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弥生時代2世紀後半〜239年政治・外交重要度 A

倭国大乱と卑弥呼―邪馬台国と魏との外交わこくたいらんとひみこ やまたいこくとぎとのがいこう

一言でいうと

2世紀後半、倭では複数のクニの間で大きな争乱が続きました。争いを収めるため諸国は卑弥呼を共通の女王として立て、卑弥呼は邪馬台国を拠点としながら複数のクニをまとめました。239年には中国の魏へ使者を送り、「親魏倭王」の称号と金印・紫綬などを授けられます。卑弥呼を単に邪馬台国という一国の女王としてではなく、多数のクニからなる倭の政治世界をまとめる女王として理解することが重要です。

「魏志倭人伝」とは何か

卑弥呼や邪馬台国について最も詳しく記している史料が、一般に『魏志倭人伝』ぎしわじんでんと呼ばれる文章です。

「魏志倭人伝」という独立した歴史書があるわけではありません。3世紀末に陳寿が編纂した『三国志』のうち、魏について記した「魏書」の東夷伝に含まれる倭人の記事を、一般に『魏志倭人伝』と呼んでいます。

前のテーマで学んだ『漢書』『後漢書』と同じく、日本列島の人々自身が残した歴史書ではなく、中国側から見た倭の記録です。そのため、記述を考古資料とも照らし合わせながら読む必要があります。

『魏志倭人伝』は独立した書物ではなく、『三国志』魏書東夷伝の倭人に関する記事の通称です。

2世紀後半―倭国で大きな争乱が起こる

『魏志倭人伝』によると、倭ではもともと男性の王が立っていましたが、その後に国々の間で争いが起こり、何年にもわたって互いに攻め合ったと記されています。

この争乱は一般に倭国大乱わこくたいらんと呼ばれます。『後漢書』では、後漢の桓帝・霊帝の時代、おおむね2世紀後半の出来事とされています。

ただし、「倭国大乱=現在の日本列島全体を二分した全国戦争」と考えてはいけません。中国史書が「倭」と認識した政治世界の中で、複数のクニの間に大きな争いが起きていた、と理解するのが適切です。

これまで考古資料から学んできた環壕集落や武力衝突、有力者・クニの形成が、ここでは文字史料にも「国々の争い」として現れてきます。

卑弥呼が「共立」される

争乱を収めるため、諸国は一人の女性を王として立てました。それが卑弥呼ひみこです。

『魏志倭人伝』には、諸国が「共に一女子を立てて王とした」と記されています。ここで重要なのが「共立」という点です。

一つのクニの王が他のすべてのクニを武力で征服した、とは書かれていません。複数の政治集団の有力者たちが卑弥呼を共通の女王として支持することで、争いを収めようとしたと理解できます。

もちろん、現代の選挙のように人々が投票して選んだという意味でもありません。複数のクニが一人の王を共通に認める政治的な仕組みが形成されたことが重要です。

卑弥呼は「鬼道」を行った

『魏志倭人伝』は、卑弥呼について鬼道きどうを行って人々をまとめていたと記しています。また、夫がおらず、弟が政治を補佐し、王となってから人前に姿を現すことが少なかったとも記されています。

ただし、この「鬼道」が具体的にどのような宗教や儀礼だったのかは分かっていません。卑弥呼を単純に「巫女だった」と決めつけるのではなく、宗教的・祭祀的な権威を政治にも用いた女王と理解する程度にとどめるのが安全です。

弥生時代には青銅製祭器を用いた祭りが発達していました。卑弥呼の記事は、弥生社会で政治と祭祀が密接に関わっていたことを考える重要な手がかりです。

邪馬台国―女王が都した国

卑弥呼とともに登場するのが邪馬台国やまたいこくです。『魏志倭人伝』では、邪馬台国は女王が都するところと記されています。

また、伊都国など複数のクニが女王の政治的なまとまりに属していた一方、女王に服属しない狗奴国も存在したと記されています。邪馬台国だけが倭に存在していたわけではありません。

そのため、「邪馬台国=当時の日本全体」と考えるのも、「卑弥呼=邪馬台国という一つの小国だけの王」と考えるのも適切ではありません。多数のクニが存在する中で、卑弥呼を共通の女王とする政治的なまとまりが形成されていたと考えることが重要です。

中国では魏が成立し、公孫氏が滅ぶ

卑弥呼が登場したころ、中国では後漢が滅び、220年に魏ぎが成立しました。中国は魏・蜀・呉が争う三国時代に入ります。

一方、遼東から朝鮮半島北部にかけては公孫氏が勢力をもち、倭と中国王朝との交通にも関係していました。238年、魏が公孫氏を滅ぼして楽浪郡・帯方郡を支配下に置きます。

その翌年、卑弥呼は魏へ使者を送りました。239年の遣使は、倭だけの出来事としてではなく、東アジアの政治状況が変化した直後の外交として見ることが重要です。

239年―卑弥呼が魏へ使者を送る

239年、卑弥呼は大夫の難升米らを魏へ送りました。使者はまず朝鮮半島の帯方郡へ行き、そこから魏の都へ向かいます。

魏の皇帝は卑弥呼に親魏倭王しんぎわおうという称号を与え、金印・紫綬を授けました。さらに銅鏡100枚、刀、絹織物など多くの品物を贈ったことが『魏志倭人伝』に記されています。

卑弥呼は倭国内の女王であるだけでなく、中国皇帝からも「倭王」として認められることになりました。

資料で見る:吉野ヶ里歴史公園 弥生ミュージアム「魏志倭人伝」

なぜ卑弥呼は魏と外交したのか

中国皇帝から称号や印を授けられることは、卑弥呼にとって大きな政治的意味をもったと考えられます。倭には卑弥呼に従わないクニも存在しており、魏から「親魏倭王」と認められることは、卑弥呼の権威を支える材料になりました。

一方の魏にとっても、海の向こうの倭と外交関係を結ぶ意味がありました。239年の遣使は、「倭が一方的に中国へ服従した」とだけ覚えるより、卑弥呼と魏がそれぞれの政治状況の中で外交関係を結んだと考える方が当時の東アジアを理解しやすくなります。

「銅鏡100枚」はどの鏡なのか

魏から卑弥呼へ「銅鏡百枚」が贈られたことは、『魏志倭人伝』に記されています。

そこで、日本各地の古墳から見つかる三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうを、この100枚の鏡にあてる説があります。しかし、これは確定していません。

三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏から受け取った鏡とみる説もあれば、別の種類の鏡だったとする考えもあります。入試では、「魏が卑弥呼へ銅鏡100枚を贈ったこと」と、「出土したどの鏡がその100枚にあたるのか」を分けて考える必要があります。

邪馬台国はどこにあったのか

邪馬台国の所在地は、現在も決着していません。大きくは九州説と畿内説を中心に議論が続いています。

『魏志倭人伝』には帯方郡から邪馬台国へ至る方角・距離・日数などが記されていますが、その記述を現在の地図へそのまま当てはめても一つの場所には決まりません。

この段階では、「邪馬台国=九州」とも「邪馬台国=大和」とも断定しないことが重要です。所在地問題は、今後学ぶ3世紀の大規模集落や古墳時代への移行と合わせて考えていきます。

参考:国立歴史民俗博物館「よくあるご質問―邪馬台国はどこにあったのですか?」

邪馬台国の所在地は未確定です。所在地論争と、史料に記された卑弥呼の政治・外交を分けて学びます。

文字史料と考古資料を組み合わせて考える

中国史書が詳しくなることで、「倭国大乱 → 卑弥呼の共立 → 複数のクニをまとめる女王 → 魏との外交」という政治的な動きを文字史料から追えるようになります。

ただし、文字史料があるから考古資料が不要になるわけではありません。邪馬台国がどこにあったのか、卑弥呼の政治的な力がどの地域まで及んだのかなど、文字史料だけでは解決できない問題が残ります。

ここから先の古代史では、「史書には何と書いてあるか」と「遺跡から何が確認できるか」を照らし合わせることが、ますます重要になります。

このページで覚えたい流れ

多数のクニが並立する → 2世紀後半に倭国大乱 → 諸国が卑弥呼を共立する → 邪馬台国を中心とする女王の政治的まとまりが形成される → 238年に魏が公孫氏を滅ぼす → 239年に卑弥呼が魏へ遣使 → 「親魏倭王」の称号を得る

卑弥呼の登場は、単に有名な女王が一人現れた出来事ではありません。争っていた複数のクニをまとめる政治的な仕組みが形成され、その政治権力が中国王朝とも直接外交する段階に入ったという流れとして理解することが重要です。

Review

入試で押さえるポイント

  • 『魏志倭人伝』は独立した書物ではなく、『三国志』魏書東夷伝の倭人の記事を指す通称
  • 2世紀後半、倭では大きな争乱が続き、一般に「倭国大乱」と呼ばれる
  • 争乱の後、諸国は卑弥呼を女王として共立した
  • 卑弥呼は「鬼道」を行い、弟が政治を補佐したと『魏志倭人伝』に記される
  • 邪馬台国は卑弥呼が都した国だが、倭には邪馬台国以外にも多数のクニが存在した
  • 239年、卑弥呼は魏へ使者を送り、「親魏倭王」の称号と金印・紫綬などを授けられた
  • 魏は卑弥呼に銅鏡100枚などを贈ったが、どの出土鏡がその鏡にあたるかは確定していない
  • 邪馬台国の所在地は九州説・畿内説などがあり、現在も確定していない

Check

理解度チェック

各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。

0 / 5 問回答

  1. 問1

    倭国大乱は、現在の日本列島全体を二分して戦った全国戦争だったと史料から確定できる。

  2. 問2

    『魏志倭人伝』は、卑弥呼が他のクニを武力で征服して倭王になったと記している。

  3. 問3

    卑弥呼の239年の遣魏使は、前年の238年に魏が公孫氏を滅ぼして楽浪郡・帯方郡を支配した直後の外交として捉えることができる。

  4. 問4

    魏が卑弥呼へ贈った銅鏡100枚は、現在出土している三角縁神獣鏡だったことが確定している。

  5. 問5

    邪馬台国の所在地は、考古資料と『魏志倭人伝』の記述によって現在では一つの場所に確定している。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 倭国で大きな争乱が起こる
  2. 卑弥呼が女王として共立される
  3. 卑弥呼が魏へ使者を送り、「親魏倭王」の称号を得る
  4. 中国で魏が成立する
  5. 魏が遼東の公孫氏を滅ぼし、楽浪郡・帯方郡を掌握する

Sources

参考資料

  1. 魏志倭人伝吉野ヶ里歴史公園 弥生ミュージアム

    倭国の争乱、卑弥呼の共立・鬼道、邪馬台国と諸国、239年の遣魏使、親魏倭王・金印紫綬・銅鏡100枚の記事を確認。

  2. よくあるご質問国立歴史民俗博物館

    邪馬台国所在地が確定していないことと、文献記述を考古資料と比較する重要性を確認。