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弥生時代紀元前1世紀ごろ〜107年政治・外交重要度 A

中国史書に現れる倭―百余国・奴国・帥升ちゅうごくししょにあらわれるわ ひゃくよこく なこく すいしょう

一言でいうと

紀元前1世紀ごろになると、中国の歴史書に日本列島の人々である倭人の記録が現れます。『漢書』には倭人が百余国に分かれ、一部が朝鮮半島の楽浪郡を通じて漢と交流していたことが記されました。その後、57年には奴国王が後漢へ使者を送り、光武帝から印綬を授けられ、107年には「倭国王帥升ら」が後漢へ使者を送ります。考古資料から見てきた「ムラからクニへ」という社会変化が、ここから中国側の文字史料にも現れるようになります。

中国史書に「倭」が現れる

弥生時代の日本列島では、自分たちの政治や社会を文章で記録した同時代の歴史書は残されていません。そのため、この時代を知る基本資料は、遺跡・墓・土器・金属器などの考古資料です。

ところが、倭の人々が中国王朝と外交関係をもつようになると、中国で編纂された歴史書にも倭についての記録が残るようになります。ここからは、考古資料から分かることと、中国史書に書かれていることを組み合わせながら弥生社会を考えられるようになります。

ただし、中国史書に倭が書かれたからといって、この時期の日本列島で文字による歴史記録が一般化したという意味ではありません。あくまで中国側から見た倭の記録です。

「中国史書に倭の記事が現れること」と、「日本列島で文字による歴史記録が始まること」は分けて考えます。

紀元前108年、漢が楽浪郡を置く

倭と中国との関係を理解するうえで重要なのが、朝鮮半島に置かれた楽浪郡らくろうぐんです。

紀元前108年、中国の漢は衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島に楽浪郡などの郡を設置しました。楽浪郡は、中国王朝が朝鮮半島やその周辺地域と関係を結ぶ重要な拠点となります。

そのころから北部九州では、中国の貨幣や楽浪系の土器など大陸系の文物が見つかるようになります。倭の人々は、朝鮮半島を経由しながら中国王朝の政治的・経済的な世界と結びついていきました。

資料で見る:福岡市博物館「伊都国再発見―倭人伝のふたつの港―」

『漢書』―倭人は「百余国」に分かれていた

紀元前1世紀ごろの倭について伝える重要な文字史料が、『漢書』かんじょ地理志です。

そこには、楽浪郡の海の向こうに倭人がおり、「分かれて百余国を為す」と記されています。さらに、その中の人々が時期を定めて楽浪郡を訪れ、漢と関係をもっていたことも記されています。

ここでいう「百余国」は、現代の国家のような大規模な統一国家を意味するものではありません。弥生時代には有力者を中心に複数のムラをまとめる政治的な集団が形成されていました。『漢書』の記事は、そうした多数の「クニ」が存在していた状況を中国側から記録したものと考えると理解しやすくなります。

また、「百余」という数字を厳密な国数として読む必要はありません。重要なのは、倭が一つの統一国家ではなく、多数の政治的集団に分かれていたと記されている点です。

57年―奴国王が後漢へ使者を送る

倭の「クニ」の名前が具体的に史書へ現れるのが57年です。

中国の『後漢書』ごかんじょによると、57年、倭の奴国なこくの王が後漢へ使者を送りました。後漢の皇帝である光武帝こうぶていは、奴国王に印と綬を授けたと記されています。

そして、その印にあたると考えられているのが、福岡市の志賀島で1784年に発見された国宝の金印です。印面には「漢委奴國王」の5文字が刻まれ、一般に「漢委奴国王」金印と呼ばれています。

資料で見る:福岡市博物館「金印」

金印から何が分かるのか

金印は、文字史料と実物資料が結びつく非常に重要な資料です。『後漢書』には57年に光武帝が奴国王へ印綬を与えたとあり、実際に志賀島から「漢委奴國王」と刻まれた金印が発見されています。

このことから、少なくとも北部九州の有力な「クニ」の王が後漢へ使者を送り、中国皇帝と外交関係を結んでいたことが分かります。

ただし、奴国王が金印を授けられたからといって、奴国王が日本列島全体を支配していたわけではありません。『漢書』が伝えるように、倭には多数の「クニ」が存在していました。

奴国はどこにあったのか

奴国は、現在の福岡平野周辺にあったと考えられています。

その中心地を考えるうえで重要なのが、福岡県春日市の須玖岡本遺跡すぐおかもといせきを中心とする須玖遺跡群です。

須玖岡本遺跡では有力者の墓や青銅器工房などが集中しており、春日市はこの地域を奴国の中枢部と考えています。

ここでは、「中国史書に奴国と書かれていること」と、「考古資料から福岡平野に大きな政治的中心が確認されること」を組み合わせて歴史像を考えている点が重要です。

資料で見る:春日市「史跡 須玖岡本遺跡」

107年―「倭国王帥升」が現れる

奴国王の遣使から50年後の107年にも、倭から後漢へ使者が送られました。

『後漢書』には、倭国王帥升わこくおうすいしょうらが後漢へ生口せいこう160人を献じ、皇帝への謁見を願ったと記されています。

「生口」が具体的にどのような立場の人々だったのかについては議論があります。そのため、「160人の奴隷を献上した」とだけ決めつけず、史料にある「生口」という言葉をまず押さえておく方が安全です。

ここで注目したいのが、57年の史料では「奴国王」だったのに対して、107年には「倭国王」という称号が現れることです。倭の政治的まとまりがさらに大きくなっていた可能性を考える手がかりになります。

ただし、帥升がどこを本拠とした人物なのか、どの範囲を支配していたのかは明確ではありません。「倭国王」と書かれているからといって、107年にはすでに日本列島全体を統一した国家が成立していた、と考えてはいけません。

史料で見る:『後漢書』巻85(維基文庫)

考古資料と文字史料がつながる

これまで弥生時代について、「環壕集落 → 武力衝突 → 社会的格差 → 有力者 → クニ」という変化を考古資料から学びました。

中国史書を加えると、「多数のクニが存在する → 一部のクニが漢と外交する → 奴国王が金印を授けられる → 「倭国王」を名乗る人物も史書に現れる」という流れが見えてきます。

考古学と中国史書は別々の暗記分野ではありません。遺跡や墓から見えてきた弥生社会の政治化が、中国側の記録にも少しずつ姿を現したと考えると、流れがつながります。

そして107年からさらに時代が進むと、倭では大きな争乱が起こったと中国史書に記されるようになります。その争乱の後に登場するのが卑弥呼です。

このページで覚えたい流れ

紀元前108年に漢が楽浪郡を置く → 紀元前1世紀ごろ『漢書』に倭の「百余国」が現れる → 57年に奴国王が後漢へ遣使し金印を授けられる → 107年に倭国王帥升らが後漢へ遣使する → その後、倭国大乱・卑弥呼へつながる

重要なのは、文字史料が登場したことで、弥生時代の政治的変化を「クニの形成」だけでなく、東アジアとの外交関係からも追えるようになることです。

Review

入試で押さえるポイント

  • 紀元前108年、漢が朝鮮半島に楽浪郡などを設置した
  • 『漢書』地理志には、紀元前1世紀ごろの倭人が「百余国」に分かれ、楽浪郡を通じて漢と交流していたことが記される
  • 57年、奴国王が後漢へ使者を送り、光武帝から印綬を授けられた
  • 志賀島から出土した国宝「漢委奴国王」金印は、57年に授けられた印と考えられている
  • 奴国は福岡平野周辺にあったと考えられ、須玖岡本遺跡などがその政治的中心を考える重要な資料となる
  • 107年、倭国王帥升らが後漢へ使者を送り、生口160人を献じて謁見を願った
  • 「百余国」「奴国王」「倭国王」という変化を押さえるが、107年に日本列島全体を統一する国家が成立していたと断定しない
  • 中国史書に倭の記事が現れたことと、日本列島で文字による歴史記録が始まったことを混同しない

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理解度チェック

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    中国史書に倭の記事が現れたことは、この時期の日本列島で文字による歴史記録が一般化していたことを示す。

  2. 問2

    『漢書』の「百余国」は、現代国家と同じ意味の国が正確に百余存在したという厳密な国数として読む必要はない。

  3. 問3

    57年の金印は、北部九州の有力なクニの王が後漢と外交したことを考える資料だが、奴国王が日本列島全体を支配していた証拠ではない。

  4. 問4

    107年に帥升らが献じた「生口」160人は、史料上、160人の奴隷だったことが確定している。

  5. 問5

    107年の史料に「倭国王」とあることから、この時点で日本列島全体を統一する国家が成立していたと断定できる。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 倭人が百余国に分かれ、楽浪郡を通じて漢と交流する
  2. 奴国王が後漢へ使者を送り、金印を授けられる
  3. 倭国王帥升らが後漢へ使者を送る
  4. 漢が朝鮮半島に楽浪郡などを置く

Sources

参考資料

  1. 伊都国再発見―倭人伝のふたつの港―福岡市博物館

    『漢書』地理志の「百余国」、紀元前108年の楽浪郡設置、北部九州と大陸の交流を確認。

  2. 常設展示 金印の世界福岡市博物館

    57年の奴国王遣使、光武帝による印綬授与、志賀島出土の「漢委奴国王」金印との対応を確認。

  3. 史跡 須玖岡本遺跡春日市

    須玖遺跡群が奴国に含まれ、王墓・王族墓・青銅器工房の集中から奴国の中枢部と考えられていることを確認。

  4. 後漢書 巻85維基文庫

    57年の倭奴国への印綬授与と、107年の倭国王帥升らによる生口160人の献上・請見の記事を原文で確認。