満州事変―関東軍はなぜ政府の不拡大方針を越えて中国東北部へ軍事行動を拡大したのか
一言でいうと
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破されると、関東軍はこれを中国軍の攻撃だとして軍事行動を開始しました。しかしこの爆破は、満州への軍事進出を企図した関東軍将校らが計画した謀略でした。若槻礼次郎内閣は事変の不拡大方針を決めましたが、関東軍は奉天周辺から中国東北部各地へ進撃し、朝鮮軍の越境も加わって占領地域を拡大します。政府と軍中央は現地軍の行動を十分に抑えられず、既成事実を後から承認する場面が生じました。満州事変は、現地軍の独自行動だけでなく、それを制止できなかった政府・軍中央との関係をあわせて理解する必要があります。
事変前の中国東北部で日本はどのような権益と軍事拠点を持っていたのか
日露戦争後、日本は遼東半島南部の関東州租借権や南満州鉄道に関する権益をロシアから引き継ぎ、鉄道沿線にはその警備などを担う関東軍が置かれていました。中国東北部は日本にとって鉄道・企業活動・居留民・軍事上の利害が重なる地域になっていました。
一方、中国では国民政府による統一が進み、張学良も1928年末に国民政府へ合流しました。中国側で主権回復を求める動きが強まるなか、日本国内では満州権益が将来失われるのではないかという危機感を持つ人びともいました。
ただし、こうした対立が存在したことから1931年の軍事行動が自動的に起きたわけではありません。外交交渉や既存の条約関係を通じて対応する選択肢もあり、満州事変の開始には関東軍将校らによる具体的な計画と行動がありました。
柳条湖事件では何が起こったのか
1931年9月18日夜、奉天郊外の柳条湖付近で南満州鉄道の線路が爆破されました。国立国会図書館とアジア歴史資料センターは、この爆破を関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが満州への軍事行動を進めるために計画した謀略として説明しています。
関東軍は爆破を中国軍によるものとして近隣の中国軍部隊を攻撃し、奉天を占領しました。線路被害そのものは小さく列車運行も可能だったとされますが、事件は大規模な軍事行動を開始する口実として利用されました。
ここでは『偶発的な鉄道爆破に日本軍が反応した』と理解しないことが重要です。満州事変の出発点は、関東軍の一部将校が意図的に事件を作り出し、それを中国側の攻撃として軍事行動へ結びつけたことにあります。
若槻内閣の不拡大方針はなぜ守られなかったのか
事件の報告を受けた第2次若槻礼次郎内閣は、満州での戦闘を局地的なものにとどめる不拡大方針を決めました。幣原喜重郎外相も国際協調を基礎とする外交の継続を図りました。
しかし関東軍は政府方針に従って占領地から撤退するのではなく、軍事行動をさらに広げました。9月21日には朝鮮に駐屯していた日本軍が政府の事前承認を待たずに越境し、内閣は後にその行動を事後承認します。
この過程で政府は、軍事行動を止める命令を出すだけで事態を元に戻せる状況ではなくなっていきました。現地軍が新たな占領地をつくるたびに、その撤回による軍内部の反発や現地の安全問題も考慮する必要が生じ、政府は既成事実を追認する方向へ押されます。
関東軍の独自行動だけで事変拡大を説明できるのか
満州事変では関東軍の現地判断が大きな役割を果たしましたが、『現地軍が勝手に動き、東京の政府と軍中央は一貫して反対していた』とだけ説明するのも不十分です。政府・陸軍中央は当初の不拡大方針を維持できず、朝鮮軍越境などを事後承認し、次第に現地の軍事的既成事実を受け入れていきました。
日本国内では満州権益の確保を支持する世論や報道も強まり、軍の行動を抑える政治的条件は弱くなりました。一方で、軍内部にも作戦の範囲や時期をめぐる違いがあり、陸軍全体が事件前から一つの統一計画で動いていたわけではありません。
したがって事変の拡大は、関東軍将校らの計画、現地軍の迅速な軍事行動、政府と軍中央の統制力の弱さ、そして既成事実を後から承認していく政治判断が重なった結果として見る必要があります。
満州事変は1932年までにどこへ進んだのか
関東軍は1931年秋から中国東北部で占領地域を拡大し、錦州などへも攻撃を進めました。翌1932年初めまでに主要地域への軍事的支配を広げ、事変は当初の鉄道沿線の衝突から中国東北部全体の政治秩序を変える段階へ進みました。
同時に、若槻内閣は軍をどのように抑えるかをめぐる閣内対立や政局混乱のなかで1931年12月に総辞職しました。これは満州事変が外交・軍事問題にとどまらず、国内の政党政治にも大きな圧力を与えたことを示します。
しかし、このTopicでは満州国の成立や日本による承認、リットン調査団、国際連盟脱退までは扱いません。軍事行動によって中国東北部の占領が拡大した段階までを確認し、その占領をどのような政治体制へ変えたのかは次のTopicで学びます。
満州事変は、柳条湖事件をきっかけに偶然拡大した戦闘ではありません。関東軍将校らによる謀略と現地軍の軍事行動、政府・軍中央が不拡大方針を貫けず既成事実を追認した過程を分けて理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 満州事変は1931年9月18日の柳条湖事件を契機に始まり、爆破は関東軍参謀石原莞爾・板垣征四郎らが計画した謀略
- 第2次若槻礼次郎内閣は事変不拡大方針を決定したが、関東軍は中国東北部で軍事行動を拡大
- 1931年9月21日に朝鮮軍が政府の事前承認を待たず越境し、内閣は後に事後承認
- 事変拡大は関東軍の独自行動だけでなく、政府・軍中央が既成事実を十分に覆せず追認していった過程も重要
- 満州事変と1937年からの日中戦争は区別し、満州国成立・国際連盟脱退は次段階として理解
- 若槻内閣は満州事変への対応をめぐる政局混乱のなか1931年12月に総辞職
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柳条湖事件の南満州鉄道爆破は、偶発的な中国軍の攻撃ではなく、関東軍の一部将校が軍事行動を進めるために計画した謀略だった。
国立国会図書館やアジア歴史資料センターは、石原莞爾・板垣征四郎ら関東軍将校が柳条湖事件を計画したと説明しています。
本文の該当箇所を確認する - 問2
柳条湖事件後、第2次若槻内閣は関東軍の進撃を政府方針として支持し、中国東北部全体への占領拡大を命じた。
若槻内閣は戦闘を局地的にとどめる不拡大方針を決めました。しかし関東軍はその方針を越えて軍事行動を拡大しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1931年9月21日の朝鮮軍越境は政府の事前承認を待たずに行われ、内閣は後にその行動を事後承認した。
朝鮮軍の越境は政府の事前承認なしに実施され、その後に内閣が事後承認しました。政府が軍事的既成事実を追認していく過程の一例です。
本文の該当箇所を確認する - 問4
満州事変の拡大は関東軍だけの独自行動で説明でき、東京の政府と陸軍中央は最後まで一貫して現地軍の行動を拒否し続けた。
関東軍の独自行動は重要ですが、政府・軍中央は不拡大方針を維持できず、朝鮮軍越境などを事後承認し、次第に既成事実を受け入れました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1931年の満州事変は、1937年に始まる日中戦争と同じ戦争の別名であり、両者を時期的に区別する必要はない。
満州事変は1931年から中国東北部で進んだ軍事行動で、1937年からの日中戦争とは区別して理解します。満州国成立や国際連盟脱退も次の段階です。
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Sources
参考資料
- 4-1 満洲事変国立国会図書館「史料にみる日本の近代」
柳条湖事件を関東軍将校による謀略とする説明、若槻内閣の不拡大方針、関東軍の進攻拡大、若槻内閣瓦解を確認
- 満洲事変アジア歴史資料センター
石原莞爾・板垣征四郎による柳条湖事件の計画、不拡大方針、朝鮮軍越境と事後承認、錦州攻撃までを確認
- 日本外交文書デジタルコレクション 満州事変 第1巻第1冊外務省外交史料館
1931年9月から1932年1月までの満州事変勃発と中国東北各地の戦況・政情に関する外交史料の所在を確認
- 日本外交文書デジタルコレクション 満州事変 第1巻第3冊外務省外交史料館
米国・各国との交渉、国際連盟における審議に関する同時期外交史料の所在を確認
