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平安時代995〜1068年ごろ政治・外交重要度 A

藤原道長・頼通と摂関政治の最盛期―外戚関係はどう権力を支えたのかふじわらのみちながよりみちとせっかんせいじのさいせいき がいせきかんけいはどうけんりょくをささえたのか

一言でいうと

10世紀後半に定着した摂関政治は、藤原道長・頼通の時代に最盛期を迎えました。ただし、道長が最初から関白として朝廷を支配したわけではありません。995年に内覧となった道長は、左大臣などの立場から一条天皇の政治に深く関わり、娘たちを天皇家へ入内させました。娘の彰子が産んだ皇子が後一条天皇として即位すると、道長は外祖父となり、1016年に摂政となります。道長自身は関白にはなっていません。1017年には息子の頼通が摂政となり、その後長く摂政・関白を務めました。摂関政治の最盛期は、摂政・関白という官職だけでなく、婚姻・外戚関係、内覧や大臣としての地位が組み合わさって成り立った政治として理解します。

995年―なぜ道長が政治の中心へ進んだのか

藤原道長ふじわらのみちながは、前のページで学んだ藤原兼家の子です。しかし、兼家の死後に最初から道長が後継者となったわけではありません。兄の藤原道隆が関白となり、その子の藤原伊周ふじわらのこれちかも有力な立場にありました。

995年、道隆が亡くなり、その弟の藤原道兼も関白となった直後に亡くなります。藤原北家の最高位の人物が相次いで死去し、道長と甥の伊周が政治の中心を争う状況になりました。

このとき道長を支持した重要人物の一人が、一条天皇の母で道長の姉でもある藤原詮子ふじわらのせんしです。995年、道長は内覧となり、政治の中枢へ進みました。翌996年には長徳の変で伊周・隆家兄弟が処分され、結果として道長の政治的優位が強まります。

内覧とは何なのか―道長は関白ではなかった

道長の日記は『御堂関白記』みどうかんぱくきと呼ばれます。そのため『道長=関白』と覚えやすいのですが、道長自身は関白にはなっていません。

995年に道長が得た重要な地位が内覧ないらんです。内覧は、天皇へ奏上される文書などをあらかじめ見ることができる政治上重要な権限でした。道長はさらに左大臣として太政官の運営にも深く関わります。

したがって、摂関政治の最高権力者だから必ず関白だった、と考えないことが重要です。摂政・関白だけでなく、内覧、大臣としての地位、天皇との関係を合わせて見ます。

なぜ道長は娘を天皇家へ入れたのか

道長の権力を支えた重要な仕組みが、天皇家との婚姻と外戚関係です。999年、道長は娘の藤原彰子ふじわらのしょうしを一条天皇のもとへ入内させ、1000年には中宮としました。

重要なのは、娘が天皇の后になること自体だけではありません。彰子が皇子を産み、その皇子が天皇となれば、道長は天皇の母方の祖父である外祖父となり、幼い天皇の後見者として強い政治的立場を得ることができます。

1008年、彰子は敦成親王を産みました。敦成親王がのちの後一条天皇です。ここに、藤原氏の娘を入内させる → 皇子が生まれる → 皇子が天皇となる → 外祖父として補佐する、という摂関政治の仕組みがはっきり現れます。

一条天皇は道長の操り人形だったのか

摂関政治を『藤原氏が天皇を操った政治』とだけ説明すると、実態を単純化しすぎます。

一条天皇自身も政治判断を行い、道長は天皇と協調しながら朝廷の政務や儀式を運営しました。天皇と摂関家の関係には協力もあれば緊張もあり、常に摂関側の命令だけで政治が動いたわけではありません。

道長の政治力が非常に強かったことと、天皇に政治的意思がなかったことは同じではありません。摂関政治は、天皇と母方の有力親族である摂関家が関係を結びながら朝廷を運営する政治として捉えます。

1016年―道長が摂政となる

1016年、彰子が産んだ敦成親王が後一条天皇ごいちじょうてんのうとして即位しました。道長は後一条天皇の外祖父です。

ここで道長は摂政となります。995年に内覧として政治の中心へ進んでから約20年を経て、道長は自分の娘が産んだ幼い天皇を外祖父として補佐する立場になりました。

藤原氏の娘が皇子を産み、その皇子が即位し、外祖父が摂政として補佐するという摂関政治の構造が、道長の時代には非常に分かりやすい形で現れました。

1017年―頼通へ地位が受け継がれる

道長は摂政の地位に長く留まらず、1017年には息子の藤原頼通ふじわらのよりみちが摂政となりました。道長の政治的影響力が直ちになくなったわけではありませんが、摂関家の中心的地位は次世代へ継承されます。

頼通はその後、摂政から関白となり、長期間にわたって朝廷政治の中心にいました。道長個人の強い権力が一代限りで終わらず、家として摂関の地位が継承された点が、摂関政治の最盛期を考えるうえで重要です。

一方で、頼通は自分の娘から天皇となる男子を得ることができず、道長の時代ほど強い外祖父関係を再現できませんでした。このことは、摂関政治が官職だけではなく皇位継承と婚姻関係に大きく支えられていたことを示します。

1053年―平等院鳳凰堂に見る頼通の時代

頼通の時代の摂関家の繁栄を象徴する建築の一つが、宇治の平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどうです。頼通は1052年に父・道長から受け継いだ別業を寺院の平等院とし、1053年に阿弥陀堂、現在の鳳凰堂を建立しました。

鳳凰堂は阿弥陀如来を本尊とし、西方極楽浄土を表現した建築として知られます。政治史では頼通期の摂関家の繁栄を示す遺構として押さえ、浄土信仰との関係は別の文化史テーマで詳しく学びます。

資料で見る:平等院「建築」

『御堂関白記』から何が分かるのか

道長自身が書いた『御堂関白記』の自筆部分が現在まで伝わっています。政治や宮廷儀礼、家族、信仰など、平安貴族社会を知る重要な史料です。

自筆日記が残ることで、後世の物語だけではなく、道長自身が記した同時代の記録から政治や生活を考えることができます。『御堂関白記』は2013年にユネスコ『世界の記憶』へ登録されました。

ここでも名称に注意します。『御堂関白記』という後世の呼び名だからといって、道長本人が関白だったことにはなりません。

1068年―なぜ摂関政治の最盛期が終わっていくのか

1068年、後三条天皇ごさんじょうてんのうが即位しました。後三条天皇は、当時の摂関家を母方の外戚としていない天皇でした。

摂関政治では、天皇の母方の親族であることが摂関家の政治力を支える重要な条件でした。後三条天皇はその関係に依存せず政治を行える立場にあり、1068年は摂関家中心の政治が転換期を迎える重要な節目となります。

ただし、1068年に摂政・関白という制度や藤原摂関家が消滅したわけではありません。その後も摂関家は有力貴族として存続します。変化したのは、摂関家が外戚関係を背景に朝廷政治の中心を占める構造です。この変化は後三条天皇の政治、さらに白河上皇の院政へつながっていきます。

このページで覚えたい流れ

969年安和の変以後、摂関政治が定着する → 藤原兼家の系統が摂関家の中心となる → 995年、兄たちの死後に藤原道長が内覧となる → 996年、長徳の変で伊周らが失脚し、道長の優位が強まる → 999年、娘の彰子が一条天皇に入内する → 彰子が敦成親王を産む → 1016年、敦成親王が後一条天皇として即位し、外祖父の道長が摂政となる → 1017年、息子の頼通が摂政となる → 頼通が長期間にわたり摂政・関白を務める → 1053年、平等院鳳凰堂が建立される → 1068年、摂関家を母方の外戚としない後三条天皇が即位する → 摂関政治の最盛期から次の政治段階へ移る

道長は関白ではなく、995年に内覧、1016年に摂政となったことを区別します。摂関政治の力は、摂政・関白の肩書きだけでなく、婚姻・外戚関係、皇位継承、大臣・内覧としての地位が組み合わさって生まれました。

Review

入試で押さえるポイント

  • 995年、藤原道長が内覧となる
  • 道長は関白ではない。995年に内覧、1016年に摂政となる
  • 道長は娘・彰子を一条天皇に入内させ、彰子が産んだ後一条天皇の外祖父となる
  • 1016年、藤原道長が摂政となる
  • 1017年、藤原頼通が摂政となり、のち長く摂政・関白を務める
  • 1053年、藤原頼通が平等院鳳凰堂を建立する
  • 1068年、摂関家を母方の外戚としない後三条天皇が即位し、摂関政治は転換期を迎える
  • 1068年に摂政・関白や藤原摂関家が消滅したわけではない
  • 摂関政治は、婚姻・外戚関係、皇位継承、摂政・関白、内覧・大臣の地位を組み合わせて理解する

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理解度チェック

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    藤原道長は995年に関白となり、その地位から一条天皇の政治を主導した。

  2. 問2

    道長が娘の彰子を一条天皇に入内させたことは、彰子の皇子が即位した場合に道長が外祖父として強い政治的立場を得ることにつながった。

  3. 問3

    一条天皇には政治的意思がなく、朝廷政治は常に道長の命令だけで動いていた。

  4. 問4

    1017年に頼通が摂政となったことは、道長個人の権力だけでなく、摂関家として政治的地位が次世代へ継承されたことを示す。

  5. 問5

    1068年に後三条天皇が即位すると、摂政・関白の制度と藤原摂関家は直ちに消滅した。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 藤原道長が内覧となる
  2. 藤原道長が摂政となる
  3. 藤原頼通が摂政となる
  4. 摂関政治が定着する
  5. 平等院鳳凰堂が建立される
  6. 後三条天皇が即位する

Sources

参考資料

  1. 皇位継承と藤原氏―摂政・関白はなぜ必要だったのか国立国会図書館 NDLサーチ

    摂政・関白と皇位継承、外戚関係をめぐる政治構造について参照。

  2. 特別展覧会『藤原道長―極めた栄華・願った浄土―』を観て京都国立博物館

    藤原道長、『御堂関白記』、道長期の政治と信仰について参照。

  3. 『世界の記憶』文部科学省

    『御堂関白記』のユネスコ『世界の記憶』登録について参照。

  4. 建築世界遺産平等院

    1053年の藤原頼通による鳳凰堂建立と建築の性格について参照。

  5. 後三条天皇国立国会図書館 NDLサーチ

    摂関家を外戚としない後三条天皇と摂関政治からの転換について参照。