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昭和時代1933〜1936年文化重要度 A

転向・滝川事件・天皇機関説問題―1930年代に思想・学問の自由はなぜ狭められたのかてんこうたきがわじけんてんのうきかんせつもんだい せんきゅうひゃくさんじゅうねんだいにしそうがくもんのじゆうはなぜせばめられたのか

一言でいうと

1928年の三・一五事件以後、治安維持法と特別高等警察による左翼運動への取締りは強まり、1933年には小林多喜二が特高警察に逮捕され、拷問を受けて死亡しました。同年には共産党幹部の佐野学・鍋山貞親が獄中から「転向」を表明し、その後多くの活動家に転向が広がります。一方、京都帝国大学では滝川幸辰教授の学説をめぐって文部省が人事へ介入し、大学自治をめぐる滝川事件が起こりました。1935年には、それまで憲法学説として広く認知されていた美濃部達吉の天皇機関説が政治的に排撃され、政府も国体明徴声明を出します。思想・学問の自由が狭まった過程は、左翼運動への警察弾圧、大学への行政介入、国家主義的な政治運動が異なる経路から重なったものとして捉える必要があります。

左翼運動とプロレタリア文化への弾圧はどう強まったのか

1925年に制定され、1928年に最高刑を死刑まで引き上げて改正された治安維持法は、共産主義運動やその周辺の社会運動を取り締まる重要な法的手段となりました。三・一五事件や四・一六事件などの大規模検挙を経て、日本共産党の組織は大きな打撃を受け、特別高等警察による監視・取締りも強まりました。

プロレタリア文学の代表的作家だった小林多喜二こばやしたきじは、『一九二八年三月十五日』『蟹工船』などを発表し、日本共産党員としても活動しました。1933年2月20日、特高警察に逮捕され、拷問を受けて死亡しました。国立国会図書館も、多喜二が逮捕され拷問・虐殺されたと解説しています。

この時期の思想統制は、政治組織の取締りだけにとどまりませんでした。作家・出版関係者・研究者にも監視や検閲の圧力が及び、政治思想と文化活動の境界も狭められていきました。ただし、戦時期の出版・報道・芸術の総動員体制までをこの段階と同一視することはできません。

「転向」はなぜ1933年以後に広がったのか

1933年6月、日本共産党幹部だった佐野学と鍋山貞親は獄中から、それまでの共産主義運動の方針を改める「転向」声明を発表しました。この声明は大きな注目を集め、獄中の党員・活動家らにも転向が広がっていきました。

転向が広がった背景には、党組織の弱体化、長期拘禁、警察・司法による圧力、家族や生活への懸念など複数の事情がありました。思想を変えた人の理由や程度も一様ではなく、国家主義へ積極的に接近した人から、政治活動から離れる形をとった人までさまざまでした。

したがって、『1933年に左翼思想家が一斉に同じ考えへ変わった』と見るのは適切ではありません。転向は、激しい弾圧のもとで政治運動を継続する余地が狭められたことを示す一方、個々の人びとの選択・強制・葛藤を区別して考える必要がある現象です。

滝川事件は大学自治をどう揺るがしたのか

1933年、京都帝国大学法学部教授の滝川幸辰たきがわゆきときの刑法学説や講演内容が問題視され、文部省は大学側に滝川の辞職または休職を求めました。法学部教授会は、学問内容を理由に政府が教授人事へ介入することは大学自治を損なうとして反対しました。

文部省は滝川を休職処分とし、これに抗議して法学部教官らが辞表を提出しました。京都大学の記録では、法学部33名の教官のうち21名が大学を去りました。学生にも大学自治・学問の自由を守ろうとする運動が広がりました。

滝川事件は共産党の取締りとは性格が異なります。刑法学者の教育・研究内容と大学の人事権をめぐる事件であり、行政権が大学の研究・教育へどこまで介入できるのかという問題を示しました。

天皇機関説はなぜ1935年に政治問題化したのか

美濃部達吉の天皇機関説は、国家を法人として捉え、天皇を国家の最高機関と説明する憲法学説でした。この考え方は明治憲法体制を説明する学説として長く大学や官界で広く認知されており、1935年になって突然生まれた反天皇思想ではありません。

1935年2月、貴族院議員の菊池武夫が美濃部の学説を議会で攻撃すると、国家主義団体、在郷軍人会、軍部、政友会の一部などが天皇機関説排撃を強めました。美濃部は貴族院で自説を弁明しましたが、批判は学問上の論争を越えて政治運動へ拡大しました。

岡田内閣は同年、二度にわたる国体明徴声明を出し、天皇機関説を否定する立場を明確にしました。美濃部の著書の一部は発禁となり、美濃部自身も貴族院議員を辞職しました。政府が特定の憲法学説を公的に排除したことは、学問上の議論が政治的許容範囲によって強く制約される転換を示します。

思想・学問の自由が狭まる過程をどう捉えるべきか

1930年代前半の統制強化には、治安維持法による左翼運動の取締り、文部省による大学人事への介入、国家主義団体や軍・政党を巻き込んだ学説排撃など、異なる仕組みがありました。それぞれを同じ制度による一つの弾圧としてまとめると、どこから圧力がかかったのかが見えなくなります。

一方で、これらが重なった結果、国家の基本秩序や『国体』について政府が認める範囲から外れる思想・研究・言論は、公に表明しにくくなっていきました。研究者や文化人が自ら表現を抑える効果も生まれ、学問・文化の自由な活動領域は縮小しました。

ただし、1930年代前半の日本社会で全員が同じ思想を受け入れたわけではありません。滝川事件で抗議した教官・学生、美濃部の学説を擁護した人びとなど抵抗や異論も存在しました。思想統制の進行は、反対意見が最初から消えていたのではなく、それを表明・組織する条件が次第に狭められた過程として理解します。

転向・滝川事件・天皇機関説問題は同じ事件ではありません。警察による政治運動の弾圧、行政による大学への介入、国家主義的な学説排撃という異なる経路から、思想・学問・言論の自由な領域が狭められていったことが共通点です。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1933年、小林多喜二は特高警察に逮捕され、拷問を受けて死亡
  • 1933年6月、佐野学・鍋山貞親が獄中から転向声明を発表し、その後転向が広がった
  • 1933年の滝川事件では文部省による滝川幸辰教授の処分に京都帝国大学法学部が抵抗し、大学自治が問題となった
  • 天皇機関説は国家法人説に基づく憲法学説で、1935年以前には明治憲法体制の説明として広く認知されていた
  • 1935年に天皇機関説排撃が政治運動化し、岡田内閣は二度の国体明徴声明で学説を否定
  • 1930年代前半の思想統制は治安警察・大学行政・国家主義的政治運動など複数の経路から進んだ

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  1. 問1

    1930年代前半の思想統制は政治組織の取締りだけに限られず、作家や文化活動にも監視・取締りの圧力が及んだ。

  2. 問2

    1933年以後の転向では、活動家たちは全員が同じ理由で一斉に国家主義へ思想を変えた。

  3. 問3

    滝川事件は、日本共産党の地下組織を治安維持法で摘発した事件である。

  4. 問4

    天皇機関説は1935年に初めて唱えられた反天皇思想で、それ以前には大学や官界で認められていなかった。

  5. 問5

    1930年代前半には、警察による左翼運動の取締り、行政による大学への介入、政治運動としての学説排撃など異なる経路が重なり、思想・学問の自由な領域が狭まった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 社会主義者・知識人の間で転向が広がる
  2. 滝川事件で京都帝国大学の教員処分をめぐる大学自治問題が起こる
  3. 天皇機関説をめぐる政治的攻撃が強まり美濃部達吉の著書が発禁となる
  4. 政府が国体明徴声明を発表する

Sources

参考資料

  1. 小林多喜二国立国会図書館「近代日本人の肖像」

    プロレタリア文学活動、三・一五事件を題材とした作品、1933年2月20日の特高警察による逮捕・拷問・死亡を確認

  2. 『国立国会図書館 月報』643号―鍋山貞親関係文書国立国会図書館

    1933年6月の佐野学・鍋山貞親による獄中からの転向声明を確認

  3. 施設探訪―歴史の証言者としての時計台京都大学広報誌『紅萠』

    1933年滝川事件での文部省の辞職・休職要求、教授会・学生の抵抗、33名中21名の教官が大学を去ったことを確認

  4. 4-4 天皇機関説問題国立国会図書館「史料にみる日本の近代」

    天皇機関説が広く認知された学説だったこと、1935年の貴族院での排撃、国家主義団体・軍部・政友会などによる政治問題化を確認