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昭和時代1950年代〜1970年代前半社会・経済重要度 A

四大公害病と公害行政―高度成長の被害はなぜ長く放置され、制度転換を促したのかよんだいこうがいびょうとこうがいぎょうせい こうどせいちょうのひがいはなぜながくほうちされせいどてんかんをうながしたのか

一言でいうと

高度経済成長期には、工場・鉱山・石油化学コンビナートの生産拡大に伴って有害物質や大気汚染物質が環境へ排出され、各地で深刻な健康被害が起こりました。代表例が熊本県の水俣病、新潟県の新潟水俣病、富山県のイタイイタイ病、三重県の四日市ぜんそくで、後に「四大公害病」と呼ばれます。しかし被害が現れた時点で原因や企業責任がすぐ確定したわけではありません。水俣病では1956年の公式確認から1968年の政府統一見解まで12年を要し、その間にも被害が拡大しました。各地では患者・家族・住民・研究者らが原因究明や救済を求め、企業との交渉や訴訟に進みます。1970年前後には公害への社会的批判が全国的に強まり、1970年の「公害国会」で公害対策基本法の経済調和条項削除を含む14本の公害関係法が整備・改正され、1971年には環境庁が発足しました。四大公害裁判の原告勝訴も企業責任や被害救済を強く問い、公害健康被害補償制度などへ影響を与えます。公害は単に『成長すれば仕方なく起こる副作用』ではなく、汚染を発生・拡大させた企業活動と、規制・調査・救済が十分に機能しなかった制度上の問題を含む歴史として捉える必要があります。

四大公害病はどこで、何によって起こったのか

四大公害病は一括して覚えられることが多いですが、汚染物質と被害経路は同じではありません。熊本県水俣湾周辺の水俣病みなまたびょうと新潟県阿賀野川流域の新潟水俣病にいがたみなまたびょうは、工場排水に含まれたメチル水銀化合物が魚介類へ蓄積し、それを摂取した住民に神経系の障害を引き起こしました。熊本ではチッソ水俣工場、新潟では昭和電工鹿瀬工場が原因企業とされました。

富山県神通川流域のイタイイタイ病いたいいたいびょうは、三井金属鉱業神岡鉱業所の事業活動に伴うカドミウムを含む排水による河川・土壌汚染を通じた慢性カドミウム中毒が原因とされ、腎障害や骨軟化症などをもたらしました。

三重県四日市市の四日市ぜんそくよっかいちぜんそくは、石油化学コンビナートなどから排出された硫黄酸化物を中心とする大気汚染と呼吸器疾患の多発が問題となったものです。水質汚濁による三つの疾病とは異なり、複数企業が集積した工業地域の大気汚染が問われました。

四大公害病を一つの原因で説明しません。水俣病・新潟水俣病はメチル水銀、イタイイタイ病はカドミウム、四日市ぜんそくは硫黄酸化物を中心とする大気汚染という違いを押さえます。

水俣病はなぜ公式確認後も被害が拡大したのか

水俣病は1956年5月1日に公式確認されました。同年中には熊本大学の研究班が水俣湾産魚介類の摂取による中毒を疑い、1959年には有機水銀説が有力になります。しかし、原因物質・発生源の確定をめぐって調査と論争が長期化し、魚介類の摂取を確実に止める措置や工場排水の停止が十分に行われないまま患者が増えました。

国立水俣病総合研究センターの整理では、チッソは1959年には自社工場内の排水が原因であることを把握しながら排水を続けたとされています。1961〜62年には工場排水や触媒滓からメチル水銀に関する証拠がさらに得られましたが、政府がチッソ水俣工場の排水中のメチル水銀化合物を原因とする統一見解を発表したのは1968年9月でした。

新潟水俣病は1965年に阿賀野川流域で公式確認されました。熊本で同種の被害がすでに問題になっていたにもかかわらず、再び工場由来のメチル水銀汚染による健康被害が発生したことは、公害防止の知識が地域を越えて十分に制度化されていなかったことを示します。政府は1968年に熊本・新潟双方について原因企業と原因物質を明示しました。

イタイイタイ病と四日市ぜんそくは何を明らかにしたのか

イタイイタイ病は富山県神通川流域で以前から住民を苦しめ、1955年には原因不明の疾病として学会に報告されました。1968年5月、厚生省は慢性カドミウム中毒を本態とし、原因物質のカドミウムについて三井金属鉱業神岡鉱業所の排水以外は見当たらないとする見解を発表しました。被害が認識されてから国の公式見解までには長い時間がかかりました。

四日市では1950年代後半から石油化学コンビナートが本格化し、1960年代初めにはぜんそくなどの呼吸器疾患が問題になります。患者と住民は行政への働きかけを続け、1967年には公害認定患者がコンビナート企業を相手に損害賠償訴訟を起こしました。

1972年7月の四日市公害訴訟判決は、被告企業群から排出された硫黄酸化物を主とする大気汚染と患者の疾病との因果関係を認め、原告側が勝訴しました。多数の工場が集積するコンビナート全体の共同責任を問う考え方は、その後の大気汚染対策や健康被害救済制度に大きな影響を与えました。

なぜ発生から認定・救済まで長い時間がかかったのか

公害の因果関係を示すには、患者の症状、汚染物質、排出源、環境中の移動経路などを科学的に結びつける必要がありました。未知の疾病では原因究明そのものに時間がかかり、複数企業が関係する大気汚染では個別企業との因果関係をどう判断するかも難しい問題でした。

しかし遅れを科学的困難だけで説明することもできません。急速な工業化のなかで企業の生産や地域経済が重視され、規制制度が汚染の拡大に追いつかなかったこと、企業側が責任を争ったこと、行政組織が複数分野に分かれ一体的な公害対策が弱かったことなどが重なりました。水俣病では、魚介類による危険が疑われた後も十分な被害拡大防止策が取られなかったことが、後に大きな教訓として検証されています。

さらに、認定制度では『誰を公害患者として認定するか』という線引きが補償と直結しました。被害者自身が企業責任や行政判断を争い、裁判や直接交渉を通じて救済を求めなければならない場合もありました。したがって公害の歴史では、原因の発見だけでなく、被害を誰が証明し、誰が責任を負い、どの範囲を救済するかという制度上の問題を見る必要があります。

住民運動と四大公害裁判は何を変えたのか

被害者と住民は、患者団体や地域組織をつくり、調査、署名、企業との交渉、行政への要請などを行いました。救済が進まない地域では損害賠償訴訟に進み、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市公害、水俣病をめぐる裁判は、1971〜1973年に相次いで原告側勝訴へ至りました。

裁判では、企業側が『因果関係が十分証明されていない』『当時の技術では防止できなかった』などと主張するなかで、疫学的知見、企業が危険を予測できたか、複数企業の共同責任をどう考えるかなどが争点となりました。判決は、公害被害について企業に高い注意義務と損害賠償責任を求める方向を明確にしました。

重要なのは、制度転換が行政だけの判断で上から進んだのではないことです。患者・家族・住民の継続的な運動、研究者・医師の調査、報道、裁判の判断が社会的な圧力となり、企業補償や法制度の整備を促しました。

1970年の公害国会と1971年の環境庁は何を転換したのか

公害被害が全国で深刻化するなか、1967年には公害対策基本法こうがいたいさくきほんほうが制定されました。しかし当初の法律には生活環境の保全について『経済の健全な発展との調和』を図るとする、いわゆる経済調和条項が含まれていました。成長と環境保全をどう位置づけるかは、公害行政の根本的な問題でした。

1970年11〜12月の第64回臨時国会は公害国会こうがいこっかいと呼ばれ、公害対策基本法の改正を含む14本の公害関係法が制定・改正されました。経済調和条項が削除され、大気・水質・土壌などへの規制が強化され、国民の健康と生活環境をより明確に優先する方向へ法体系が組み替えられました。

さらに1971年7月1日には環境庁かんきょうちょうが発足し、各省庁に分散していた公害防止・自然保護行政を総合的に調整する体制が強化されました。1973年には公害健康被害補償法が成立し、健康被害に対する補償制度も整備されます。

この制度転換は、公害が自然に収束した結果ではありません。被害の長期化と住民運動、裁判、社会的批判によって、それまでの事後的・個別的な対応だけでは不十分だと認識された結果でした。高度成長を評価する際には、生産や所得の拡大だけでなく、その利益のために誰が健康・生活上の負担を負ったのかを同時に見る必要があります。

公害を『経済成長に伴う避けられない副作用』として自然化しません。被害拡大には企業の排出行為、規制の遅れ、行政判断、救済制度の不足が関わり、それを被害者・住民の運動と裁判が問い直しました。

Review

入試で押さえるポイント

  • 四大公害病は、水俣病・新潟水俣病(メチル水銀)、イタイイタイ病(カドミウム)、四日市ぜんそく(硫黄酸化物を中心とする大気汚染)で、原因・汚染経路は同一ではない
  • 水俣病は1956年に公式確認されたが、政府がチッソ水俣工場の排水中のメチル水銀化合物を原因とする統一見解を示したのは1968年で、認定までの時間差が被害拡大の重要な論点となる
  • 新潟水俣病は1965年に公式確認され、熊本での経験がありながら別地域で同種の工場排水によるメチル水銀被害が再発した
  • イタイイタイ病は神通川流域のカドミウム汚染、四日市ぜんそくはコンビナートの大気汚染が問題となり、1968年の政府見解や1972年四日市判決などで企業活動との因果関係・責任が明確化された
  • 四大公害裁判では1971〜1973年に原告勝訴が相次ぎ、患者・住民運動と司法判断が企業補償や公害行政の転換を促した
  • 1970年の公害国会では公害対策基本法の経済調和条項削除を含む14本の公害関係法が整備・改正され、1971年に環境庁が発足した
  • 公害を高度成長の不可避な副作用とみなさず、発生防止・規制・認定・救済の各段階で企業と行政がどのような責任を負ったかを見る

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    四大公害病は、いずれも同じ汚染物質が同じ経路で人体へ入り発生した疾病である。

  2. 問2

    公害の認定や救済が遅れた理由は、未知の疾病を科学的に解明する難しさだけであり、企業活動や行政制度の問題は関係しなかった。

  3. 問3

    患者・住民の運動や四大公害裁判の原告勝訴は、企業責任を問い、公害行政や被害救済制度の転換を促す要因となった。

  4. 問4

    1970年の公害国会では、公害対策基本法の経済調和条項が削除され、健康と生活環境をより明確に優先する方向へ法体系が改められた。

  5. 問5

    高度経済成長期の公害は経済成長に不可避の自然現象だったため、企業の排出行為や規制・救済制度の遅れを歴史的に検討する必要はない。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 熊本県水俣市で水俣病の発生が公式に確認される
  2. 工業化・都市化の進展とともに大気汚染・水質汚濁など公害が深刻化する
  3. 政府がイタイイタイ病を公害病と認定する
  4. 政府が水俣病と新潟水俣病を公害病と認定する
  5. 公害国会で公害関係法制が大幅に整備される
  6. 環境庁が発足する
  7. 四日市ぜんそく訴訟で企業側の責任を認める判決が出る

Sources

参考資料

  1. 水俣病の原因究明環境省 国立水俣病総合研究センター

    1956年公式確認から1968年政府統一見解までの原因究明、排水継続と被害拡大、新潟水俣病の経緯確認に使用。

  2. 水俣病の経験と教訓環境省

    水俣病の発生・拡大、行政対応の遅れと教訓の確認に使用。

  3. 環境・循環型社会・生物多様性白書―イタイイタイ病環境省

    神通川流域、カドミウム慢性中毒、神岡鉱業所排水と1968年厚生省見解の確認に使用。

  4. 四日市のかんきょう四日市市

    四日市公害の住民運動、1967年提訴、1972年判決と硫黄酸化物による健康被害の確認に使用。

  5. 環境白書 昭和48年版―四日市の紛争環境庁

    四日市公害訴訟判決における大気汚染と疾病の因果関係、判決後の救済制度への影響確認に使用。

  6. 環境白書―公害関係法制の整備環境庁

    1970年公害国会の14法、経済調和条項削除、規制強化の確認に使用。

  7. 環境白書 昭和48年版環境庁

    公害対策基本法、公害国会、1971年7月の環境庁発足と環境行政統合の確認に使用。