政治的暴力から二・二六事件へ―青年将校らの国家改造運動はなぜ拡大し、事件後に何が変わったのか
一言でいうと
1930年代前半には、陸軍将校らによる三月事件・十月事件のクーデター計画、血盟団事件、五・一五事件など、議会や政党を通さず政治秩序を変えようとする動きが繰り返されました。陸軍内部では皇道派と統制派の対立も深まり、皇道派の影響を受けた青年将校らは1936年2月26日に部隊を率いて政府要人を襲撃し、東京中心部を占拠しました。事件は鎮圧され、皇道派の影響力は後退しましたが、その後は統制派を中心とする陸軍の政治的発言力が強まります。同年5月には軍部大臣現役武官制も復活しました。二・二六事件は軍部全体が一つの意思で起こした事件ではなく、陸軍内部の対立と事件後の制度変化を分けて捉える必要があります。
二・二六事件以前、なぜ政治的な直接行動が繰り返されたのか
昭和恐慌や農村不況、政党政治への不信が広がるなか、1930年代前半には議会政治ではなく、軍事力や暗殺によって政治を変えようとする動きが現れました。1931年の三月事件・十月事件では、陸軍将校らが軍部を中心とする政治体制への転換を企図しましたが、計画は実行段階で挫折しました。
1932年には血盟団事件で前大蔵大臣の井上準之助と三井合名理事長の団琢磨が暗殺され、続く五・一五事件では海軍青年将校らが犬養毅首相を殺害しました。政治的暴力の担い手や組織、目的はそれぞれ同じではありませんが、既成政党・財界・政府要人を国家改造の妨げとみなし、直接行動を正当化する潮流が繰り返し表面化しました。
ただし、恐慌や農村困窮があったから必然的にクーデターが起きた、と説明することはできません。経済・社会不安は背景の一つでしたが、事件には国家主義的な思想、軍内部の人間関係や派閥対立、具体的な計画を立てた個々の将校らの選択が関わっていました。
皇道派と統制派は何をめぐって対立したのか
1930年代の陸軍では、皇道派と統制派と呼ばれる潮流の対立が深まりました。皇道派は荒木貞夫や真崎甚三郎らを中心とし、その影響を受けた青年将校の一部は天皇を中心とする政治刷新を直接行動によって実現しようとしました。
これに対し統制派は、軍組織の統制を重視し、官僚機構や経済統制を通じて国家の総動員体制を整える方向を志向しました。両派の区別は必ずしも明確な党派組織のようなものではなく、陸軍にはどちらにも単純に属さない将校もいました。
1935年には統制派の中心人物だった軍務局長永田鉄山が相沢三郎中佐に殺害される相沢事件が起こり、派閥対立はいっそう緊張しました。皇道派系の将校の異動なども、青年将校らの危機感を強める要因となりました。
1936年2月26日、青年将校らは何をしたのか
1936年2月26日未明、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らは、指揮下の部隊を率いて首相官邸や政府要人の私邸などを襲撃しました。斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長は重傷を負いました。岡田啓介首相は襲撃を受けましたが生存しました。
決起部隊は首相官邸、陸軍省・参謀本部周辺など東京中心部の一部を占拠し、国家改造を要求しました。青年将校らは自分たちの行動が天皇の意思に沿うものと考えていましたが、昭和天皇は彼らの行動を認めませんでした。
政府は戒厳令を施行し、軍中央も最終的に部隊を反乱軍として鎮圧する方針を明確にしました。2月29日までに参加部隊は原隊へ戻り、事件は鎮圧されます。首謀者らはその後、軍法会議で処罰されました。
反乱の失敗後、陸軍内部と政治はどう変わったのか
二・二六事件は青年将校らの国家改造を実現することには失敗しました。事件後、陸軍では皇道派に近い将官らが予備役へ編入されるなど大規模な人事整理が進み、皇道派の影響力は低下しました。反対に、軍組織の統制を重視する統制派の発言力が強まります。
ここで注意したいのは、『二・二六事件を起こした軍部が勝利して政治を支配した』わけではないことです。決起そのものは鎮圧され、首謀者も処罰されました。一方、その後の政治では、軍内部を統制した側の陸軍が政府に対して強い要求を示す場面が増えていきます。
岡田内閣は事件後に総辞職し、広田弘毅内閣が成立しました。事件は政党内閣の終焉後に続いていた政治的不安定をさらに深め、軍と内閣の関係を組み替える契機となりました。
軍部大臣現役武官制の復活は何を意味したのか
1936年5月、広田内閣は陸軍省・海軍省の官制を改め、陸軍大臣・海軍大臣などを現役の大将・中将から任用する規定を復活させました。1913年に現役に限定する規定が削除されていましたが、ここで再び現役武官に限る仕組みが明文化されました。
制度復活の当初のねらいには、二・二六事件後に予備役へ編入された皇道派系将官が軍部大臣として復帰することを防ぐという陸軍側の事情もありました。したがって、『軍が内閣を倒すためだけに復活させた制度』と最初から一つの目的に限定するのは正確ではありません。
しかし結果として、陸軍・海軍が現役将官を大臣候補として出さなければ組閣や内閣維持が難しくなる余地が生まれ、軍が内閣に影響を及ぼす制度的な手段となり得ました。二・二六事件後の変化は、反乱勢力の勝利ではなく、反乱を鎮圧した後の軍内部再編と制度変更を通じて政治への軍の影響力が強まった過程として理解する必要があります。
二・二六事件は『軍部全体が起こしたクーデター』でも、『反乱軍が成功して軍部独裁を始めた事件』でもありません。青年将校らの反乱は鎮圧されましたが、その後は皇道派が後退し、統制派を中心とする陸軍の政治的発言力と制度上の影響力が強まりました。
Review
入試で押さえるポイント
- 1930年代前半には三月事件・十月事件、血盟団事件、五・一五事件など政治的な直接行動が相次いだ
- 陸軍内部では皇道派と統制派の対立が深まり、1935年には統制派の永田鉄山が相沢事件で殺害された
- 1936年2月26日、皇道派の影響を受けた青年将校らが部隊を率いて政府要人を襲撃し東京中心部を占拠
- 二・二六事件では斎藤実・高橋是清・渡辺錠太郎が殺害され、岡田啓介首相は生存した
- 事件は2月29日までに鎮圧され、事件後は皇道派の影響力が低下し統制派の発言力が強まった
- 1936年5月に軍部大臣現役武官制が復活し、軍が内閣に影響を及ぼし得る制度的条件の一つとなった
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- 問1
昭和恐慌や農村困窮が深刻だったため、二・二六事件のようなクーデターは他の要因に関係なく必然的に起こった。
経済・社会不安は背景の一つでしたが、国家主義的思想、陸軍内部の派閥対立、具体的な計画を立てた将校らの選択など複数の要因が関わりました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1930年代半ばの陸軍は皇道派と統制派の対立を抱えており、軍部全体が一つの方針で二・二六事件を起こしたわけではない。
皇道派と統制派は国家改造の方法や軍組織の運営をめぐって対立していました。二・二六事件は皇道派の影響を受けた青年将校らによる決起で、陸軍全体の統一行動ではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問3
二・二六事件では決起部隊の国家改造要求が受け入れられ、反乱は成功した。
政府と軍中央は最終的に決起部隊を反乱軍として鎮圧し、2月29日までに部隊は原隊へ戻りました。首謀者らも軍法会議で処罰されました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
二・二六事件の鎮圧後、皇道派の影響力が強まり、統制派は陸軍内で後退した。
事件後は皇道派に近い将官らの人事整理が進み、皇道派の影響力は低下しました。反対に、軍組織の統制を重視する統制派の発言力が強まりました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1936年に復活した軍部大臣現役武官制は、結果として軍が大臣候補を出すかどうかを通じて内閣に影響を及ぼし得る制度的条件となった。
復活時には皇道派系の予備役将官を排除する事情もありましたが、結果として現役将官を大臣に得られなければ組閣や内閣維持が難しくなる余地が生まれました。
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Sources
参考資料
- 昭和11年(1936)2月 二・二六事件国立公文書館「日本のあゆみ」
1936年2月26日の襲撃対象、政府要人の被害、戒厳令、29日の鎮圧を確認
- 二・二六事件アジア歴史資料センター「アジア歴史ラーニング」
皇道派青年将校によるクーデター、陸軍内派閥対立、事件後の皇道派後退と統制派の発言力増大を確認
- 軍部大臣現役武官制復活アジア歴史資料センター「アジア歴史ラーニング」
1936年5月18日の現役規定復活と、二・二六事件後の陸軍人事・制度復活の背景を確認
- 大木操:昭和11(1936)年2月26日の日記より国立国会図書館憲政資料室「日記の世界」
二・二六事件当日の襲撃と被害について同時代の日記資料と解説を確認
