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縄文時代縄文時代早期末〜前期を中心に社会・経済重要度 A

縄文海進と貝塚じょうもんかいしんとかいづか

一言でいうと

縄文時代には、温暖化にともなう海面上昇によって海岸線が大きく変化した地域があり、人々は海・川・干潟などの水辺の資源も利用して暮らしました。各地につくられた貝塚は、こうした縄文時代の食生活や自然環境、ムラの生活を知る重要な資料となっています。

温暖化と縄文海進

最終氷期が終わって気候が温暖になると、陸上にあった氷がとけるなどして海面が上昇していきました。

縄文時代早期末から前期ごろには、海面が高くなり、現在よりも海が内陸まで入り込んだ地域がありました。この現象を縄文海進じょうもんかいしんと呼びます。

地域や研究によって年代の幅はありますが、縄文海進が大きく進んだ時期は、およそ7,000〜6,000年前ごろとされています。特に関東地方などでは、現在は陸地となっている場所のかなり奥まで海が入り込み、入り江や干潟などが広がっていました。

ただし、日本列島すべてで海岸線が同じように変化したわけではありません。地形や地域によって、海の入り込み方や水辺の環境には違いがありました。

海や川の資源を利用する

縄文時代の人々は、シカやイノシシなどの狩猟、木の実などの採集に加えて、魚や貝などの水産資源も利用していました。

海辺や河口、川や湖など、それぞれの地域にある環境に応じて、さまざまな魚介類が食料となりました。魚をとるための釣り針や、網に使われたと考えられる道具なども遺跡から見つかっています。

こうした水産資源の利用は、縄文時代になって突然始まったものではありません。旧石器時代にも魚介類の利用は確認されています。

縄文時代には、定住性の高いムラでの生活が広がるなかで、狩猟・採集・漁労ぎょろうを組み合わせ、その土地で利用できるさまざまな資源を活用する生活が営まれました。

「縄文海進が起きたから漁労が発達した」と単純に考えないことが重要です。自然環境の変化だけで人々の生活が決まったのではなく、それぞれの地域で利用できる資源や技術などが関係しながら、多様な生活が形成されました。

貝塚とは何か

縄文時代の遺跡を代表するものの一つが貝塚かいづかです。

貝塚には、人々が食料として利用した貝の殻をはじめ、魚や動物の骨、土器や石器などがまとまって残っています。

そのため、貝塚を調べることで、どのような貝・魚・動物を利用したのか、どのような道具を使ったのか、周囲にどのような自然環境があったのかなどを知ることができます。

貝殻に含まれるカルシウムによって土壌の酸性が弱まり、通常は残りにくい魚や動物の骨、人骨などが保存されている場合があることも、貝塚の大きな特徴です。

貝塚は単なる「ごみ捨て場」ではない

貝塚には食べ終わった貝殻などが大量に残っているため、「縄文時代のごみ捨て場」と説明されることがあります。

しかし、それだけで貝塚の性格を説明することはできません。貝塚やその周辺からは、竪穴住居跡や墓、人骨などが見つかることがあり、犬が埋葬された例もあります。

貝塚は人々が生活するムラと深く結びついた場所であり、食料の残りを捨てる場所として利用されただけでなく、地域や時期によってさまざまな役割をもっていたと考えられています。

すべての貝塚を一つの用途で説明せず、「縄文時代の生活を読み取ることのできる遺跡」と理解するとよいでしょう。

加曽利貝塚から見る縄文時代の生活

代表的な貝塚の一つが、現在の千葉市にある加曽利貝塚かそりかいづかです。

加曽利貝塚は、縄文時代中期から晩期にかけて長期間にわたってムラが営まれた、大規模な貝塚を伴う集落遺跡です。

貝塚からは貝殻だけでなく、魚や動物の骨、土器・石器、人骨など、さまざまな資料が見つかっています。これらの資料から、東京湾周辺で暮らした人々の食生活や道具、ムラの生活を考えることができます。

加曽利貝塚は大規模な貝塚を理解する代表例ですが、その姿を縄文時代の日本列島全体にそのまま当てはめることはできません。縄文時代の生活は地域によって大きく異なっていました。

画像で見る:千葉市立加曽利貝塚博物館「野外展示」

貝塚から過去の環境も分かる

貝塚は、人々の生活だけでなく、当時の自然環境を復元する手がかりにもなります。

貝には、海水にすむ種類、淡水にすむ種類、海水と淡水が混じる汽水域きすいいきにすむ種類などがあります。

そのため、どの種類の貝が出土するかを調べることで、その場所の近くに海や干潟、河口など、どのような環境があったのかを考えることができます。

現在では海から離れた場所に貝塚が残っていることも、当時の海岸線が現在とは異なっていたことを考える手がかりになります。

このように貝塚は、「人々が何を利用して暮らしたか」と「そのころ周囲がどのような環境だったか」の両方を知ることのできる重要な考古資料です。

その後―多様な縄文社会へ

縄文時代が進むと、各地でムラが発達し、地域によっては大規模な集落も営まれるようになります。

人々は周囲の自然から食料を得るだけでなく、黒曜石やヒスイなどを遠く離れた地域と交換し、広い範囲で交流しました。

一方、気候や海岸線、利用できる資源などは地域によって異なります。そのため、縄文時代を一つの均質な社会として見るのではなく、それぞれの地域の環境に適応した多様な社会が長い時間をかけて展開したと考えることが重要です。

次に大規模なムラや遠距離交易を見ることで、縄文時代の社会のつながりをさらに具体的に理解できます。

このページで覚えたい流れ

温暖化と海面上昇 → 海岸線や水辺の環境が変化する → 海・川・森林などの多様な資源を利用する → 各地に貝塚が形成される → 貝塚から縄文時代の生活と自然環境を読み取る

ただし、縄文海進だけを原因として人々の生活が変化したわけではありません。また、海進や貝塚の形成、漁労のあり方には大きな地域差があり、日本列島全体で同じ変化が一斉に起きたわけではありません。

Review

入試で押さえるポイント

  • 縄文時代早期末〜前期には海面上昇が進み、現在より海が内陸まで入り込んだ地域があった。この現象を縄文海進じょうもんかいしんという
  • 縄文海進が大きく進んだ時期は、およそ7,000〜6,000年前ごろとされる
  • 縄文時代には、狩猟・採集・漁労を組み合わせた多角的な生業が営まれた
  • 貝塚からは貝殻だけでなく、魚・動物の骨、土器・石器、人骨などが見つかり、食生活・自然環境・ムラの生活を知ることができる
  • 縄文海進や貝塚の形成を全国一律の変化として捉えず、地域差が大きかったことを押さえる

Check

理解度チェック

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    縄文海進による海岸線の変化は、日本列島のどこでも同じではなく、地形や地域によって違いがあった。

  2. 問2

    縄文時代の漁労は、縄文海進によって初めて始まった。

  3. 問3

    縄文時代の貝塚は、食べ終えた貝殻だけを捨てた場所であり、食生活以外の情報を得ることはできない。

  4. 問4

    加曽利貝塚のような大規模な貝塚を伴う集落は、縄文時代の日本列島全体に共通する標準的なムラの姿だった。

  5. 問5

    縄文時代の生活の多様性を理解するには、自然環境だけでなく、各地域で利用できる資源や技術なども考える必要がある。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 温暖化と縄文海進が進む
  2. 貝塚が各地に形成される
  3. 狩猟・採集・漁労を組み合わせた生活が営まれる
  4. 定住化が進み、ムラが形成される

Sources

参考資料

  1. 第1展示室国立歴史民俗博物館

    縄文時代の環境変化、生業、定住生活の通史的位置づけを確認。

  2. 縄文海進について横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター

    縄文時代前期ごろの温暖化・海面上昇と、横浜市域での海岸線の変化を確認。

  3. 博物館について千葉市立加曽利貝塚博物館

    加曽利貝塚の規模、貝殻による骨類の保存、出土資料と縄文時代のムラの生活を確認。

  4. 加曽利貝塚千葉市

    貝塚から見つかる道具・人骨・埋葬された犬など、貝塚の多面的な性格を確認。