。史料には、争乱の後に諸国が卑弥呼を「共立」したと記されています。一つのクニが他国を征服したとは書かれていません。
出題元の学習トピックを確認する卑弥呼の239年の遣魏使は、前年の238年に魏が公孫氏を滅ぼして楽浪郡・帯方郡を支配した直後の外交として捉えることができる。
正しいです。卑弥呼の遣使は倭国内だけの出来事ではなく、東アジアの交通・政治状況が変化した直後に行われた外交として理解することが重要です。
出題元の学習トピックを確認する魏が卑弥呼へ贈った銅鏡100枚は、現在出土している三角縁神獣鏡だったことが確定している。
誤りです。魏が銅鏡100枚を贈ったことは史料に記されていますが、出土したどの鏡がそれにあたるのかは確定していません。
出題元の学習トピックを確認する邪馬台国の所在地は、考古資料と『魏志倭人伝』の記述によって現在では一つの場所に確定している。
誤りです。邪馬台国の所在地は現在も確定しておらず、九州説・畿内説などを中心に議論が続いています。
出題元の学習トピックを確認する卑弥呼は倭のすべてのクニを完全に支配しており、狗奴国も女王国に服属していた。
誤りです。『魏志倭人伝』には、狗奴国は女王国に服属せず、男性の王をもち、卑弥呼側と対立していたと記されています。
出題元の学習トピックを確認する247年ごろ、卑弥呼側の報告を受けた魏は軍隊を倭へ送り、狗奴国を滅ぼしたと『魏志倭人伝』に記されている。
誤りです。帯方郡から張政が派遣されたことは記されていますが、魏軍が狗奴国を倒したとは史料に書かれていません。
出題元の学習トピックを確認する卑弥呼が248年に死去したことは、中国史書から正確に確定している。
誤りです。『魏志倭人伝』では247年ごろの狗奴国との争いの記事の後に卑弥呼の死が記されますが、正確な死亡年は確定していません。
出題元の学習トピックを確認する『魏志倭人伝』に卑弥呼の大きな墓が記されているため、奈良県の箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは確定している。
誤りです。史料には卑弥呼の墓について記述がありますが、現在知られる特定の古墳をその墓と断定することはできません。箸墓古墳との関係も議論中です。
出題元の学習トピックを確認する男王のもとで争乱が続き、壱与が女王になると収まったことは、共通の王を諸国が認めることの重要性を考える手がかりになるが、倭では必ず女性が王になる決まりだったことまでは示さない。
正しいです。卑弥呼・壱与が政治秩序の形成に重要な役割を果たしたことは考えられますが、そこから女性王を必須とする固定的な継承制度まで一般化することはできません。
出題元の学習トピックを確認する日本列島で大規模な墳墓が造られるようになったのは古墳時代に入ってからで、弥生時代には大型墳丘墓は存在しなかった。
誤りです。弥生時代後期〜終末期にも、吉備の楯築遺跡など各地域の有力者のために大規模な墳丘墓が築かれていました。
出題元の学習トピックを確認する弥生時代終末期の大型墳丘墓は、吉備でも出雲でも同じ形に統一されていた。
誤りです。吉備の楯築墳丘墓と出雲の四隅突出型墳丘墓のように、弥生時代末の墳墓形式には強い地域差がありました。
出題元の学習トピックを確認する3世紀前半には、一人の王が吉備・出雲など各地域を直接支配する完成した中央集権国家が成立していたと考古資料から断定できる。
誤りです。各地には独自の墓を築く有力者が存在しており、交流・競合しながらより大きな政治的まとまりを形成していく段階として捉える方が適切です。
出題元の学習トピックを確認する纒向遺跡が3世紀の重要な政治的中心だったことから、そこが『魏志倭人伝』の邪馬台国だったことも確定している。
誤りです。纒向遺跡は邪馬台国畿内説を考える重要な資料ですが、纒向遺跡=邪馬台国は現在も確定していません。
出題元の学習トピックを確認する前方後円墳という共通する墳墓形式が広い地域へ広がったことは、有力者どうしの広域的な政治・祭祀関係を考える手がかりになるが、それだけで各地が奈良の王に直接支配されていたとはいえない。
正しいです。共通する墳墓形式の広がりは政治的統合の進展を考える重要な資料ですが、完成した中央集権国家による直接支配と同義ではありません。
出題元の学習トピックを確認する
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間違えた問題は解説と出題元の学習トピックを確認できます。