冷戦終結・湾岸戦争とPKO協力法―日本の『国際貢献』はなぜ自衛隊海外活動へ広がったのか
一言でいうと
1989〜1991年に東西冷戦の秩序が崩れる一方、1990年8月のイラクによるクウェート侵攻から湾岸危機・湾岸戦争が起こり、日本は新しい国際環境のなかで『どのように平和と安全へ貢献するのか』を問われました。政府は湾岸地域へ総額約130億ドルの資金協力を行いましたが、資金だけでなく人員をどう派遣するかをめぐって国内の議論が続きます。湾岸戦争の停戦後には、1991年4月に海上自衛隊の掃海部隊をペルシャ湾へ派遣し、残存機雷の除去にあたりました。さらに1992年6月には国際平和協力法(PKO協力法)が成立し、同年9月以降、自衛隊施設部隊や停戦監視要員、文民警察官などがカンボジアの国連平和維持活動へ参加します。平成初期の『国際貢献』は、資金協力から停戦後の掃海、そして法律に基づく国連PKO参加へと、段階を踏んで人的活動へ広がったと理解することが重要です。
冷戦終結の時期に、なぜ湾岸危機が日本の外交課題になったのか
1989年の東欧革命から1991年のソ連解体へ、米ソ対立を軸とする冷戦体制は急速に終結へ向かいました。しかし、冷戦が終われば国際紛争がなくなるわけではありません。1990年8月2日、イラクがクウェートへ侵攻し、国連安全保障理事会の決議と多国籍軍の展開を伴う湾岸危機へ発展しました。
日本は石油輸入を中東に大きく依存し、国際経済でも大きな地位を占めていました。そのため、湾岸地域の安定は日本自身の経済と安全にも深く関係していました。同時に、戦後日本が海外でどのような人的・軍事的活動を行えるのかについては、憲法との関係や国民的合意をめぐる慎重な議論が必要でした。
湾岸危機で、日本はまずどのような支援を行ったのか
政府は湾岸地域の平和と安定の回復を支えるため、多国籍軍や周辺国などへの資金協力を拡大し、最終的に総額約130億ドルに上る協力を行いました。医療や輸送、物資面の支援も検討・実施されましたが、日本の対応では大規模な資金協力が大きな柱になりました。
ところが湾岸危機は、資金を拠出するだけで日本の国際的役割を十分に果たしたことになるのかという議論を強めました。政府は1990年秋に国連平和協力法案を提出しましたが、法案は成立しませんでした。それでも、この過程で国連の平和維持活動などへ人的に協力するための法制度をどう整えるかが、継続的な政治課題として残りました。
湾岸危機への日本の対応を『130億ドルを出しただけ』と単純化しません。資金協力を中心に、医療・物資などの支援と、人的貢献をめぐる国内制度の検討が並行していました。
ペルシャ湾への掃海部隊派遣は、湾岸戦争への参戦だったのか
湾岸戦争は1991年1〜2月に戦闘が行われました。日本政府が海上自衛隊の掃海部隊派遣を決めたのは、その後の4月です。派遣されたのは掃海母艦・掃海艇・補給艦からなる6隻、約510人で、6月からクウェート沖などに残された機雷の除去にあたりました。
この派遣は、多国籍軍の戦闘作戦に自衛隊が参加したものではありません。政府は、正式な停戦が成立して軍事衝突の危険が除かれた状況で、安全な航行を確保するための平和的・人道的な機雷除去として位置付けました。したがって、湾岸戦争中の資金協力と、停戦後の掃海部隊派遣は時期と活動内容を分けて理解する必要があります。
1991年のペルシャ湾掃海は湾岸戦争の戦闘参加ではなく、停戦後の残存機雷除去です。『湾岸戦争で自衛隊が戦った』とは整理しません。
1992年のPKO協力法は、何を制度化したのか
湾岸危機後も国際的な人的協力をめぐる議論は続き、1992年6月に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律、いわゆる国際平和協力法・PKO協力法が成立しました。これにより、日本は国連平和維持活動などへ要員を派遣するための恒常的な法的枠組みを持つことになりました。
自衛隊がPKOへ参加する際には、停戦合意、紛争当事者の受入れ同意、中立性などを柱とする参加5原則が設けられました。これは、海外で活動できるようになったからといって、自衛隊が無制限に武力行使を行えるようになったという意味ではありません。国連を中心とする国際平和協力に、一定の条件のもとで参加する制度として理解する必要があります。
また、1992年のPKO協力法と、後年の安全保障法制を同一の制度として扱ってはいけません。海外活動の範囲や法的枠組みは、その後も別の法律や改正を通じて変化していきます。
カンボジアPKO参加で、日本の国際貢献はどう変わったのか
1992年9月以降、日本は国連カンボジア暫定機構(UNTAC)へ、自衛隊の施設部隊・停戦監視要員、文民警察官などを派遣しました。自衛隊の施設部隊は道路や橋の修復などに従事し、日本は選挙要員を含む人的協力も行いました。これは国際平和協力法に基づく日本初の国連PKO参加でした。
ここで重要なのは、1991年のペルシャ湾掃海と1992年のカンボジアPKOを同じ制度による派遣と考えないことです。掃海は湾岸戦争後の機雷除去として個別に実施され、カンボジアでは新しく成立した国際平和協力法を根拠として国連PKOへ参加しました。平成初期には、個別の危機対応から、法律に基づく継続的な国際平和協力へ制度化が進んだのです。
Review
入試で押さえるポイント
- 1989〜1991年に冷戦体制が終結する一方、1990年のイラクによるクウェート侵攻から湾岸危機・湾岸戦争が起こったこと
- 日本が湾岸地域へ総額約130億ドルの資金協力を行い、人的貢献のあり方が国内政治の争点になったこと
- 1991年4月に停戦後のペルシャ湾へ海上自衛隊の掃海部隊6隻・約510人を派遣し、残存機雷を除去したこと
- 1992年6月に国際平和協力法(PKO協力法)が成立し、参加5原則を柱として国連PKOなどへの人的協力の法的枠組みが整えられたこと
- 1992年9月以降のカンボジアUNTAC参加が、国際平和協力法に基づく日本初の国連PKO参加となったこと
- 湾岸戦争への資金協力、停戦後の掃海、PKO協力法、カンボジアPKOを別の段階として区別すること
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- 問1
冷戦体制が終結へ向かったことは、国際紛争そのものがなくなったことを意味せず、1990年にはイラクのクウェート侵攻から湾岸危機が起きた。
1989〜1991年に冷戦秩序は崩れましたが、1990年には湾岸危機が発生しました。冷戦終結と国際紛争の消滅は同義ではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問2
日本の湾岸危機後の対応は1992年のPKO協力法成立まで資金拠出だけに限られ、自衛隊による人的活動は一度も行われなかった。
大規模な資金協力に加え、1991年には湾岸戦争停戦後のペルシャ湾へ海上自衛隊の掃海部隊が派遣されました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
1991年のペルシャ湾掃海部隊派遣は、湾岸戦争の戦闘中に多国籍軍へ加わって戦闘作戦へ参加したものだった。
掃海部隊の派遣決定は戦闘終了後で、正式停戦後の残存機雷除去として実施されました。多国籍軍の戦闘作戦への参加ではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1992年のPKO協力法は、自衛隊の海外活動を無条件に認める制度ではなく、停戦合意や当事者の同意、中立性などを柱とする参加原則の下で国連PKOなどへの協力を制度化した。
PKO参加には参加5原則が設けられました。法律成立を、海外で無制限に武力行使できるようになったことと理解してはいけません。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1991年のペルシャ湾掃海と1992年のカンボジアPKO参加は、どちらもPKO協力法に基づいて実施された同じ制度上の派遣だった。
ペルシャ湾掃海はPKO協力法成立前に個別に実施され、カンボジアPKOは新しく成立した国際平和協力法を根拠に行われました。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 外交青書1991 第1章第2節 日本の外交の課題外務省
湾岸危機への総額130億ドルの協力、停戦後の掃海部隊派遣、国連平和協力法案をめぐる議論を確認
- 外交青書1991 Japan's Response to the Post-Gulf Crisis Problems外務省
1991年4月に掃海部隊6隻・約510人を派遣し、停戦後の平和的・人道的な機雷除去として実施したことを確認
- 外交青書1992 第2章第1節 世界の平和と繁栄の確保外務省
湾岸危機が国際貢献をめぐる国内議論の契機となり、国連平和協力法案の廃案を経て国際平和協力法成立へ至った流れを確認
- PKO政策Q&A外務省
1992年6月の国際平和協力法制定とPKO参加5原則の基本的な位置付けを確認
- カンボジア和平及び復興への日本の協力外務省
1992年9月以降のUNTACへの施設部隊・停戦監視要員・文民警察官・選挙要員等の派遣と、日本初のPKO派遣であることを確認
