田中外交と張作霖爆殺事件―対中強硬策はなぜ政権の行き詰まりへつながったのか
一言でいうと
1927年に成立した田中義一内閣は、中国で蒋介石らの国民革命軍が北伐を進めるなか、日本の権益や在留日本人の保護を掲げて山東出兵を繰り返しました。1928年には済南事件で日本軍と国民革命軍が衝突し、中国側に多数の死者が出て対日感情も悪化します。その一方、中国東北部では、関東軍の一部将校が奉天軍閥の指導者張作霖を爆殺しました。これは田中内閣が正式に命じた作戦ではなく、現地軍の行動を政府が十分に統制できない問題を示しました。田中首相は事件処理をめぐって昭和天皇から叱責を受け、1929年7月に内閣は総辞職します。田中外交を満州事変への一直線の前段階とみなすのではなく、中国の国民革命への対応、武力行使による関係悪化、そして政府と関東軍の統制問題が重なった段階として捉えることが重要です。
田中内閣はなぜ中国への政策を強めたのか
1920年代後半の中国では、中国国民党を中心とする国民革命軍が北方の軍閥勢力を打倒し、中国統一を進める北伐を展開していました。北伐が長江流域から華北へ進むと、日本政府は中国各地の権益や在留日本人の安全、さらに満州における権益への影響を強く意識するようになります。
1927年4月に成立した田中義一内閣は、立憲政友会を基盤とし、外相も田中首相が兼任しました。田中内閣は同年の東方会議で中国政策を協議し、北伐の進行に対応して山東省へ軍隊を派遣します。一般に田中外交は、それまでの幣原外交より武力行使を辞さない姿勢を強めた対中政策として位置づけられます。
ただし、日本の対中政策がこの時点で一つの完成した侵略計画に統一されていたと考えるのは適切ではありません。政府、外務省、陸軍中央、関東軍などには、それぞれ異なる判断と利害がありました。そのずれが、のちの張作霖爆殺事件で大きな政治問題になります。
山東出兵は何をもたらしたのか
田中内閣は1927年から1928年にかけて、居留民保護を名目に三度にわたり山東省へ出兵しました。1928年春の第二次出兵では日本軍と北伐中の国民革命軍が済南に入り、5月3日に両軍が衝突します。これが済南事件です。
衝突はいったん停戦したものの、日本軍は増援を受けて済南城を攻撃し、戦闘は拡大しました。中国側に多数の死者が出たこともあり、山東出兵と済南事件は中国での排日感情を強めました。
日本側は権益・居留民保護を政策理由に掲げましたが、北伐によって中国統一を進めようとする国民政府側から見れば、外国軍の派遣は主権への介入でした。田中外交を理解するには、日本政府の政策目的だけでなく、中国側の国民革命と主権回復の動きのなかで衝突が起きたことを見る必要があります。
張作霖爆殺事件はなぜ政府と軍の統制問題になったのか
張作霖は中国東北部を支配した奉天軍閥の指導者で、日本は満州の権益を維持するため彼との関係を利用してきました。しかし北伐が北京へ迫ると張作霖は北京から奉天へ退却し、1928年6月4日、奉天近郊で列車を爆破されて死亡しました。
爆破を実行したのは、満州に駐屯していた関東軍の一部将校です。彼らは張作霖を排除することで満州の政治状況を日本に有利な方向へ動かそうとしましたが、事件は田中内閣の正式な命令によるものではありませんでした。ここには、現地軍が政府の外交方針を越えて行動するという統制上の深刻な問題が表れています。
さらに張作霖の死後、その子の張学良は国民政府への合流を進めました。爆殺によって日本の影響力が安定したわけではなく、関東軍の独自行動はむしろ対中関係と国内政治に新しい問題を生みました。
張作霖爆殺事件を「田中内閣が張作霖暗殺を命令した事件」と説明しないことが重要です。政府の対中強硬策と、関東軍の一部将校による独自行動は関連していても同一ではありません。
なぜ田中内閣は事件処理で総辞職したのか
日本政府は当初、張作霖爆殺の真相を公に明確化できず、事件は「満洲某重大事件」と呼ばれました。田中首相は事件の責任者を処分する意向を天皇に示しましたが、その後の処理が十分でないとして昭和天皇から叱責を受け、1929年7月2日に内閣は総辞職しました。
田中外交の行き詰まりは、単に一つの外交事件に失敗したというだけではありません。山東出兵と済南事件は中国との関係を悪化させ、張作霖爆殺事件は政府が現地軍の行動をどこまで統制できるのかという問題を露呈しました。
後継の浜口雄幸内閣では幣原喜重郎が再び外相となり、国際協調を重視する外交が戻ります。したがって1929年の政権交代から1931年の満州事変までを、軍事拡張が途切れなく進んだ時期として単純化してはいけません。満州事変は次の独立した段階として学びます。
Review
入試で押さえるポイント
- 田中義一内閣は1927年成立、立憲政友会を基盤とし田中首相が外相を兼任
- 北伐への対応として1927〜1928年に三度の山東出兵を行い、1928年の済南事件で日本軍と国民革命軍が衝突
- 張作霖爆殺事件は1928年6月4日、関東軍の一部将校が実行したもので、田中内閣の正式命令による作戦ではない
- 事件処理をめぐって田中義一首相が昭和天皇から叱責を受け、1929年7月に田中内閣が総辞職
- 田中外交と1931年の満州事変を一直線の必然的過程として同一視しない
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田中内閣期には政府・外務省・陸軍中央・関東軍の判断が完全に一致し、一つの完成した対中侵略計画に従って行動していた。
対中政策をめぐる判断や利害にはずれがあり、張作霖爆殺事件では関東軍の一部将校が政府の正式命令を越えて行動しました。
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山東出兵と済南事件は、中国の国民革命・主権回復の動きと衝突し、中国での対日感情を悪化させた。
日本は居留民・権益保護を掲げましたが、中国側からは外国軍による主権への介入と受け止められ、済南事件で多数の死者が出たことも反発を強めました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
張作霖爆殺事件は、田中義一内閣が正式に命令し、政府方針として実行した作戦だった。
爆破を実行したのは関東軍の一部将校で、田中内閣の正式命令による作戦ではありませんでした。
本文の該当箇所を確認する - 問4
張作霖の死後、張学良は国民政府への合流を進めたため、爆殺によって日本の満州での影響力が安定したとはいえない。
関東軍の一部は日本に有利な状況を期待しましたが、張学良は国民政府への合流を進め、事件は対中関係と国内政治に新たな問題を生みました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
田中内閣の総辞職後も同じ対中強硬外交が途切れず続き、そのまま1931年の満州事変へ直結した。
後継の浜口雄幸内閣では幣原喜重郎が再び外相となり国際協調外交が戻りました。満州事変までを一直線の過程として扱うのは適切ではありません。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 田中義一国立国会図書館「近代日本人の肖像」
田中義一の首相就任、山東出兵の推進、張作霖爆殺事件の責任を取った総辞職を確認
- 済南事件について教えてください。外務省外交史料館・国立国会図書館レファレンス協同データベース
北伐、三度の山東出兵、済南事件の経過、中国側の被害と対日感情への影響を確認
- 3-16 浜口内閣の成立国立国会図書館「史料にみる日本の近代」
張作霖爆殺事件処理をめぐる田中義一内閣の総辞職と浜口内閣成立を確認
- 張作霖爆死事件 松本記録外務省外交史料館・アジア歴史資料センター
張作霖爆殺事件について政府・関係官庁が真相調査を進めた同時代外交記録を確認
