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戦国時代1600〜1605年を中心に政治・外交重要度 A

江戸幕府成立と豊臣氏の存続―家康が将軍になっても、なぜ豊臣家はすぐ滅びなかったのかえどばくふせいりつととよとみしのそんぞく いえやすがしょうぐんになってもなぜとよとみけはすぐほろびなかったのか

一言でいうと

1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、全国政治で圧倒的な優位を得ました。そして1603年には征夷大将軍となり、江戸幕府が成立します。しかし、この時点でも豊臣秀頼は大坂城におり、豊臣家は滅びていませんでした。関ヶ原後に所領は大きく縮小したものの、秀頼は高い官位を持ち、1603年には家康の孫である千姫と結婚します。さらに1605年に徳川秀忠が2代将軍となって徳川将軍職の世襲が示された一方、秀頼も右大臣へ進みました。したがって1603年を「徳川政権が成立し、豊臣政権がその日に消滅した年」と考えるのではなく、徳川氏が全国政治の主導権を固めながら、豊臣家も大坂で存続していた移行期として理解することが重要です。

関ヶ原のあと、豊臣家はどうなったのか

1600年の関ヶ原の戦いで家康側が勝利すると、西軍に参加した大名の多くが改易や減封となり、家康は大名配置を大きく組み替えました。

豊臣秀頼の所領も、秀吉時代の約220万石から、摂津・河内・和泉を中心とする約65万石へ大きく縮小します。豊臣家は全国政権を支える巨大な所領を失い、家康が全国政治の主導権を握る状況が明確になりました。

しかし、秀頼自身が関ヶ原で討たれたわけではありません。秀頼は引き続き大坂城を本拠とし、多くの家臣を抱える有力な存在として残りました。

つまり関ヶ原は、徳川家康が豊臣秀頼を倒して豊臣氏を滅ぼした戦争ではありません。豊臣政権内部の対立を経て家康が政治的優位を確立し、その一方で豊臣家そのものは存続したのです。

1603年に家康が将軍になると、何が変わったのか

1603年、徳川家康は征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任じられました。本サイトでは、この家康の将軍就任を江戸幕府成立の基準とします。

これは家康が、豊臣政権の五大老の一人という立場から、徳川氏を中心とする新しい武家政権を率いる立場へ移った重要な節目です。

ただし、1603年に将軍となっただけで、後の江戸幕府の制度がすべて完成したわけではありません。大名統制や朝廷との関係、将軍職の世襲、豊臣家との関係などは、その後も整理されていきます。

そのため、1603年は「徳川政権が成立した年」と理解しつつ、「徳川による近世政治秩序が完成した年」とまでは考えません。

家康が将軍になったのに、なぜ秀頼は残されたのか

重要なのは、征夷大将軍への就任が、豊臣秀頼を自動的に政治的存在ではなくする制度ではなかったことです。

秀頼は秀吉の後継者として大坂城におり、関ヶ原後も大きな所領と家臣団を持っていました。また、朝廷から高い官位を与えられる人物でもありました。

豊臣家を滅ぼすためには、家康が将軍に就任するだけではなく、大坂城にいる秀頼と豊臣家を実際に政治的・軍事的に排除する別の過程が必要でした。

そして1603年の段階では、徳川氏は豊臣家を直ちに武力で滅ぼすのではなく、豊臣家を存続させたまま全国政治の主導権を固めていました。

後の大坂の陣から逆算して、「家康は関ヶ原直後から豊臣家を滅ぼす計画だけを進めていた」と単純化しないことが重要です。

秀頼は本当に普通の一大名になっていたのか

関ヶ原後、秀頼の所領が約65万石まで縮小したという意味では、豊臣家の軍事的・領国的な力は大きく後退しました。

しかし、秀頼を他の大名とまったく同じ立場だったと考えるのも単純化しすぎです。

1603年、家康が征夷大将軍・右大臣となったあと、秀頼は内大臣ないだいじんに任じられました。さらに同じ年、秀頼は徳川秀忠の娘で家康の孫にあたる千姫せんひめと結婚します。

徳川氏が新たな武家政権を形成する一方で、豊臣秀頼も高い官位と大坂城を持ち、徳川家との婚姻関係まで結んでいたのです。

この時期の豊臣家は、全国政治の主導権を失ってはいましたが、政治的・社会的に無視できる存在になったわけではありませんでした。

1605年に秀忠が将軍になったことは、なぜ重要なのか

1605年、家康は征夷大将軍を辞し、子の徳川秀忠が2代将軍となりました。

家康が将軍になってからわずか2年で秀忠へ将軍職を譲ったことには、将軍職を徳川家が継承していくことを示す大きな意味がありました。

つまり、徳川政権が「家康個人の政権」ではなく、「徳川家による世襲の武家政権」へ進んでいく重要な節目です。

ただし、家康が政治から引退したわけではありません。家康は将軍職を退いたあとも大御所おおごしょとして政治に強い影響力を持ち続けました。

したがって1605年以後は、江戸の将軍秀忠と、家康自身の政治的権威が並ぶ状態も考える必要があります。

秀頼が右大臣なら、秀忠より偉かったのか

1605年には、秀忠が征夷大将軍・内大臣となる直前に、豊臣秀頼が内大臣から右大臣へ進みました。

官職だけを見ると、秀頼は非常に高い位置にいました。

しかし、朝廷から与えられる官位の高さと、全国の大名を動かす政治的・軍事的な力は同じものではありません。

この時期には、徳川氏が大名配置や全国政治を主導する一方、秀頼は高い官位と大坂城を持つという、二つの異なる力関係が同時に存在していました。

「秀頼の官位が高いから徳川より政治的に上だった」とも、「家康が将軍になったから秀頼は完全に無力だった」とも考えないことが重要です。

徳川政権と豊臣家という二つの政権が並立していたのか

二つの同格な全国政権が存在していた、と考えるのも適切ではありません。

関ヶ原後、全国の大名配置や外交など政治の主導権は明らかに家康側へ移り、1603年には徳川氏を中心とする幕府が成立しました。

その一方で、豊臣家は大坂城を本拠として存続し、秀頼も高い官位を保持していました。

つまりこの時期は、徳川氏が全国政権として優位を確立していく一方、旧統一政権の後継者である豊臣秀頼も大坂に存続している状態と考えるのが分かりやすいです。

これが1603〜1615年を単純に「もう完全な江戸時代」とも「まだ豊臣政権の時代」ともせず、徳川政権確立への移行期として見る理由です。

その後、徳川家と豊臣家の関係はどうなったのか

豊臣家は1605年以後もすぐには滅びません。

1611年には、家康と成長した秀頼が京都の二条城で会見しました。秀頼が家康のもとへ出向いて礼を行ったことからも、徳川氏の政治的優位が次第にはっきりしていったことが分かります。

ただし、この会見で秀頼を見た家康がその場で豊臣氏滅亡を決意した、というような後世の物語を確定した史実として扱う必要はありません。

重要なのは、1611年になっても豊臣家はなお存続しており、徳川家との関係が政治的な交渉や儀礼によって維持されていたことです。

この不安定な共存関係が最終的に崩れるのは、1614〜1615年の大坂の陣です。豊臣氏滅亡までの過程は、戦国時代最後のテーマとして改めて学びます。

このページで覚えたい流れ

1600年 関ヶ原の戦いで家康側勝利 → 家康が全国政治の主導権を握る → 豊臣家の所領は約65万石へ縮小するが秀頼と大坂城は存続 → 1603年 家康が征夷大将軍となり江戸幕府成立 → 同年 秀頼は内大臣となり千姫と結婚 → 徳川政権が形成される一方で豊臣家も存続 → 1605年 秀忠が2代将軍となり徳川将軍職の世襲が示される → 秀頼は右大臣となり高い官位を保つ → 家康は大御所として政治を主導 → 1611年 家康と秀頼が二条城で会見 → 徳川優位のもとでも豊臣家はなお存続 → 1614〜1615年 大坂の陣へ

Review

入試で押さえるポイント

  • 1603年、徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府が成立
  • 1603年を徳川による近世政治秩序の完成年とはしない
  • 関ヶ原後も豊臣秀頼と大坂城の豊臣家は存続
  • 関ヶ原後、豊臣家の所領は約65万石へ縮小
  • 1603年、秀頼は内大臣となり千姫と結婚
  • 1605年、徳川秀忠が2代将軍となり徳川将軍職の世襲が示される
  • 1605年、秀頼は右大臣となり高い官位を維持
  • 家康は将軍職を秀忠へ譲った後も大御所として政治に強い影響力を持つ
  • 1603年の江戸幕府成立と1615年の豊臣氏滅亡を同一視しない
  • 1603〜1615年を徳川政権確立への移行期として理解する

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理解度チェック

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    関ヶ原の戦いで家康側が勝利した時点で豊臣秀頼は討たれ、豊臣家は滅亡した。

  2. 問2

    1603年の家康の征夷大将軍就任は江戸幕府成立の基準だが、この年に後の幕府制度や近世秩序のすべてが完成したわけではない。

  3. 問3

    関ヶ原後の秀頼は他の一大名と完全に同じ立場となり、高い官位や徳川家との婚姻関係も持たなかった。

  4. 問4

    1605年に秀忠が2代将軍となったことは、将軍職を徳川家が世襲する武家政権へ進むことを示す重要な節目だった。

  5. 問5

    1611年の二条城会見で秀頼を見た家康が、その場で豊臣氏滅亡を決意したことは確定した史実である。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 関ヶ原の戦いで徳川家康側の東軍が勝利する
  2. 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
  3. 徳川秀忠が2代将軍となる

Sources

参考資料

  1. 徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯― 関係年表国立公文書館

    1603年の家康将軍就任・秀頼内大臣任官・千姫との婚姻、1605年の秀忠将軍就任、1611年の二条城会見の年代を参照。

  2. 千姫の輿入れ国立公文書館

    1603年の秀頼の官職と千姫との婚姻、1605年の秀頼右大臣・秀忠将軍就任の関係を参照。

  3. 二条城会見国立公文書館

    1611年の家康・秀頼会見と、その際の礼の経過を参照。

  4. 大阪城大阪市中央区

    関ヶ原後の豊臣家の所領縮小、大坂城と豊臣氏の存続を参照。