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平安時代935〜941年政治・外交重要度 A

平将門の乱と藤原純友の乱―なぜ地方の争乱が朝廷を揺るがしたのかたいらのまさかどのらんとふじわらのすみとものらん なぜちほうのそうらんがちょうていをゆるがしたのか

一言でいうと

10世紀、東国では平将門、西国では藤原純友を中心とする大規模な争乱が起こりました。二つを合わせて承平・天慶の乱と呼びます。将門の争いは坂東の一族間・地域間の紛争から拡大し、国府を攻め、『将門記』によれば939年には新皇を称する段階へ進みました。純友は伊予国の官人経験を持ち、瀬戸内海の海賊勢力と結びついて反乱を拡大し、941年には大宰府まで攻撃しました。ただし二人が共同計画を立てていたわけではありません。重要なのは、ほぼ同時期に東西で国家を揺るがす武力衝突が起こり、その鎮圧にも地方で成長した武力を持つ人々が重要な役割を果たしたことです。

なぜ10世紀に地方で大きな争いが起きたのか

前のページで、10世紀になると班田収授が行われなくなり、受領へ地方行政の権限が集中し、田堵・負名などの有力な経営者が成長したことを学びました。

同じ時期、地方では土地・租税・国衙との関係などをめぐって有力者同士が争う場面も増え、自分の権益を守るために武力を持つことが重要になります。

土地を経営し、一族や従者を組織し、武力を行使できる地方有力者の成長は、後の武士団の発達につながります。

平将門とはどんな人物だったのか

平将門たいらのまさかどは桓武天皇の子孫にあたる桓武平氏の一族で、坂東を活動の基盤としていました。

将門の乱を知る中心史料が『将門記』しょうもんきです。乱の経過だけでなく、当時の坂東の地名や社会を知る手がかりになりますが、記述をすべてそのまま事実とみなすのではなく史料の性格を考えて利用します。

資料で見る:坂東市「平将門と将門記」

935年―将門の争いは最初から朝廷への反乱だったのか

違います。935年ごろ、将門は叔父の平国香ら一族との争いに入りました。背景には一族内の権益や地域社会をめぐる対立がありました。

最初から朝廷を倒すことを目的とした戦争ではなく、坂東の有力者同士の争いが繰り返される中で、将門の軍事力と影響範囲が拡大していったと理解します。

地方紛争 → 国司・国府との対立 → 朝廷への反乱とみなされる段階へ拡大、という順序が重要です。

国府を攻撃するとはどういうことだったのか

各国には、国司が行政を行う拠点である国府こくふがありました。国府を攻撃することは、私人同士の争いを超えて、中央政府の地方行政機構を武力で攻撃することを意味します。

939年、将門は常陸国府を攻撃し、その後、下野・上野などにも勢力を広げました。ここから争いは朝廷の地方支配そのものを揺るがす段階へ進みます。

939年―将門が新皇を称する

『将門記』によれば、939年、将門は新皇しんのうを称し、坂東諸国へ自ら国司を任命するような行動を取ったとされます。

朝廷から見れば、将門は単なる地方紛争の当事者ではなく、朝廷とは別の政治秩序を作ろうとする反乱者となりました。

ただし、935年の争い開始時点から関東独立国家を作る計画を持っていたとさかのぼって考えるのは避けます。争いが拡大した結果、939年に性格が大きく変わったと見ます。

朝廷は京都から大軍を送り、将門を倒したのか

将門を最終的に破った中心人物は、平貞盛たいらのさだもりや藤原秀郷ふじわらのひでさとなど、東国で活動する武力を持った人々でした。940年、将門は彼らとの戦いで敗れて死亡します。

朝廷は地方の争乱を鎮圧するために、別の地方有力者の軍事力を利用しました。争乱の鎮圧で功績をあげた者が朝廷から評価されることは、地方武力の政治的地位が高まる一つの契機になります。

藤原純友とはどんな人物だったのか

東国で将門の争いが進むころ、西国では藤原純友ふじわらのすみともを中心とする争乱が拡大しました。純友は藤原氏の出身で、伊予掾として伊予国に関わった経歴を持ちます。

当時の瀬戸内海では海賊の活動が問題となっていました。ここでいう海賊は、海上交通や地方社会と結びついた武装勢力として捉え、現代の物語に登場する海賊とそのまま重ねないようにします。

資料で見る:愛媛県「藤原純友」関連史跡

純友は最初から海賊の首領だったのか

純友には伊予国の官人として活動した経歴があり、その後、瀬戸内海の海賊勢力と結びついて反乱の中心人物になっていきました。

生まれながらの海賊が突然朝廷へ反乱したという人物像ではなく、地方行政と海上武装勢力との関係の中から反乱へ進んだ人物として見ます。

939〜941年―純友の勢力が瀬戸内海を揺るがす

純友側の勢力は瀬戸内海各地の国府などを攻撃し、反乱を拡大しました。941年には九州へ進み、大宰府を攻撃します。

大宰府は九州統治だけでなく、東アジアとの外交・防衛にも関わる重要な行政拠点でした。そこまで攻撃されたことは、純友の乱が単なる海賊被害を超え、国家的な問題になったことを示します。

純友の乱はどう終わったのか

朝廷は小野好古おののよしふるらを追捕使として派遣しました。941年、純友側は博多湾周辺で敗北し、その後純友も死亡して反乱は終息します。

将門の乱と同じく、朝廷は現地の軍事経験を持つ人々を組織して反乱を鎮圧しました。

将門と純友は連携していたのか

連携していたと確認できるわけではありません。二つの反乱をまとめて承平・天慶の乱じょうへい・てんぎょうのらんと呼びますが、一つの統一された反乱組織だったとは考えません。

東国では土地・一族・国府をめぐる争い、西国では瀬戸内海の海賊問題と地方支配という異なる背景から、ほぼ同時期に大規模争乱が起きたことに注目します。

なぜ二つの乱が歴史上重要なのか

重要なのは、争乱の中で地方の軍事力の存在感がはっきり見えることです。将門自身も地方に軍事基盤を持ち、将門を倒した平貞盛・藤原秀郷も地方で武力を持つ有力者でした。

西国でも純友側と朝廷側の双方が地域の武装勢力を動員しています。中央政府だけが軍事力を独占する律令国家とは異なり、地方の有力者が軍事力を持ち、朝廷もその力を利用する社会へ変化していました。

この乱で武士が誕生したと考えてよいのか

そこまで単純ではありません。武力を持つ地方有力者や武装した官人は、それ以前から存在していました。935年に突然武士という職業が発明されたわけではありません。

承平・天慶の乱は、すでに進んでいた地方武装勢力の成長が大規模な政治事件としてはっきり現れた出来事と理解します。乱の後、平貞盛・藤原秀郷らの系統も地方武士として発展していきます。

このページで覚えたい流れ

10世紀、地方支配の仕組みが変化する → 地方で土地を経営し武力を持つ有力者が成長する → 935年ごろ、平将門が坂東の一族間争いに入る → 紛争が拡大する → 939年、常陸国府などを攻撃する → 『将門記』によれば新皇を称する → 940年、平貞盛・藤原秀郷らに敗れて将門が死亡する

一方、西国では藤原純友が瀬戸内海の海賊勢力と結びつく → 国府などへの攻撃が拡大する → 941年、大宰府を攻撃する → 小野好古らの追討によって鎮圧される → 東西の大規模争乱を承平・天慶の乱と呼ぶ → 地方武力の成長と、朝廷がその武力を利用する構造が明確になる → 武士団の発達へつながる。

Review

入試で押さえるポイント

  • 935〜940年、平将門の乱。主な舞台は坂東・関東
  • 平将門は桓武平氏の一族
  • 将門の乱を最初から朝廷打倒を目的とした反乱と単純化しない
  • 939年、『将門記』によれば将門が新皇を称する
  • 将門を倒した中心人物は平貞盛・藤原秀郷
  • 939〜941年、藤原純友の乱。主な舞台は瀬戸内海・西国
  • 藤原純友は伊予掾の経歴を持ち、海賊勢力と結びついた
  • 941年、大宰府が攻撃される。純友追討では小野好古らが活躍する
  • 二つを合わせて承平・天慶の乱と呼ぶが、共同計画を立てた一つの反乱とは考えない
  • 承平・天慶の乱で武士が突然誕生したのではなく、地方武装勢力の成長が大規模事件として現れたと理解する

Check

理解度チェック

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    平将門は935年ごろの争い開始時点から、朝廷を倒して関東に独立国家を作る計画を進めていた。

  2. 問2

    将門が国府を攻撃したことは、私人同士の争いを超えて中央政府の地方行政機構を武力で攻撃する段階へ進んだことを意味する。

  3. 問3

    将門の鎮圧では、平貞盛や藤原秀郷など東国で武力を持つ有力者が中心的役割を果たし、朝廷も地方の軍事力を利用した。

  4. 問4

    平将門と藤原純友は、東西で同時に朝廷を攻撃する共同計画を立て、一つの統一組織として反乱した。

  5. 問5

    承平・天慶の乱によって、それまで存在しなかった武士という存在が935年に突然誕生した。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 平将門の乱が起こる
  2. 藤原純友の乱が起こる
  3. 武士団が成長する
  4. 受領を中心とする地方支配が進む

Sources

参考資料

  1. 平将門と将門記坂東市

    平将門と『将門記』、坂東での乱の展開について参照。

  2. 愛媛のたから 藤原純友関連史跡愛媛県

    伊予・瀬戸内海における藤原純友と海賊勢力について参照。

  3. 松山の歴史 平安時代松山市

    藤原純友の活動と伊予・日振島をめぐる経過について参照。

  4. 小野好古と藤原純友の乱に関するレファレンス国立国会図書館 レファレンス協同データベース

    941年の純友追討と小野好古について参照。