環状集落と火焔型土器から見る縄文時代中期
一言でいうと
縄文時代中期には、東日本の一部で中央の広場を囲むように建物を配置した環状集落が発達し、信濃川流域では火焔型土器のような地域色の強い土器もつくられました。集落の形と土器の違いを見ることで、縄文時代の人々が長期間ムラを営みながら、地域ごとに特色ある社会や文化を形成していたことが分かります。
縄文時代中期には、さまざまなムラが発達した
これまで三内丸山遺跡から、縄文時代前期〜中期には大規模なムラが存在したことを学びました。
しかし、縄文時代のムラがすべて三内丸山遺跡と同じ形だったわけではありません。
縄文時代中期には、関東・甲信越などを中心に、住居などが中央部を囲むように配置された環状集落も各地で見られます。
東京都の下野谷遺跡や山梨県の梅之木遺跡などは、その代表例です。
「縄文時代中期になると全国のムラが環状集落になった」と考えてはいけません。縄文時代の集落には大きな地域差・時期差があり、環状集落はその一つの形です。
環状集落―中央を囲むように暮らす
環状集落では、竪穴建物などが中央部を取り囲むように配置される例があります。
山梨県北杜市の梅之木遺跡では、中央に南北約60メートル、東西約20メートルの楕円形の広場があり、その周囲に多数の竪穴建物跡が分布しています。
遺跡では約150棟の竪穴建物跡が確認されていますが、これらすべてが同時に存在したわけではありません。長期間にわたって建て替えられた建物が重なって残っています。
東京都西東京市の下野谷遺跡でも、中央部の墓と考えられる土坑群を囲むように竪穴建物群が配置された大規模な環状集落が確認されています。
このような配置から、縄文時代のムラでは単に家が集まっていただけでなく、住む場所や墓などを一定のまとまりの中に配置しながら、長期間にわたって集団生活を続けていたことが分かります。
資料で見る:文化遺産オンライン「梅之木遺跡」
地域によって異なる土器文化が発達する
縄文時代中期のもう一つの特徴が、多様な縄文土器です。
縄文土器は縄文時代を通じて同じ形だったわけではありません。時期や地域によって形や文様が異なり、考古学ではその違いが年代や地域間交流を考える重要な手がかりになります。
その中でも特に有名なのが、新潟県の信濃川流域を中心に発達した火焔型土器です。
火焔型土器は縄文時代中期の中ごろに現在の新潟県域で栄えた土器様式で、大きく張り出した立体的な突起や複雑な文様を特徴とします。
火焔型土器は縄文土器すべての姿ではない
大きく張り出した突起と複雑な装飾をもつ火焔型土器は、縄文土器を代表する資料としてよく紹介されます。
しかし、その姿を「縄文時代の土器はすべてこのような形だった」と考えてはいけません。
火焔型土器は主に現在の新潟県域、とくに信濃川流域で発達した地域性の強い土器です。同じ縄文時代中期でも、関東・東北・中部高地などでは異なる特徴をもつ土器がつくられていました。
火焔型土器の存在そのものが、縄文文化には地域ごとの違いがあったことを示す分かりやすい例です。
新潟県十日町市の笹山遺跡から出土した火焔型土器を含む深鉢形土器57点などは、1999年に国宝に指定されました。縄文土器として初めて国宝に指定された資料です。
画像で見る:十日町市博物館「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」
あれほど装飾された土器を何に使ったのか
火焔型土器を見ると、「特別な祭りだけに使った土器なのではないか」と考えたくなります。
しかし、用途を見た目だけで決めることはできません。
火焔型土器の中には、内側に食物を煮た際についたと考えられる焦げが残るものがあります。そのため、少なくとも一部が実際の煮炊きに使われていたことは確かです。
儀礼に使われた可能性も考えられますが、それを直接示す証拠は十分ではありません。
装飾が派手だから「祭祀専用」と決めつけず、出土状況や使用痕跡から分かることと、まだ分からないことを区別することが重要です。
土器から地域どうしの関係も見える
土器の形や文様は、それぞれの地域だけで完全に独立して生まれたわけでもありません。
新潟県の野首遺跡では、火焔型土器とともに、中部高地・関東・東北・北陸など周辺地域の影響を受けた土器も見つかっています。
こうした資料から、地域ごとに特色ある文化をもちながら、周囲の地域とも交流していたことが分かります。
これは、前のページで学んだ黒曜石やヒスイの遠距離交易ともつながります。物資だけでなく、土器のつくり方や文様などの文化的な情報も、人々の交流を通して伝わったと考えることができます。
環状集落と火焔型土器から何が分かるのか
環状集落と火焔型土器は、一見すると別々の話に見えます。
しかし、どちらも縄文時代中期の社会を理解する重要な資料です。
環状集落からは、人々が一定の場所で長期間共同生活を続け、ムラの内部を一定のまとまりとして使っていたことが分かります。
火焔型土器からは、そうした人々が単に生活するだけでなく、地域ごとに特徴のある土器文化をつくりながら、他地域とも関係を結んでいたことが分かります。
ただし、これは縄文時代中期の日本列島全体に共通する一つの社会像ではありません。集落の形も土器文化も地域によって大きく異なりました。
その後―ムラの姿も変化していく
縄文時代中期の集落や文化は、そのまま同じ形で続いたわけではありません。
中期末から後期になると、それまでの大規模な拠点集落が減少し、集落が分散する地域も見られるようになります。
さらに後期には、環状列石など大規模な墓・祭祀に関係する施設も発達していきます。
縄文社会は1万年以上にわたって同じ姿を保ったのではなく、ムラの形や地域社会のあり方も変化していったのです。
このページで覚えたい流れ
定住生活が続く → 中期には一部地域で環状集落などのムラが発達する → 地域ごとに特徴的な土器文化が形成される → 信濃川流域では火焔型土器が発達する → 地域独自の文化をもちながら他地域とも交流する
環状集落も火焔型土器も、日本列島全体の標準像ではありません。
「縄文時代には地域差があり、その地域差そのものが縄文文化の特徴である」ことを押さえるのが重要です。
Review
入試で押さえるポイント
- 縄文時代中期には、関東・甲信越などで環状集落が見られる
- 環状集落では中央部を囲むように竪穴建物などが配置される例がある
- 火焔型土器は縄文時代中期、新潟県の信濃川流域を中心に発達した特徴的な縄文土器
- 火焔型土器を縄文土器全体の標準的な形と考えない
- 火焔型土器には煮炊きに使われた痕跡があり、装飾が豊かだからといって祭祀専用とは断定できない
- 集落や土器には地域差があり、同時に周辺地域との交流もあった
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- 問1
縄文時代中期になると、日本列島のムラは全国的に環状集落へ統一された。
環状集落は関東・甲信越などで見られる集落形態の一つです。縄文時代の集落には大きな地域差・時期差があり、全国一律の形ではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問2
梅之木遺跡で確認された約150棟の竪穴建物跡は、すべて同じ時期に存在した建物ではなく、長期間の建て替えが重なった結果である。
梅之木遺跡の多数の竪穴建物跡は、長期間にわたる建て替えによって重なって残ったものです。建物跡の総数を同時居住人口へそのまま置き換えることはできません。
本文の該当箇所を確認する - 問3
火焔型土器の形は、縄文時代中期の日本列島全体に共通する標準的な縄文土器の姿だった。
火焔型土器は主に現在の新潟県域、とくに信濃川流域で発達した地域性の強い土器です。同時期にも地域ごとに異なる土器文化がありました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
火焔型土器は装飾が複雑なため、祭祀専用であり煮炊きには使われなかったと断定できる。
火焔型土器の中には、食物を煮た際についたと考えられる焦げが残るものがあります。儀礼利用の可能性はありますが、装飾だけを根拠に祭祀専用とは断定できません。
本文の該当箇所を確認する - 問5
縄文時代中期の土器には地域ごとの特色がある一方、周辺地域の影響を受けた資料もあり、地域性と交流の両方を考えることができる。
野首遺跡では火焔型土器とともに周辺地域の影響を受けた土器も見つかっています。地域独自の文化と地域間交流は両立していました。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 縄文時代と火焔型土器のクニ十日町市博物館
火焔型土器の年代・地域性・特徴・用途と、縄文時代中期の信濃川流域の文化を確認。
- 新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器十日町市博物館
笹山遺跡出土の火焔型土器を含む国宝資料と、1999年の国宝指定を確認。
- 野首遺跡出土品1,431点十日町市博物館
火焔型土器と、中部高地・関東・東北・北陸など周辺地域の土器文化との関係を確認。
- 梅之木遺跡文化庁 文化遺産オンライン
縄文時代中期の環状集落、中央広場、多数の竪穴建物跡を確認。
- 下野谷遺跡文化庁 文化遺産オンライン
縄文時代中期の大規模環状集落と、中央部の土坑群・竪穴建物群の配置を確認。