Knowledge Check
古墳時代の理解度テスト
11つの詳細学習トピックにある55問から、毎回10問を出題します。 各トピックからなるべく均等に選ぶため、時代全体の理解を確認できます。
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理解度テスト
詳細トピックの確認問題から、トピックが偏りすぎないように10問をランダムで出題します。
0 / 10 問回答
日本列島で大規模な墳墓が造られるようになったのは古墳時代に入ってからで、弥生時代には大型墳丘墓は存在しなかった。
誤りです。弥生時代後期〜終末期にも、吉備の楯築遺跡など各地域の有力者のために大規模な墳丘墓が築かれていました。
出題元の学習トピックを確認する弥生時代終末期の大型墳丘墓は、吉備でも出雲でも同じ形に統一されていた。
誤りです。吉備の楯築墳丘墓と出雲の四隅突出型墳丘墓のように、弥生時代末の墳墓形式には強い地域差がありました。
出題元の学習トピックを確認する3世紀前半には、一人の王が吉備・出雲など各地域を直接支配する完成した中央集権国家が成立していたと考古資料から断定できる。
誤りです。各地には独自の墓を築く有力者が存在しており、交流・競合しながらより大きな政治的まとまりを形成していく段階として捉える方が適切です。
出題元の学習トピックを確認する纒向遺跡が3世紀の重要な政治的中心だったことから、そこが『魏志倭人伝』の邪馬台国だったことも確定している。
誤りです。纒向遺跡は邪馬台国畿内説を考える重要な資料ですが、纒向遺跡=邪馬台国は現在も確定していません。
出題元の学習トピックを確認する前方後円墳という共通する墳墓形式が広い地域へ広がったことは、有力者どうしの広域的な政治・祭祀関係を考える手がかりになるが、それだけで各地が奈良の王に直接支配されていたとはいえない。
正しいです。共通する墳墓形式の広がりは政治的統合の進展を考える重要な資料ですが、完成した中央集権国家による直接支配と同義ではありません。
出題元の学習トピックを確認する大型の墓そのものは古墳時代になって初めて現れ、弥生時代には存在しなかった。
弥生時代にも吉備や出雲などで大型墳丘墓が築かれていました。古墳時代の重要な変化は、共通する前方後円墳の形式が広い地域の有力者に採用された点です。
出題元の学習トピックを確認する離れた地域の有力者が前方後円墳という共通する墳墓形式を採用したことは、広域的な政治的・祭祀的関係を考える手がかりになる。
前方後円墳の広域的な普及は、各地域の有力者が孤立せず、近畿の有力者を中心とする広い政治的・祭祀的関係に結びついていたことを考える重要な資料です。
出題元の学習トピックを確認する前方後円墳が築かれた地域は、すべてヤマト王権の中央政府が土地と人々を直接統治していた地域である。
共通する古墳文化を共有することと、中央政府による全国直接支配は同じではありません。地域有力者は自らの勢力を保ちながら王権との政治関係を結んでいました。
出題元の学習トピックを確認する前方後円墳が各地へ広がっても、古墳の規模・埋葬施設・副葬品には地域差や時期差があった。
前方後円墳という共通形式は広がりましたが、すべてが同じ大きさ・内容だったわけではなく、地域差・時期差が残りました。
出題元の学習トピックを確認する古墳時代になると北海道・沖縄諸島を含む日本列島全体が同じ古墳文化へ移行した。
本州・四国・九州で古墳文化が展開する時期にも、北海道では続縄文文化が続き、沖縄諸島でも独自の社会が展開していました。
出題元の学習トピックを確認する4世紀の加耶は、一人の王が朝鮮半島南部を統治する統一国家だった。
加耶は朝鮮半島南部に存在した複数の国々のまとまりで、単一の統一国家ではありません。
出題元の学習トピックを確認する七支刀の銘文については、年次や百済・倭の贈答関係まで研究上完全に確定している。
七支刀は百済と倭の政治関係を考える重要な同時代資料ですが、銘文の年次や贈答関係には解釈上の論点があります。
出題元の学習トピックを確認する広開土王碑の414年は石碑が建てられた年であり、倭と高句麗の戦争そのものが414年に起きたことを示す年ではない。
碑文が伝える倭と高句麗の戦いは4世紀末〜5世紀初めの出来事で、414年は広開土王碑の建立年です。
出題元の学習トピックを確認する広開土王碑は高句麗側が広開土王の功績をたたえるために建てた史料なので、記述の立場や欠損・解釈上の議論にも注意して読む必要がある。
広開土王碑は中立的な現代史料ではなく、高句麗側の顕彰碑です。碑面の欠損や釈読をめぐる議論もあるため、史料の立場を意識します。
出題元の学習トピックを確認する七支刀や広開土王碑から、ヤマト王権が朝鮮半島南部を日本の領土として直接支配していたことが確定する。
倭が朝鮮半島の政治・軍事関係に深く関わったことは分かりますが、それと朝鮮半島南部を領土として直接支配したことは同じではありません。
出題元の学習トピックを確認する仁徳天皇陵古墳という現在の陵墓名だけで、被葬者が仁徳天皇だったことは考古学的に確定する。
現在の陵墓名は宮内庁の治定に基づきます。古墳の年代・規模を調べることと、被葬者個人を考古学的に確定することは分けて考えます。
出題元の学習トピックを確認する中国史書『宋書』には、5世紀の倭国王として讃・珍・済・興・武が記されている。
讃・珍・済・興・武の5人を倭の五王と呼び、5世紀に中国南朝へ相次いで使者を送りました。
出題元の学習トピックを確認する倭の五王は、5人すべてについて『古事記』『日本書紀』のどの天皇にあたるかが確定している。
最後の倭王武を雄略天皇とみる説は有力ですが、讃・珍など五王すべての対応が確定しているわけではありません。
出題元の学習トピックを確認する478年の倭王武の上表文に記された勢力範囲は、そのままヤマト王権が直接統治した領土の範囲を示す。
上表文は中国皇帝へ自らの実績や地位を主張する外交文書です。そこに記された主張を、そのまま実際の直接支配範囲とみなすことはできません。
出題元の学習トピックを確認する築造年代が近ければ、百舌鳥・古市古墳群の個々の巨大古墳を倭の五王の墓と一対一で確実に対応させられる。
古墳の年代と王の活動時期を比較することはできますが、年代が近いだけで個々の古墳と倭の五王を確実に対応させることはできません。
出題元の学習トピックを確認する稲荷山古墳の鉄剣銘にある辛亥年は、古墳やワカタケル大王の年代などから一般に471年と考えられている。
辛亥年は一般に471年と考えられ、稲荷山鉄剣銘は5世紀後半の政治関係を伝える同時代の文字資料です。
出題元の学習トピックを確認する倭王武・ワカタケル大王・雄略天皇が同一人物であることは、史料上まったく疑いなく確定している。
三者を同一人物とする見方は有力ですが、異なる時期・種類の史料に現れる名称を結びつけた研究上の理解であり、断定の強さを上げないことが重要です。
出題元の学習トピックを確認する江田船山古墳の大刀銘は、大王名の部分まで稲荷山鉄剣と同じ程度にはっきり残っている。
江田船山古墳の大刀銘は大王名の部分に欠損があり、稲荷山鉄剣ほど明瞭ではありません。ワカタケル大王を記したものとする見解が有力です。
出題元の学習トピックを確認する関東の稲荷山古墳と九州の江田船山古墳の刀剣銘は、近畿の大王と離れた地域の有力者との広域的な政治関係を考える資料になる。
関東と九州という離れた地域から同時期の大王と関係する刀剣銘が見つかるため、大王と地域有力者との広域的な政治関係を考える重要な資料です。
出題元の学習トピックを確認する5世紀の刀剣銘にはワカタケルが「天皇」と記されており、この時期に天皇号が同時代の称号として確立していたことが確認できる。
5世紀の刀剣銘で確認できる称号は「大王」です。後の「天皇」という称号をそのまま5世紀の同時代呼称として扱わないようにします。
出題元の学習トピックを確認する古墳時代の「渡来人」は、一つの地域から同じ時期に来た一つの民族集団を指す名称である。
渡来人は、異なる時期や事情で海外から列島へ移住したさまざまな人々をまとめて表す歴史学上の呼称で、一つの民族集団ではありません。
出題元の学習トピックを確認する須恵器は朝鮮半島から完成品を輸入し続けた土器で、日本列島では生産されなかった。
須恵器の新しい窯業技術は朝鮮半島との交流を通じて伝わりましたが、列島内に窯が造られ、陶邑などで専門的な生産が発達しました。
出題元の学習トピックを確認する5世紀の馬の利用拡大は、馬そのものだけでなく、飼育・乗馬・馬具製作などの技術体系が広がったことを意味する。
馬を利用するには飼育知識・乗馬技術・馬具などが必要で、動物一頭の輸入ではなく関連技術の広がりとして捉えます。
出題元の学習トピックを確認する日本列島で鉄器が初めて使われたのは5世紀で、渡来人が鉄器そのものを初めて伝えた。
鉄器そのものは弥生時代から使われています。5世紀には鍛冶技術が発達し、武器・農具・馬具など多様な鉄製品が作られるようになった点が重要です。
出題元の学習トピックを確認する古墳時代の技術革新は、技術をもたなかった列島社会へ海外の技術が一方的に与えられた過程として理解すればよい。
列島には既存の農業・土器・鉄器利用・土木技術があり、新しい技術はそれらと組み合わされ、改良・普及しながら定着しました。
出題元の学習トピックを確認する古墳時代の氏は、現代の名字を共有する血縁家族とほぼ同じ集団だった。
氏は有力者の一族を中心に従属する人々なども含む政治的集団で、現代の名字をもつ家族と同じものではありません。
出題元の学習トピックを確認する氏姓制度は、特定の年に一つの法律として制定され、その時点で完成した制度である。
氏姓制度は5〜6世紀に大王と有力者との関係が整えられる中で発達した仕組みを、後世の研究上まとめて呼ぶものです。
出題元の学習トピックを確認する国造は、後の律令時代の国司と同じように中央政府から地方へ派遣された官僚だった。
国造の中心は地域に基盤をもつ有力者で、彼らを王権の地方支配に組み込む仕組みでした。後の国司とは異なります。
出題元の学習トピックを確認する部民はすべて大王が所有する奴隷という一つの身分に属していた。
部には専門技術・生産・奉仕などさまざまな性格の集団があり、部民を一つの奴隷身分として単純化するのは適切ではありません。
出題元の学習トピックを確認する屯倉は米を保管する倉庫の建物だけを意味した。
屯倉は一般に、王権が掌握する田地・倉庫・それを支える人々などを含む経済的・地域的な拠点として理解されます。
出題元の学習トピックを確認する筑紫君磐井は、もともとヤマト王権とまったく政治関係をもたない独立勢力だった。
筑紫君はヤマト王権の広い政治秩序に参加しつつ、北部九州に強い地域基盤をもつ有力者として理解するのが適切です。
出題元の学習トピックを確認する『日本書紀』が記す「新羅が磐井へ賄賂を送った」という説明は、磐井の乱と同時代の中立的記録なので、そのまま客観的事実として確定できる。
『日本書紀』は事件から約200年後に国家側で編纂された史書です。新羅との関係や磐井の目的は、この記述だけから確定できません。
出題元の学習トピックを確認する『日本書紀』では、528年に物部麁鹿火が磐井側を破ったと記されている。
527年に始まった戦いは翌528年まで続き、『日本書紀』では大王側の物部麁鹿火が磐井を破ったとされます。
出題元の学習トピックを確認する磐井が敗れると筑紫君一族とその地域勢力は完全に消滅し、その後の北部九州に有力者は残らなかった。
磐井の敗北後も八女地域では大型古墳が築かれ、筑紫君につながる地域勢力が一定の力を維持したと考えられます。
出題元の学習トピックを確認する磐井の乱は、ヤマト王権の地方支配が強まっていたことと、地域有力者がなお大きな政治力をもっていたことの両方を示す事件と考えられる。
王権が磐井を破った一方、大規模な軍事行動が必要で、乱後も地域勢力は存続しました。王権の成長と支配の未完成さを同時に示します。
出題元の学習トピックを確認する加耶は、一人の王が朝鮮半島南部全体を統治する一つの統一国家だった。
加耶は金官加耶・大加耶・阿羅加耶など、朝鮮半島南部に存在した複数の政治勢力の総称です。
出題元の学習トピックを確認する532年に金官加耶が新羅に降伏した時点で、加耶諸国はすべて政治勢力として消滅した。
532年に消滅したのは金官加耶で、大加耶や阿羅加耶などはその後も存続しました。加耶諸国の消滅は段階的に進みます。
出題元の学習トピックを確認する562年に大加耶が新羅に降伏し、加耶諸国は政治勢力として姿を消した。
562年の大加耶降伏によって、長く朝鮮半島南部で活動した加耶諸国は政治勢力として消滅しました。
出題元の学習トピックを確認する現在の研究では、任那日本府はヤマト王権が加耶を植民地として領域支配するために置いた行政機関だったと確定している。
倭が加耶地域を領域支配し、任那日本府を植民地統治機関として置いたという従来の理解は否定されています。具体的実態にはなお議論があります。
出題元の学習トピックを確認する562年に加耶諸国が消滅すると、倭と朝鮮半島との交流も終わった。
加耶消滅後も倭は百済・新羅などとの交流を続けました。変わったのは交流相手と政治的な枠組みです。
出題元の学習トピックを確認する仏教公伝の年代には538年説と552年説があり、根拠とする史料が異なる。
538年説は『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』など、552年説は『日本書紀』に基づきます。
出題元の学習トピックを確認する538年または552年は、日本列島の人々が仏教の存在を初めて知った年を意味する。
公伝は百済からヤマト王権へ仏教が公式に伝えられた年代です。渡来人などを通じ、公伝以前から仏教が知られていた可能性があります。
出題元の学習トピックを確認する蘇我氏と物部氏の対立は、「仏教派」と「神道派」が信仰だけを理由に戦った単純な宗教戦争だった。
仏教受容だけでなく、豪族間の主導権、王権の祭祀、皇位継承問題などが重なった政治対立として理解します。
出題元の学習トピックを確認する『日本書紀』に仏教礼拝後の疫病が記されていることから、仏教信仰が疫病を発生させたことが歴史的に確認できる。
史料は当時の人々が疫病を神々の意思と結びつけて理解したことを伝えますが、仏教信仰が疫病の原因だったことを示すものではありません。
出題元の学習トピックを確認する587年に蘇我馬子らが物部守屋を破った戦いには、仏教受容だけでなく皇位継承や豪族間の主導権争いも関係していた。
用明大王の死後の皇位継承問題なども重なり、蘇我・物部の対立は武力衝突へ進みました。単純な仏教戦争ではありません。
出題元の学習トピックを確認する大型前方後円墳は5世紀末に全国で突然造られなくなった。
6世紀にも大型前方後円墳は築かれ、衰退は地域差を伴いながら6世紀後半へ向けて徐々に進みました。
出題元の学習トピックを確認する前方後円墳が造られなくなる時期には地域差があり、日本列島全体で同じ年に終了したわけではない。
地域によっては6世紀末から7世紀初めまで前方後円墳が築かれた例があり、終焉は全国同時ではありません。
出題元の学習トピックを確認する大型前方後円墳が衰えると、古墳を造る習慣そのものもすぐに消滅した。
6世紀には群集墳が広がり、前方後円墳の衰退後も方墳や終末期古墳が造られました。変化したのは墳形や墓制です。
出題元の学習トピックを確認する氏姓制度が成立したため、王権が一度の命令で全国の前方後円墳をただちに廃止したと考えられる。
前方後円墳の衰退を一つの制度や命令だけで説明することはできません。王権の組織化や権威表現の変化の中で長期的に進みました。
出題元の学習トピックを確認する592年を飛鳥時代開始の目安とする場合でも、考古学的に592年を境に古墳築造が完全に終わったわけではない。
7世紀にも方墳・八角墳などの終末期古墳が造られます。政治史上の時代区分と考古学上の墓制変化は完全には一致しません。
出題元の学習トピックを確認する
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