← 戦国時代の年表へ戻る
戦国時代1598〜1600年政治・外交重要度 A

秀吉死去から関ヶ原へ―豊臣政権の合議はなぜ徳川家康との対立へ崩れたのかひでよししきょからせきがはらへ とよとみせいけんのごうぎはなぜとくがわいえやすとのたいりつへくずれたのか

一言でいうと

1598年に豊臣秀吉が死去すると、幼い豊臣秀頼を支えるため、有力大名と奉行たちが政権運営を担いました。一般に五大老・五奉行と呼ばれる体制です。しかし、秀吉という最終的な裁定者を失ったあと、有力大名同士の力関係や奉行・大名間の対立を調整することは難しくなりました。前田利家の死後には徳川家康の政治的影響力がさらに強まり、1600年には家康と対立する勢力が毛利輝元を総大将として挙兵します。そして関ヶ原の戦いで家康側が勝利しました。ただし、これを最初から徳川家康対石田三成の二陣営が存在していた話や、関ヶ原で豊臣氏が滅亡した話として単純化しません。

秀吉が死んだあと、誰が政治を行ったのか

1598年、豊臣秀吉が死去しました。後継者の秀頼はまだ幼く、自ら政務を行える年齢ではありませんでした。

そのため徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝ら有力大名と、石田三成・増田長盛ら奉行が政務を担います。一般には五大老・五奉行ごたいろうごぶぎょうという言葉で整理されます。

ただし、五大老と五奉行を現代の二つの固定された行政機関のように理解するのは避けます。入試上必要な用語として使いつつ、秀吉死後の政権を複数の有力者が共同で運営する体制として理解します。

なぜこの体制は不安定だったのか

最大の問題は、秀吉自身が持っていた最終的な裁定権を誰が引き継ぐのかが明確ではなかったことです。

秀吉存命中は、大名同士の領土問題や人事を最終的に秀吉が決定できました。しかし秀吉の死後には、徳川家康をはじめとする有力大名が巨大な領国と軍事力を持ったまま、共同で政務を行わなければなりません。

豊臣政権は、秀頼を中心とする政権を維持する必要と、実際には自立的な大大名が政治を動かしている現実を同時に抱えていました。

徳川家康は最初から豊臣政権を倒そうとしていたのか

そこまで断定しない方が適切です。家康は秀吉の死後、豊臣政権の外にいる反乱者だったわけではなく、五大老の一人として政権運営そのものに参加していました。

その一方で家康は、婚姻や大名との関係を通じて政治的影響力を拡大していきます。

秀吉が死んだ瞬間から1603年の幕府開設までの計画が完成していたと後世の結果から逆算せず、豊臣政権内部で家康の力が次第に突出していった過程を見ます。

前田利家の死はなぜ重要だったのか

五大老の一人である前田利家は、秀吉の古くからの有力家臣で、大きな軍事力と政治的影響力を持っていました。

1599年に利家が死去すると、有力者間の力の均衡が変化し、家康の政治的影響力がさらに強まります。

ただし、利家一人が家康を完全に抑え込んでいたと単純化する必要はありません。利家の死は、すでに存在していた豊臣政権内部の緊張をさらに表面化させる大きな契機でした。

1599年の石田三成をめぐる対立をどう見るのか

1599年には、福島正則ら反三成派の武将と石田三成との対立が深刻化し、三成は政務の第一線から退きました。

従来は七将が三成を襲撃し、三成が家康の屋敷へ逃げ込んだという物語が広く知られてきましたが、事件の具体像については史料解釈の再検討があります。

そのため、このページでは有名な逸話を確定事項として置かず、反三成派との政治的対立が深まり、三成が政務から退いたという流れを中心に押さえます。

関ヶ原は家康と三成の個人的な争いだったのか

違います。石田三成は重要人物ですが、反家康側の諸大名すべてが三成個人の家臣だったわけではありません。

反家康側は五大老の毛利輝元もうりてるもとを総大将として担ぎ、宇喜多秀家・大谷吉継ら多くの大名が参加しました。一方、家康側にも福島正則や黒田長政など、もともと秀吉に仕えてきた大名が多数参加しました。

したがって関ヶ原を豊臣軍対徳川軍と単純化せず、豊臣政権内部の大名たちが家康を支持する勢力と反家康勢力へ分裂した戦争として見ます。

なぜ1600年に全国規模の戦争へ発展したのか

1600年、徳川家康は上杉景勝との対立から東国へ軍を進めました。家康が畿内を離れた間に、石田三成ら反家康勢力が挙兵します。

結果として家康の東国出兵は反家康勢力が挙兵する機会となり、諸大名がそれぞれどちらの陣営につくかを選ぶ全国規模の政局へ発展しました。

ただし、家康が三成をわざと挙兵させるため上杉攻めへ向かったという完全な罠の物語まで確定史実として説明しません。

東軍・西軍は当時からの正式名称なのか

現在は家康側を東軍、反家康側を西軍と呼ぶのが一般的です。学習上便利なため、このページでもこの呼称を使います。

ただし、合戦当時から二つの陣営が正式に東軍・西軍という名称を掲げたわけではありません。

現代の便宜的な呼称を、当時の二つの国家や政党の正式名称のように理解しないようにします。

関ヶ原の戦いでは何が起きたのか

1600年9月15日、美濃国関ヶ原で両軍が激突しました。徳川家康を中心とする側と、石田三成・宇喜多秀家ら反家康側が戦い、最終的に家康側が勝利します。

西軍側の小早川秀秋こばやかわひであきらが家康側へ転じたことは、西軍崩壊の大きな要因となりました。

ただし、戦いの途中で突然気が変わって裏切ったとだけ説明せず、開戦以前から諸大名の交渉や内応が進んでいたことを含めて理解します。

家康の問い鉄砲で小早川秀秋が寝返ったのか

有名な逸話ですが、確定した事実として扱わない方が適切です。後世の記録には、動かない小早川秀秋を促すため家康が松尾山へ鉄砲を撃たせたという話があります。

しかし、この問い鉄砲の逸話は後世に形成された物語として慎重に扱う必要があります。

このサイトでは、家康の問い鉄砲によって秀秋が寝返ったというドラマチックな説明を確定事項として本文の因果関係に置きません。

関ヶ原で勝てば徳川幕府が成立したのか

まだです。関ヶ原の勝利によって家康は全国政治で圧倒的な優位を得ましたが、この時点でも豊臣秀頼は存命で、大坂城の豊臣家も存続していました。

家康が征夷大将軍になるのは1603年です。したがって関ヶ原を豊臣氏滅亡や江戸幕府成立と同一視しません。

関ヶ原は徳川家康が全国政治の主導権を握る決定的な転換点でしたが、次には徳川政権と豊臣家が並存する段階が残っています。

このページで覚えたい流れ

1598年 秀吉死去 → 幼い秀頼を五大老・五奉行らが支える → 1599年 前田利家死去 → 有力者間の均衡が変化 → 家康の政治的影響力が強まる → 石田三成と反三成派の対立が深まる → 三成が政務の第一線を退く → 1600年 家康が上杉景勝への軍事行動へ向かう → 三成ら反家康勢力が挙兵 → 毛利輝元を総大将とする陣営が形成される → 9月15日 関ヶ原の戦い → 小早川秀秋らが家康側へ転じる → 家康側勝利 → 家康が全国政治で圧倒的優位を得る → ただし豊臣秀頼・豊臣家は存続

Review

入試で押さえるポイント

  • 1598年、豊臣秀吉が死去
  • 秀吉死後は一般に五大老・五奉行と呼ばれる有力者たちが幼い秀頼を支えて政務を担う
  • 1599年の前田利家死去後、家康の政治的影響力がさらに強まる
  • 1600年、家康の上杉攻めの間に石田三成ら反家康勢力が挙兵
  • 関ヶ原を単純な豊臣軍対徳川軍や家康対三成の個人的対立としない
  • 1600年9月15日、関ヶ原の戦いで家康側が勝利
  • 小早川秀秋らの家康側への転換が西軍崩壊の重要な要因
  • 問い鉄砲を確定史実として扱わない
  • 関ヶ原の勝利で家康は政治的優位を得たが、豊臣家はこの時点では滅亡していない

Check

理解度チェック

各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。

0 / 5 問回答

  1. 問1

    五大老・五奉行は、現代の省庁のように明確な権限分担を持つ二つの固定行政機関だった。

  2. 問2

    秀吉死後の家康は豊臣政権の外にいる反乱者ではなく、五大老の一人として政権運営に参加しながら影響力を強めた。

  3. 問3

    関ヶ原の戦いは、徳川家康と石田三成それぞれの直属家臣だけが戦った個人的な対立だった。

  4. 問4

    家康が松尾山へ問い鉄砲を撃たせたため小早川秀秋が寝返ったという話は、同時代史料で確実に確認されている。

  5. 問5

    1600年の関ヶ原で家康側が勝利しても豊臣秀頼と大坂の豊臣家は存続し、江戸幕府成立も1603年である。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 豊臣秀吉が死去する
  2. 五大老・五奉行を中心に豊臣政権の政務が担われる
  3. 関ヶ原の戦いで徳川家康側の東軍が勝利する

Sources

参考資料

  1. 家康、天下人への道国立公文書館

    秀吉死後の五大老・五奉行、前田利家死去後の政局、関ヶ原までの流れを参照。

  2. 歴史と物語 徳川家康 関ヶ原へ国立公文書館

    上杉征討と反家康勢力挙兵の経過を参照。

  3. 五大老・五奉行制に関する研究国立国会図書館サーチ

    五大老・五奉行という制度像の研究上の再検討を参照。

  4. 関ケ原の戦いとは岐阜関ケ原古戦場記念館

    東軍・西軍という呼称と関ヶ原合戦の概要を参照。