卑弥呼の死と壱与―狗奴国との争いと女王の継承
一言でいうと
247年ごろ、邪馬台国を中心とする女王の政治的なまとまりは、卑弥呼に従わない狗奴国と争っていました。その後、卑弥呼が死ぬと男性の王が立てられましたが、諸国はこれに服従せず再び争乱となります。そこで卑弥呼の一族の少女である壱与が女王として立てられると、争いは収まったと『魏志倭人伝』に記されています。この流れから、当時の倭では複数のクニが共通の王を認めることが政治秩序を保つうえで重要だったことが見えてきます。
卑弥呼に従わない狗奴国
卑弥呼は邪馬台国を拠点としながら複数のクニをまとめていました。しかし、『魏志倭人伝』には、女王国に服属していない狗奴国が存在したと記されています。
狗奴国には男性の王がおり、卑弥呼を共通の王として認めるクニのまとまりに加わっていませんでした。つまり、「卑弥呼が倭の女王だった=倭に存在するすべてのクニを完全に支配していた」ということではありません。
狗奴国が現在のどこにあったのかも確定していません。邪馬台国と同じように、史料の方角だけから現在の特定地域へ断定的に結びつけないことが重要です。
247年ごろ―狗奴国との争いを魏へ報告する
『魏志倭人伝』によると、247年ごろ、卑弥呼と狗奴国の男王は対立し、互いに攻撃していました。卑弥呼側は朝鮮半島の帯方郡へ使者を送り、戦いの状況を報告します。
帯方郡はこれを受けて、張政という役人を倭へ送りました。張政は魏の詔書などをもたらし、卑弥呼側へ伝達を行ったと記されています。
ここから、卑弥呼と魏との関係が239年の一度だけで終わったものではなかったことが分かります。倭国内の政治問題についても、卑弥呼側は帯方郡を通じて魏との外交関係を利用していました。
ただし、魏が軍隊を送って狗奴国を倒したとまでは史料に書かれていません。魏との外交関係が狗奴国との戦いにどの程度の実際的な影響を与えたのかは、慎重に考える必要があります。
資料で見る:吉野ヶ里歴史公園 弥生ミュージアム「魏志倭人伝」
卑弥呼が死ぬ
狗奴国との争いの記事に続いて、『魏志倭人伝』は卑弥呼が死んだことを記しています。
卑弥呼の正確な死亡年は分かっていません。247年ごろの狗奴国との争いの記事の後に死去が記されているため、このサイトの年表では「247年ごろ以後」としています。
資料によって「248年」と記されることもありますが、248年に死んだことが史料から確定しているわけではありません。年代が確定している出来事と、おおよその年代しか分からない出来事を分けて考えることが重要です。
卑弥呼の死亡年を「248年」と確定事項として覚えず、『魏志倭人伝』では247年ごろの狗奴国との争いの記事の後に死去が記される、と押さえます。
卑弥呼の墓―「径百余歩」と記される
『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死ぬと大きな墓がつくられ、「径百余歩」だったと記されています。さらに、百人余りが殉葬されたとも記されています。
この記述は、卑弥呼が非常に大きな政治的・社会的地位をもっていたことを考える重要な手がかりです。
しかし、文字史料と考古資料は分けて考える必要があります。『魏志倭人伝』に大きな墓を築いたと書かれていることと、現在発見されている特定の古墳や墳丘墓が卑弥呼の墓であることは同じではありません。
奈良県の箸墓古墳などを卑弥呼の墓とみる説がありますが、現在も議論が続いています。「卑弥呼の墓が大きかったと史書に記されていること」と、「どの遺跡が卑弥呼の墓なのか」は分けて覚えます。
男王を立てるが、再び争乱になる
卑弥呼が死んだ後、倭では男性の王が立てられました。ところが、『魏志倭人伝』によると、人々はこの男王に服従しませんでした。
再び争いが起こり、千人余りが殺されたと記されています。卑弥呼が死んだあと、単純に次の王へ権力が引き継がれたわけではありませんでした。
ここから、当時の倭王の地位を、一つの王家が自動的に世襲する完成した王朝と同じように考えることはできません。複数のクニがその王を共通の支配者として認めることが、政治秩序を維持するうえで重要だったことがうかがえます。
13歳の壱与が女王となる
男王のもとで争乱が続いたため、倭では再び女性を王として立てます。それが、卑弥呼の一族とされる壱与です。
『魏志倭人伝』によると、壱与は当時13歳でした。壱与が王となると、国中の争いがようやく収まったと記されています。
最初の倭国大乱では「争乱 → 卑弥呼を女王として立てる → 秩序が回復する」という流れでした。卑弥呼の死後も、「男王 → 再び争乱 → 壱与を女王として立てる → 秩序が回復する」というよく似た流れが見られます。
この共通点から、卑弥呼や壱与のような女王が複数のクニを結びつけるうえで特別な政治的・祭祀的役割を果たした可能性を考えることができます。ただし、「倭では必ず女性が王にならなければならなかった」と一般化することはできません。
「壱与」か「台与」か
壱与の名前には、史料による表記の違いがあります。『三国志』では一般に「壹與」と記され、日本では「壱与」と表記されることがあります。
一方、後世の中国史書には「臺與」という表記もあり、「台与(とよ)」と呼ばれることもあります。そのため、教科書や参考書によって表記・読みが異なる場合があります。
このサイトでは年表に合わせて「壱与」を基本表記とします。重要なのは表記の違いそのものより、卑弥呼の後を受けて女王となり、倭の争いを収めた人物だと理解することです。
壱与も魏との外交を続ける
壱与が女王となった後、帯方郡から来ていた張政らは帰国することになります。『魏志倭人伝』には、壱与が倭の使者20人を同行させ、魏の朝廷へ貢物を送ったことが記されています。
つまり、「卑弥呼の死=魏との外交関係の終了」ではありません。壱与の政権も、卑弥呼が築いた中国王朝との外交関係を引き継いでいました。
倭国内で共通の王として認められることと、中国王朝との外交関係を維持することが、この時代の王権を考える重要な手がかりになります。
卑弥呼から壱与へ―何が見えるのか
卑弥呼は倭国大乱の後に複数のクニによって共立されました。卑弥呼が死んで男王が立つと再び争乱となり、壱与が女王になると争いが収まったと記されています。
この流れから、当時の倭を、邪馬台国の王が日本列島全体へ一方的に命令する完成した中央集権国家として理解するのは適切ではありません。複数のクニが存在し、それらをまとめる共通の王が政治秩序の形成に重要な役割を果たしていたと考える方が史料に合っています。
その具体的な仕組みや支配範囲まで『魏志倭人伝』だけで完全に再現することはできません。それでも、百余国の時代から始まった倭の政治的統合が、3世紀にはより大きなまとまりへ進んでいたことを考えることができます。
そして古墳時代へ
卑弥呼の死の記事で特に注目されるのが、大きな墓を築いたという記述です。同じ2世紀末〜3世紀前半の日本列島では、各地で大型の墳丘墓が築かれるようになっています。
さらに奈良盆地では、3世紀前半に纒向遺跡という大規模な集落が形成されました。
ここから、日本列島の政治的統合と大規模な墳墓の形成を結びつけながら、弥生時代から古墳時代への移行を考える段階に入ります。
このページで覚えたい流れ
卑弥呼が倭の諸国をまとめる → 狗奴国は女王国に服属せず対立する → 247年ごろ卑弥呼側が戦況を帯方郡へ報告する → 卑弥呼が死去する → 男王を立てるが再び争乱 → 13歳の壱与を女王とする → 倭の争いが収まる → 壱与も魏との外交を続ける
重要なのは、卑弥呼個人の死後にも、複数のクニを一人の共通の王がまとめる政治的な仕組みそのものは続いたという点です。この政治的統合の進展が、次に見る大型墳丘墓・纒向遺跡・前方後円墳の登場を考える前提になります。
Review
入試で押さえるポイント
- 狗奴国は『魏志倭人伝』に登場する、卑弥呼の女王国に服属しなかったクニ
- 247年ごろ、卑弥呼側は狗奴国との戦況を帯方郡へ報告した
- 卑弥呼の正確な死亡年は確定しておらず、「248年」と断定しない
- 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の死後「径百余歩」の墓が築かれ、百人余りが殉葬されたと記される
- 現在知られている特定の古墳を、卑弥呼の墓と断定することはできない
- 卑弥呼の死後、男王を立てたが諸国が服従せず、再び争乱となった
- 卑弥呼の一族で13歳の壱与を女王とすると、争いが収まった
- 「壱与」「台与」など史料によって表記に違いがある
- 卑弥呼・壱与の時代の倭を、完成した中央集権国家として理解しない
Check
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0 / 5 問回答
- 問1
卑弥呼は倭のすべてのクニを完全に支配しており、狗奴国も女王国に服属していた。
誤りです。『魏志倭人伝』には、狗奴国は女王国に服属せず、男性の王をもち、卑弥呼側と対立していたと記されています。
本文の該当箇所を確認する - 問2
247年ごろ、卑弥呼側の報告を受けた魏は軍隊を倭へ送り、狗奴国を滅ぼしたと『魏志倭人伝』に記されている。
誤りです。帯方郡から張政が派遣されたことは記されていますが、魏軍が狗奴国を倒したとは史料に書かれていません。
本文の該当箇所を確認する - 問3
卑弥呼が248年に死去したことは、中国史書から正確に確定している。
誤りです。『魏志倭人伝』では247年ごろの狗奴国との争いの記事の後に卑弥呼の死が記されますが、正確な死亡年は確定していません。
本文の該当箇所を確認する - 問4
『魏志倭人伝』に卑弥呼の大きな墓が記されているため、奈良県の箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは確定している。
誤りです。史料には卑弥呼の墓について記述がありますが、現在知られる特定の古墳をその墓と断定することはできません。箸墓古墳との関係も議論中です。
本文の該当箇所を確認する - 問5
男王のもとで争乱が続き、壱与が女王になると収まったことは、共通の王を諸国が認めることの重要性を考える手がかりになるが、倭では必ず女性が王になる決まりだったことまでは示さない。
正しいです。卑弥呼・壱与が政治秩序の形成に重要な役割を果たしたことは考えられますが、そこから女性王を必須とする固定的な継承制度まで一般化することはできません。
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Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
参考資料
- 魏志倭人伝吉野ヶ里歴史公園 弥生ミュージアム
狗奴国との争い、帯方郡への報告と張政の派遣、卑弥呼の死と墓、男王後の争乱、壱与の共立と遣使の記事を確認。
