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平成時代1993〜1995年を中心に政治・外交重要度 A

河野談話・村山談話と戦後50年―歴史認識はなぜ国内政治と東アジア外交の争点となったのかこうのだんわむらやまだんわとせんごごじゅうねん れきしにんしきはなぜこくないせいじとひがしあじあがいこうのそうてんとなったのか

一言でいうと

1990年代前半、日本政府は戦時期の植民地支配や慰安婦問題をめぐる調査と政府見解の整理を進めました。1993年8月4日の河野官房長官談話は、政府調査を踏まえ、慰安所の設置・管理・慰安婦の移送に旧日本軍が直接または間接に関与したこと、募集では本人の意思に反して集められた事例が多数あり、官憲等が直接加担したこともあったと認め、元慰安婦に対してお詫びと反省を表明しました。1995年8月15日の村山首相談話は戦後50年にあたり、植民地支配と侵略によってアジア諸国を中心に多大な損害と苦痛を与えたとの認識を示し、痛切な反省と心からのお詫びを表明しました。同年には政府と国民の協力によるアジア女性基金も設けられます。これらは過去の戦争をめぐる政府見解を明文化し、近隣諸国との外交に直接関わる基準となる一方、国内では責任の範囲、表現、補償・救済の方法をめぐって異なる評価を生みました。歴史認識問題を学ぶ際は、戦時期の歴史的事実、その事実を1990年代の政府がどう調査・表現したか、その政府見解が国内外でどう評価されたかを分け、一方の政治的主張をそのまま歴史的事実として扱わないことが重要です。

なぜ歴史認識が1990年代に改めて政治・外交の問題になったのか

日本の植民地支配や戦争責任をめぐる問題は、1990年代になって突然生まれたものではありません。しかし冷戦終結後、東アジアの国際環境が変化し、被害を受けた人びとの証言や訴えが社会的に広く注目される中で、日本政府が過去の事実をどのように調査し、どのような言葉で公式見解を示すかが外交上の重要課題となりました。

慰安婦問題について日本政府は1991年12月から調査を進め、1992年7月と1993年8月に調査結果を公表しました。さらに1995年は敗戦から50年という節目であり、政府は歴史研究支援や交流事業を含む『平和友好交流計画』を進めました。1990年代前半には、個別の歴史問題と『戦後50年』という国家的な節目が重なったのです。

1993年の河野談話は、政府調査をどのようにまとめたのか

1993年8月4日、河野洋平官房長官は慰安婦問題に関する政府調査結果とともに談話を発表しました。談話は、慰安所が当時の軍当局の要請で設営され、その設置・管理・慰安婦の移送に旧日本軍が直接または間接に関与したとしました。

募集については、軍の要請を受けた業者が主に担った一方、甘言や強圧など本人の意思に反して集められた事例が多数あり、官憲等が直接加担したこともあったとしています。その上で、元慰安婦の名誉と尊厳を深く傷つけた問題として、政府はお詫びと反省を表明しました。ここでは、戦時期そのものを新たに作り出したのではなく、政府調査を踏まえて政府としてどの事実を認め、どのような責任ある言葉を示すかが問題となっています。

河野談話を読むときは、談話本文が認定した内容と、その後の国内外の政治的評価を混同しないことが重要です。

1995年の村山談話は、戦後50年をどう位置づけたのか

1995年8月15日、村山富市首相は『戦後50周年の終戦記念日にあたって』と題する談話を発表しました。談話は、日本が一時期国策を誤って戦争への道を進み、植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人びとに多大な損害と苦痛を与えたとの認識を示しました。

村山首相はその歴史を受け止め、痛切な反省と心からのお詫びを表明しました。同時に、戦後日本の平和と繁栄、国際協調、平和と民主主義を将来へつなぐことも談話の柱でした。村山談話は、個別の一事件だけではなく、日本の植民地支配と戦争全体について戦後50年時点の政府見解を示した点に特徴があります。

アジア女性基金は、謝罪と救済をどのような仕組みで実施しようとしたのか

1995年、政府と国民の協力による『女性のためのアジア平和国民基金』(アジア女性基金)が設立されました。国民からの募金を原資とする『償い金』と、政府拠出による医療・福祉支援事業などを組み合わせ、対象となる元慰安婦へ歴代首相のおわびの手紙を届ける事業も行われました。

この制度は、政府による謝罪表明と民間募金・政府資金を組み合わせる独特の方式でした。そのため、被害者救済の実績がある一方で、法的責任や国家補償との関係をどう評価するかについて国内外で見解が分かれました。ここでは『基金が問題を完全に解決した』とも『何の意味もなかった』とも単純化せず、制度の仕組みと、それに対する評価が別問題であることを押さえる必要があります。

なぜ政府談話は、その後も外交と国内政治の争点になったのか

河野談話と村山談話は、日本政府が過去の戦争や植民地支配についてどのような認識を持つかを公式文書として示しました。そのため、韓国や中国をはじめ近隣諸国との外交では、日本の謝罪や反省がどのように継承されているかを判断する重要な参照点となりました。

一方、国内では、どの事実を政府が認定するのか、どの表現を使うのか、謝罪や救済をどの制度で行うのかについて意見が分かれました。さらに相手国側にも政府、被害者、市民社会など異なる主体があり、受け止めは一様ではありません。歴史認識問題が長期化するのは、過去の歴史的事実だけでなく、その事実を現在の国家がどう記憶し、責任や和解をどう制度化するかという政治問題でもあるためです。

したがって、現在まで続く日韓・日中間の主張を学ぶ際も、各政府や当事者の主張をそのまま確定した歴史的事実として扱うのではなく、一次資料、政府調査、研究成果、裁判や外交文書などの性格を区別して検討する必要があります。

歴史認識の争点では、『戦時期に何が起きたか』『政府が何を認定・表明したか』『その表明を各主体がどう評価したか』の3層を分けて読むことが重要です。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1993年8月4日の河野官房長官談話が、政府調査を踏まえて慰安所への旧日本軍の関与や本人の意思に反する募集事例などを認め、元慰安婦へのお詫びと反省を表明したこと
  • 1995年8月15日の村山首相談話が、植民地支配と侵略によってアジア諸国などへ損害と苦痛を与えたとの認識と、痛切な反省・お詫びを表明したこと
  • 1995年にアジア女性基金が設けられ、国民募金による償い金と政府資金による医療・福祉支援などを組み合わせた事業が行われたこと
  • 政府談話の本文、戦時期の歴史的事実、その後の国内外の評価・外交上の主張を区別して理解すること
  • 歴史認識問題を一方の国家・政治勢力の主張だけで確定せず、主体と史料の性格を区別して検討すること

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  1. 問1

    1993年の河野談話は、政府調査を踏まえ、慰安所の設置・管理や慰安婦の移送への旧日本軍の関与、本人の意思に反する募集事例などを認めた。

  2. 問2

    1995年の村山談話は慰安婦問題だけを対象とした政府見解で、植民地支配や侵略については扱っていなかった。

  3. 問3

    アジア女性基金では、国民からの募金による『償い金』と、政府資金による医療・福祉支援などを組み合わせた事業が行われた。

  4. 問4

    河野談話や村山談話の本文を読めば、それだけで戦時期のあらゆる歴史的事実と、その後の国内外の評価まで同じものとして確定できる。

  5. 問5

    歴史認識をめぐる政府談話や救済策については、国内外の政府、被害者、市民社会など主体によって受け止めや評価が異なった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 村山首相談話が発表され植民地支配と侵略への反省とおわびが表明される
  2. 政府が慰安婦問題に関する河野官房長官談話を発表する
  3. アジア女性基金が設立され慰安婦問題への事業が始まる

Sources

参考資料

  1. 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話外務省

    1993年8月4日の河野談話本文を確認

  2. 村山内閣総理大臣談話『戦後50周年の終戦記念日にあたって』外務省

    1995年8月15日の村山談話本文を確認

  3. 慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策外務省

    1991年以降の政府調査、河野談話、お詫びと反省の表明など政府施策の経緯を確認

  4. 『女性のためのアジア平和国民基金』に関する五十嵐内閣官房長官発表外務省

    1995年の基金事業構想、民間募金と政府資金による支援の仕組みを確認

  5. アジア女性基金による事業の概要外務省

    償い金、医療・福祉支援など基金の具体的事業を確認

  6. 『平和友好交流計画』に関する村山内閣総理大臣の談話外務省

    戦後50年を前に歴史研究支援と交流事業を進めた政府の問題意識を確認