巨大古墳と倭の五王―5世紀のヤマト王権はなぜ中国へ使者を送ったのか
一言でいうと
4世紀後半から5世紀、ヤマト王権の中心部では百舌鳥・古市古墳群に巨大な前方後円墳が築かれました。同じ5世紀には、讃・珍・済・興・武という倭の五王が中国南朝の宋へ相次いで使者を送り、中国皇帝から官爵を受けようとします。巨大古墳と中国外交を別々に暗記するのではなく、ヤマト王権が列島内部の有力者をまとめる一方、東アジアでも政治的な地位を確保しようとした同じ王権成長の二つの側面として理解します。
5世紀、古墳はさらに巨大化する
4世紀までに前方後円墳は各地へ広がりました。その次の段階である4世紀後半から5世紀には、大阪平野に百舌鳥・古市古墳群が形成され、非常に大規模な前方後円墳が相次いで築かれます。
百舌鳥・古市古墳群には巨大な前方後円墳だけでなく、さまざまな大きさや形の古墳がまとまっています。古墳の規模や形の違いは、当時の有力者の政治的な地位や階層を考える重要な手がかりです。
ただし、「巨大な古墳の被葬者が日本列島全体を直接支配していた」と単純に考えることはできません。前方後円墳の広がりを学んだときと同じく、地域の有力者がそれぞれの勢力を保ちながら、ヤマト王権を中心とする政治秩序に結びついていたと考えます。
日本最大の前方後円墳―仁徳天皇陵古墳
百舌鳥古墳群を代表するのが、宮内庁が仁徳天皇陵として管理する仁徳天皇陵古墳です。大仙古墳とも呼ばれます。
墳丘長は約486メートルで、日本最大の前方後円墳です。築造には膨大な労働力や物資が必要であり、5世紀の王権が非常に大きな動員力をもっていたことを考える材料になります。
資料で見る:堺市「百舌鳥古墳群の古墳」
一方、現在の陵墓名は宮内庁による治定に基づく名称です。考古学的な年代や規模を調べることと、被葬者個人を確定することは分けて考えます。
巨大古墳の規模は王権の動員力を考える重要な資料ですが、陵墓名だけから被葬者を考古学的に確定することはできません。
中国では南朝の宋が成立する
巨大古墳が築かれていた同じころ、中国では420年に南朝の宋が成立しました。これは後の鎌倉時代に日本と貿易する宋とは別の王朝で、南朝宋・劉宋とも呼ばれます。
421年以降、倭国王はこの宋へ繰り返し使者を送ります。5世紀のヤマト王権を理解するには、列島内部で築かれた巨大古墳だけでなく、中国皇帝との外交も同じ時間軸で見る必要があります。
倭の五王―讃・珍・済・興・武
中国の正史『宋書』には、5世紀の倭国王として讃・珍・済・興・武という5人の王が記されています。これを倭の五王と呼びます。
彼らは421年から478年にかけて中国南朝へ相次いで使者を送り、中国皇帝から官爵を受けました。単なる物資の交換ではなく、中国を中心とする東アジアの外交秩序の中で、倭王としての政治的地位を認めてもらう意味がありました。
中国皇帝が周辺の王などへ官爵を与え、政治的な関係を結ぶことを冊封といいます。
資料で見る:国立公文書館デジタルアーカイブ『宋書』
倭の五王は日本の誰なのか
『宋書』には、日本側の史書に登場する天皇名ではなく、讃・珍・済・興・武という名前が記されています。そのため、倭の五王を『古事記』『日本書紀』のどの天皇に対応させるかについて研究が続いてきました。
とくに最後の倭王武は、後に学ぶワカタケル大王との関係などから、雄略天皇にあたるとする説が有力です。一方、讃・珍など五王すべての対応が確定しているわけではありません。
大学受験ではまず、「讃・珍・済・興・武という5人の倭国王が中国史書に記録されている」ことを確実に押さえます。五王すべてを特定の天皇と一対一で確定した事実として覚えないようにします。
478年―倭王武の上表文
倭の五王の外交の中でも特に重要なのが478年です。この年、倭王武が宋へ使者を送り、皇帝に上表文を提出しました。
上表文では、武が祖先の活動や倭王の政治的立場を中国皇帝へ強く主張しています。5世紀の倭国王が、自らの支配や朝鮮半島との関係をどのように説明しようとしたのかを知る重要な史料です。
ただし、上表文に記された勢力範囲などを、そのままヤマト王権が直接統治していた領土とみなすことはできません。上表文は中国皇帝へ提出した外交文書であり、自らの実績や地位を主張する性格をもつことにも注意します。
資料で見る:国立国会図書館サーチ「倭王武上表文」関連研究
478年の倭王武の上表文は、5世紀の倭王が東アジアで自らをどのように位置づけようとしたかを知る重要史料です。外交文書の主張をそのまま実際の直接支配範囲とは考えません。
なぜ中国皇帝から称号を得ようとしたのか
前のページでは、倭が百済や加耶と交流し、高句麗とも戦ったことを学びました。5世紀の倭王は、こうした朝鮮半島を含む東アジアの政治関係の中で活動していました。
中国皇帝から官爵を受けることは、倭王が東アジア外交の中で自らの権威を高める手段になりました。とくに朝鮮半島の政治関係へ関わるうえで、中国皇帝からどのような称号を得るかには政治的な意味がありました。
つまり5世紀のヤマト王権は、国内では巨大古墳を築いて政治的な地位を示し、国外では中国皇帝との外交を通じて倭王としての地位を示そうとしていた、と捉えることができます。
巨大古墳と倭の五王を直接結びつけてよいのか
百舌鳥・古市古墳群には、宮内庁によって歴代天皇の陵墓として管理されている巨大古墳があります。一方、中国史書には讃・珍・済・興・武という倭国王が記されています。
古墳の築造年代と中国史書に記された王の活動時期を比較することはできます。しかし、「この古墳の被葬者は倭王讃である」というように、個々の巨大古墳と倭の五王をすべて確実に対応させることはできません。
これは卑弥呼と箸墓古墳を学んだときと同じ原則です。文字史料に登場する人物と考古資料を、十分な証拠なしに直接結びつけないようにします。
文字史料に登場する人物と個々の古墳の被葬者は、年代が近いというだけで一対一に断定しません。
このページで覚えたい流れ
4世紀後半から大阪平野に巨大古墳が築かれる → 百舌鳥・古市古墳群が形成される → 420年に中国南朝で宋が成立する → 421年以降、倭の五王が宋へ相次いで使者を送る → 中国皇帝から官爵を受け、東アジアでの政治的地位を求める → 478年、倭王武が宋へ上表文を送る
重要なのは、巨大古墳と中国外交を別々に暗記しないことです。5世紀は、ヤマト王権が列島内部で巨大な政治勢力として成長すると同時に、朝鮮半島・中国を含む東アジアの国際関係にも積極的に参加した時代でした。
Review
入試で押さえるポイント
- 4世紀後半〜5世紀、百舌鳥・古市古墳群に巨大前方後円墳が築かれた
- 仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)は墳丘長約486メートルで、日本最大の前方後円墳
- 倭の五王は讃・珍・済・興・武で、5世紀に中国南朝へ相次いで遣使した
- 中国皇帝が周辺の王などへ官爵を与えて政治的関係を結ぶことを冊封という
- 478年、倭王武が宋へ上表文を送った
- 倭王武は雄略天皇にあたるとする説が有力だが、倭の五王すべてと記紀の天皇との対応は確定していない
- 個々の巨大古墳の被葬者と倭の五王を、根拠なく一対一で結びつけない
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- 問1
仁徳天皇陵古墳という現在の陵墓名だけで、被葬者が仁徳天皇だったことは考古学的に確定する。
現在の陵墓名は宮内庁の治定に基づきます。古墳の年代・規模を調べることと、被葬者個人を考古学的に確定することは分けて考えます。
本文の該当箇所を確認する - 問2
中国史書『宋書』には、5世紀の倭国王として讃・珍・済・興・武が記されている。
讃・珍・済・興・武の5人を倭の五王と呼び、5世紀に中国南朝へ相次いで使者を送りました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
倭の五王は、5人すべてについて『古事記』『日本書紀』のどの天皇にあたるかが確定している。
最後の倭王武を雄略天皇とみる説は有力ですが、讃・珍など五王すべての対応が確定しているわけではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問4
478年の倭王武の上表文に記された勢力範囲は、そのままヤマト王権が直接統治した領土の範囲を示す。
上表文は中国皇帝へ自らの実績や地位を主張する外交文書です。そこに記された主張を、そのまま実際の直接支配範囲とみなすことはできません。
本文の該当箇所を確認する - 問5
築造年代が近ければ、百舌鳥・古市古墳群の個々の巨大古墳を倭の五王の墓と一対一で確実に対応させられる。
古墳の年代と王の活動時期を比較することはできますが、年代が近いだけで個々の古墳と倭の五王を確実に対応させることはできません。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 百舌鳥・古市古墳群 世界遺産推薦書文化庁
百舌鳥・古市古墳群の年代、巨大古墳の集中、古墳の規模・墳形と政治社会の階層について参照。
- 百舌鳥古墳群の古墳堺市
仁徳天皇陵古墳の規模と百舌鳥古墳群について参照。
- 宋書国立公文書館
『宋書』倭国伝に記された倭の五王と宋への遣使について参照。
- 倭王武上表文関連研究国立国会図書館
478年の倭王武上表文と5世紀の東アジア情勢について参照。
