自民党分裂と55年体制の終焉―1993年に非自民連立政権はなぜ成立したのか
一言でいうと
1993年8月、細川護熙を首相とする非自民の連立内閣が成立し、1955年以来続いてきた自民党中心の長期政権はいったん中断しました。背景には、リクルート事件以来の政治不信に加え、1992年の東京佐川急便事件で金権政治への批判が再び強まり、選挙制度を含む政治改革が主要争点になったことがあります。しかし自民党内では改革の内容や進め方をめぐる対立が深まり、1993年6月には一部議員が野党提出の宮澤内閣不信任案に賛成するなどして不信任決議が可決されました。衆議院解散後、自民党から新生党や新党さきがけが分離し、7月18日の総選挙では自民党が223議席で過半数を失います。選挙後、日本新党、新生党、日本社会党、公明党など7党1会派が細川を首相候補にまとめ、8月9日に連立内閣が成立しました。これが55年体制の終焉と呼ばれるのは、自民党が最大政党の地位を保ちながらも政権を失い、単独長期政権を前提とする政治構造が崩れたためです。ただし自民党政治が恒久的に終わったわけではなく、翌1994年には自民党が連立与党として政権へ復帰します。
なぜ1990年代初めに政治改革が最大の争点になったのか
1980年代末のリクルート事件は、企業と政治家・官僚の関係や政治資金をめぐる不信を強めました。さらに1992年には東京佐川急便事件が政界を揺るがし、金丸信をめぐる巨額献金問題などを通じて、政治とカネの問題が再び強く意識されます。
こうした不祥事への対応として、政治倫理や政治資金だけでなく、選挙制度そのものを改める政治改革論が強まりました。中選挙区制では同じ政党の候補者同士も競争するため、後援会や多額の選挙資金への依存を強めるという批判がありました。ただし政治腐敗の原因を選挙制度だけに求めたわけではなく、政治資金・政党のあり方を含む改革論が競合していました。
1993年の政権交代は、単なる選挙敗北ではなく、政治不信を背景とする改革論争が自民党内部の分裂へつながったことが重要です。
宮澤内閣の政治改革は、なぜ自民党分裂へつながったのか
宮澤喜一内閣は政治改革を重要課題としましたが、選挙制度改革の内容や成立方法をめぐって自民党内の意見をまとめ切れませんでした。党内には改革を急ぐ勢力と、制度変更に慎重な勢力があり、竹下派の分裂など派閥再編も重なって対立が深まります。
1993年6月18日、野党が提出した宮澤内閣不信任案に自民党の一部議員が賛成し、決議は可決されました。宮澤首相は衆議院を解散します。その後、羽田孜・小沢一郎らのグループは新生党を結成し、武村正義らも新党さきがけを結成しました。自民党は総選挙を前に大きく分裂したのです。
1993年総選挙で、自民党はなぜ政権を維持できなかったのか
第40回衆議院議員総選挙は1993年7月18日に行われました。定数511のうち、自民党は223議席を獲得して第1党の地位を保ちましたが、過半数の256議席には届きませんでした。新生党55、日本新党35、新党さきがけ13など新党勢力も議席を得る一方、日本社会党は70議席へ大きく減らしました。
したがって、選挙結果を『野党第一党が自民党を上回った』という政権交代として理解するのは誤りです。自民党は最大政党でしたが、分裂によって単独過半数を失い、他党との連立なしには政権を構成できなくなりました。その一方、非自民各党を組み合わせれば過半数を確保できる議席構成が生まれたことが、政権交代を可能にしました。
1993年総選挙では自民党が223議席で第1党のまま過半数を失いました。政権交代の鍵は、自民党の分裂と、複数の非自民政党が連立できる議席構成が同時に生まれたことです。
思想の異なる政党は、なぜ細川連立内閣をつくれたのか
選挙後、日本新党、日本社会党、新生党、公明党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合と参議院会派の民主改革連合は、政治改革を共通課題として連立政権の形成で合意しました。日本新党代表の細川護熙が首相候補となり、1993年8月9日に細川内閣が成立します。
連立を構成した勢力は、外交・安全保障や社会政策などで必ずしも同じ立場ではありませんでした。それでも、自民党単独政権を終わらせ、政治改革を実現するという目標を優先したことで政権を組むことができました。冷戦終結によって従来の保革対立の前提が弱まっていたことも、異なる政党の連携を可能にした背景の一つです。
なぜ1993年が「55年体制の終焉」と呼ばれるのか
55年体制とは、1955年に自民党と社会党がそれぞれ結成・再統一された後、自民党が長期に政権を担い、社会党が主要野党となった政治構造を指します。1993年に自民党が政権を失い、社会党を含む複数政党による非自民連立政権が成立したことで、この長期安定構造は崩れました。
ただし、これは自民党そのものの終わりを意味しません。自民党は1993年選挙でも第1党であり、1994年には日本社会党・新党さきがけとの連立で与党へ復帰しました。その後も連立の組み替えと政党再編が続きます。したがって1993年は『自民党が消えた年』ではなく、『自民党単独長期政権を当然とする55年体制が崩れ、連立政治と政党再編の時代へ移った年』と捉えるのが適切です。選挙制度改革とその後の政党再編は次のテーマで扱います。
Review
入試で押さえるポイント
- 1992年の東京佐川急便事件などを背景に政治不信が強まり、政治改革が主要争点となったこと
- 政治改革をめぐる自民党内対立の中で1993年6月18日に宮澤内閣不信任決議が可決され、衆議院解散と自民党分裂へ進んだこと
- 1993年7月18日の第40回総選挙で自民党は223議席の第1党を維持したが、過半数を失ったこと
- 日本新党・日本社会党・新生党・公明党など7党1会派が連立し、1993年8月9日に細川護熙内閣が成立したこと
- 1993年の55年体制終焉は自民党政治の恒久的終焉ではなく、自民党単独長期政権から連立政治・政党再編へ移る転換点であること
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- 問1
1990年代初めの政治改革論は選挙制度の変更だけを対象とし、政治資金や政党のあり方は論点に含まれていなかった。
中選挙区制への批判は重要でしたが、政治資金や政党のあり方を含む複数の改革論が競合していました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1993年6月の宮澤内閣不信任決議では自民党の一部議員も賛成し、その後の衆議院解散と新生党・新党さきがけの結成へつながった。
政治改革をめぐる党内対立の中で不信任案が可決され、解散後に自民党から複数の新党が分離しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1993年総選挙では自民党が第1党の地位を保ったまま過半数を失い、複数の非自民政党が連立すれば多数を確保できる議席構成になった。
自民党は223議席で最大政党でしたが過半数には届かず、非自民各党の連立が政権交代を可能にしました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
細川連立政権を構成した政党は外交・安全保障や社会政策まで同じ立場だったわけではなく、政治改革などの共通目標を優先して連立した。
連立各党には政策上の違いがありましたが、自民党単独政権を終わらせ政治改革を進めることを共通課題として政権を組みました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1993年に55年体制が終わったことで自民党は政党として消滅し、その後は与党へ復帰しなかった。
55年体制の終焉は自民党の消滅ではありません。自民党は第1党を維持し、1994年には連立与党として政権へ復帰しました。
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Sources
参考資料
- 議会開設百三十年記念議会政治展示会目録国立国会図書館
1993年の自民党分裂、新党さきがけ・新生党結成、7党1会派による連立政権成立の流れを確認
- 第128回国会 参議院 政治改革に関する特別委員会 第3号 平成5年12月9日国立国会図書館 国会会議録検索システム
第40回衆議院議員総選挙が1993年7月18日に行われ、自民党223、日本社会党70、新生党55、公明党51、日本新党35、新党さきがけ13などとなったことを確認
- 第79代 細川 護熙首相官邸
細川内閣が1993年8月9日に成立したことを確認
- 第128回国会 衆議院 政治改革に関する調査特別委員会 第5号 平成5年10月20日国立国会図書館 国会会議録検索システム
リクルート事件から選挙制度を含む政治改革論が強まった経緯と、1992年東京佐川急便事件が政治改革論議に与えた影響を確認
