満州国成立と国際連盟脱退―満州事変はなぜ国際協調体制からの離脱へ進んだのか
一言でいうと
満州事変で中国東北部の占領を広げた関東軍は、1932年3月に満州国の成立を進め、日本政府も同年9月にこれを承認しました。一方、国際連盟のリットン調査団は、日本軍の行動を正当な自衛措置とは認めず、満州国も日本軍・日本官憲の関与なしには成立しなかったと報告しました。日本と国際連盟の対立は、満州に日本の権益が存在するかどうかだけでなく、満州国を独立国家として認めるかという点で決定的になります。1933年2月に連盟総会が報告書に基づく勧告を採択すると、日本代表団は退場し、政府は3月27日に国際連盟脱退を通告しました。ただし、この時点で日本がすべての国際関係から直ちに孤立したわけではありません。
占領地に満州国はどのようにつくられたのか
満州事変で関東軍は中国東北部の主要地域を占領し、その軍事的支配を新しい政治体制へ置き換えようとしました。1932年3月1日、満州国の建国が宣言され、清朝最後の皇帝だった溥儀が執政に就きました。
満州国は形式上は独立国家を掲げましたが、その成立と統治には関東軍が強く関与しました。行政・治安・外交などでも日本側の影響は大きく、国際社会ではその独立性そのものが重要な争点になります。
ここで重要なのは、満州事変の軍事占領と満州国の成立を同じ出来事として一括しないことです。1931年の軍事行動によって生まれた既成事実を、1932年にはどのような政治秩序として固定するかが次の問題になりました。
日本政府はなぜ満州国を承認したのか
日本国内では満州国を日本の権益と安全保障を支える存在として維持すべきだという考えが強まりました。1932年9月15日、日本政府は日満議定書を結び、満州国を正式に承認しました。
日満議定書では、それまで日本が満州で持っていた権益の尊重や、日本軍の駐屯などが確認されました。これによって日本政府は、関東軍が現地で進めた政治的既成事実を国家の外交方針として受け入れることになります。
この承認は、国際連盟による調査が進んでいる最中に行われました。そのため以後の争点は、単に満州の治安や日本権益をどう扱うかではなく、日本が承認した満州国を国際社会がどのように位置づけるかへ移っていきます。
リットン調査団は満州事変と満州国をどう評価したのか
中国の提訴を受けた国際連盟は、イギリスのリットン卿を団長とする調査団を日本と中国へ派遣しました。調査団は1932年に現地調査を行い、同年秋に報告書を提出しました。
報告書は、日本軍の行動を正当な自衛措置とは認めず、満州国についても日本軍の存在と日本側官憲の活動がなければ成立しなかったと判断しました。したがって、日本が主張した満州国の独立をそのまま承認する立場は取りませんでした。
一方で報告書は、日本が満州に持つ経済上・安全保障上の利害そのものを全面否定したわけでもありません。1931年9月以前へ単純に戻すのではなく、中国の主権のもとで特別な行政組織を設ける案などを示しました。日本と連盟の対立を『日本の権益を認めるか否か』だけで理解すると、この点を見落とします。
なぜ日本は国際連盟脱退を選んだのか
1933年2月24日、国際連盟総会はリットン報告書を踏まえ、満州に対する中国の主権を認めることなどを含む勧告案を42対1、棄権1で採択しました。反対したのは日本でした。
日本代表の松岡洋右らは採決後に総会会場を退場しました。日本政府は連盟の方針を受け入れて満州国承認を撤回するのではなく、自国の満州政策を維持する道を選び、3月27日に国際連盟へ脱退を通告しました。
つまり連盟脱退は、満州事変そのものの開始時に予定されていた必然的な結果ではありません。軍事占領を満州国という政治体制へ固定し、その承認を維持した日本政府と、満州国を独立国家として承認しなかった国際連盟との対立が積み重なって選択された政策でした。
連盟脱退で日本の国際的孤立は完成したのか
国際連盟からの脱退通告は、ワシントン体制以来の国際協調外交から大きく離れる転換でした。しかし、日本が1933年の時点ですべての外交関係や国際経済関係を失ったわけではありません。イギリスやアメリカを含む各国との外交・貿易はその後も続きました。
1933年5月には日本軍と中国側の間で塘沽停戦協定が結ばれ、満州事変をめぐる大規模な軍事行動はいったん区切られました。ただし満州国の存在をめぐる対立が解消したわけではなく、日本の中国大陸への関与も終わりませんでした。
そのため、1933年をただ『日本が世界から孤立した年』と覚えるより、満州国承認を維持するために国際連盟との協調を断念した転換点として理解する方が正確です。1937年からの日中戦争への拡大は、別の段階として後のTopicで扱います。
国際連盟脱退の中心争点は、満州に日本の利害が存在するかではなく、関東軍の軍事行動の上につくられた満州国を独立国家として承認するかでした。脱退後も各国との外交・貿易は続いており、『1933年に完全孤立した』とは捉えません。
Review
入試で押さえるポイント
- 1932年3月に満州国成立、同年9月に日本政府が日満議定書を結んで承認
- リットン調査団は日本軍の行動を正当な自衛措置とは認めず、満州国の成立にも日本軍・日本官憲の強い関与があったと判断
- リットン報告書は日本の満州における利害を全面否定したのではなく、中国の主権を前提とした特別な行政制度などを提案
- 1933年2月24日の国際連盟総会で勧告案が42対1、棄権1で採択され、日本代表団は退場
- 日本政府は1933年3月27日に国際連盟脱退を通告
- 国際連盟脱退と1937年の日中戦争開始を同一段階として扱わず、脱退直後に国際的孤立が完成したとも考えない
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- 問1
1931年の満州事変による軍事占領と、1932年の満州国成立は同一の出来事ではなく、占領地を政治体制として固定する次の段階だった。
満州事変で生まれた軍事的既成事実を、1932年には満州国という政治秩序として固定する段階へ進みました。軍事占領と建国は分けて理解します。
本文の該当箇所を確認する - 問2
日本政府は1932年9月、日満議定書を結んで満州国を正式に承認した。
1932年9月15日、日本政府は日満議定書を結び、満州国を正式に承認しました。これにより関東軍が進めた既成事実を国家の外交方針として受け入れました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
リットン報告書は、日本が満州に持つ経済上・安全保障上の利害を全面的に否定し、1931年9月以前の状態へそのまま戻すことだけを提案した。
報告書は日本軍の行動や満州国の独立性には批判的でしたが、日本の利害そのものを全面否定せず、中国の主権のもとで特別な行政組織を設ける案なども示しました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
日本の国際連盟脱退は、1931年の満州事変開始時から予定されていた必然的な結果であり、その後の満州国承認や連盟との交渉は結論に影響しなかった。
脱退は、満州国承認を維持する日本政府と、満州国を独立国家として認めなかった国際連盟との対立が積み重なるなかで選択された政策でした。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1933年の国際連盟脱退によって、日本は直ちに英米を含む各国との外交・貿易関係をすべて失い、国際的孤立が完成した。
連盟脱退は国際協調外交から大きく離れる転換でしたが、英米を含む各国との外交・貿易はその後も続きました。1933年に完全孤立したと捉えるのは適切ではありません。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 外交史料 Q&A 昭和戦前期―リットン調査団・国際連盟脱退外務省外交史料館
リットン調査団の派遣・報告内容、日本による満州国承認、1933年連盟総会採決と脱退通告を確認
- 御署名原本・昭和八年・詔書三月二七日・国際聯盟脱退ニ関スル詔書アジア歴史資料センター・国立公文書館
1933年3月27日の国際連盟脱退に関する政府の公式文書を確認
- 満州事変と日英関係京都大学『史林』・国立国会図書館サーチ
満州国承認問題をめぐる日本・国際連盟の対立と、連盟脱退後も対英関係調整の余地が残ったことを確認
