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平安時代1180〜1192年を中心に平安末〜鎌倉初期政治・外交重要度 A

1185年の守護・地頭―鎌倉幕府はいつ成立したのかせんひゃくはちじゅうごねんのしゅごじとう かまくらばくふはいつせいりつしたのか

一言でいうと

鎌倉幕府は、ある一日に突然完成した政府ではありません。1180年に源頼朝が鎌倉を本拠として東国武士を組織し始め、1183年には朝廷から東国支配を認められ、1185年には守護・地頭の設置につながる権限を獲得して支配を全国へ広げました。そして1189年の奥州藤原氏滅亡を経て、1192年に頼朝は征夷大将軍となります。このサイトでは平安時代と鎌倉時代の区切りを1185年に置きますが、1180→1183→1185→1192という段階的な武家政権形成として理解します。

壇ノ浦で平氏が滅亡すれば幕府は完成したのか

完成したとは言い切れません。1185年3月の壇ノ浦の戦いで、頼朝に対抗する最大の政治・軍事勢力だった平氏は滅亡しました。

しかし、平氏を倒したことと、頼朝が全国を支配する制度を持つことは別の問題です。頼朝は東国では多数の武士を御家人として組織していましたが、西国を含む全国各地には朝廷・国司・荘園領主など既存の支配者がいました。平氏滅亡後の課題は、頼朝の支配を東国から全国へどう広げるかでした。

1185年までに頼朝は何を作っていたのか

頼朝の政権形成は1185年から始まったわけではありません。1180年に鎌倉へ入ると、東国武士との主従関係を形成し、御家人を統制する侍所さむらいどころを置きました。

1183年には寿永二年十月宣旨じゅえいにねんじゅうがつせんじによって朝廷から東国支配を認められ、1184年には政務を担当する公文所や訴訟を扱う問注所も置かれました。1185年以前に、東国武士との主従関係・鎌倉という本拠・統治機構・朝廷による東国支配の承認が形成されていたのです。

平氏滅亡後、なぜ義経と頼朝が対立したのか

平氏追討で大きな軍功を立てた源義経と頼朝の関係は1185年に悪化しました。義経が頼朝の統制を受けずに朝廷から官職を受けたことなどをめぐり、頼朝は義経を警戒します。

義経が頼朝に対抗しようとすると、頼朝は義経・源行家らの追討を理由に全国的な軍事権限を朝廷へ求めます。この交渉で京都へ派遣されたのが北条時政ほうじょうときまさです。

1185年―朝廷は頼朝に何を認めたのか

1185年11月、頼朝は逃亡した義経・源行家らを追捕するための権限を朝廷へ要求しました。大学受験では、このとき後白河法皇が頼朝に守護・地頭しゅごじとうを置く権限を認めたと整理します。

ただし、1185年の措置の具体的な制度内容や設置範囲については研究上議論があります。現在イメージする完成形の守護・地頭が全国すべてへ一斉配置されたと単純化せず、朝廷の承認を得て頼朝が御家人を通じた軍事・土地支配を東国の外へ広げる重要な根拠を得たと理解します。

守護とは何をする役職なのか

守護は基本的に一国を単位として置かれる幕府側の軍事的な役職です。後の鎌倉幕府では京都大番役の催促、謀反人・殺害人の逮捕などが重要な職務となり、後に大犯三箇条たいぼんさんかじょうとして整理されます。

守護は現代の県知事のように地方行政すべてを行う役職ではありません。朝廷側の国司も存続しており、同じ国に国司と幕府側の守護が存在する構造になります。

地頭とは何をする役職なのか

地頭は荘園や公領などの土地に置かれ、現地で土地管理や年貢徴収などへ関わる幕府側の役職です。多くの場合、頼朝と主従関係を結ぶ御家人が地頭に任じられていきます。

地頭が荘園そのものを所有したわけではありません。荘園には京都の貴族・寺社などの荘園領主が存在し、公領には国司など従来の支配組織があります。そこへ幕府側の地頭が加わるため、複数の権利関係が重なりました。

守護と地頭は何が違うのか

学習上は、守護=国ごとの軍事・警察、地頭=荘園・公領での土地管理・年貢徴収、と整理すると分かりやすいです。

ただし実際の制度は1185年にこの完成形で固定されたわけではありません。守護の前身となる惣追捕使などの制度があり、地頭にも成立過程や種類があります。まず基本的な役割の違いを押さえ、そのうえで制度が段階的に整ったことを理解します。

なぜ守護・地頭が頼朝の力になったのか

重要なのは、頼朝と主従関係を結ぶ御家人を各地の軍事・土地支配へ送り込めるようになったことです。頼朝は御家人に、既に持つ土地の権利を認める本領安堵ほんりょうあんどや、新たな土地・地位を与える新恩給与しんおんきゅうよを行いました。

その代わり御家人は軍役などを負担します。これが後に御恩と奉公ごおんとほうこうと整理される将軍と御家人の主従関係です。守護・地頭は、この主従関係を全国の土地・軍事支配へつなげる重要な仕組みとなりました。

朝廷はなくなったのか

なくなりません。頼朝が守護・地頭を設置しても、天皇・上皇・朝廷・公家・国司・荘園領主など従来の政治・土地支配の仕組みは存続しました。

頼朝は朝廷を滅ぼして日本を完全に置き換えたのではなく、鎌倉に武士を中心とする新たな政治権力を成立させました。京都の朝廷と鎌倉の武家政権が並存する構造が、中世日本の政治を理解する大きなポイントです。

では1185年が『幕府成立年』なのか

1185年は一つの有力な区切りです。この年には平氏が滅亡し、頼朝は守護・地頭の設置につながる全国的権限を獲得しました。それまで東国中心だった支配が全国規模へ広がる重要な制度的根拠を得たためです。

このサイトでも通史上の区切りとして1185年を平安時代の終点・鎌倉時代の開始点とします。ただし、鎌倉幕府がある一日に完成したという意味ではなく、幕府形成をどの段階で成立とみなすかによって複数の年が候補になります。

1180・1183・1185・1192年はそれぞれ何を意味するのか

1180年は頼朝が鎌倉を本拠化し侍所を置いて東国武士政権を形成し始めた年、1183年は寿永二年十月宣旨によって朝廷が頼朝の東国支配を認めた年です。

1185年は平氏滅亡と全国的な守護・地頭設置につながる権限獲得、1189年は奥州藤原氏滅亡、1192年は頼朝が征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任じられた年です。1192年に頼朝が初めて政治を始めたわけではありません。

このページで覚えたい流れ

1180年、頼朝が鎌倉を本拠とする → 東国武士を御家人として組織する → 侍所を設置する → 1183年、寿永二年十月宣旨 → 朝廷が頼朝の東国支配を認める → 1184年、公文所・問注所などを整える → 1185年、壇ノ浦で平氏滅亡 → 頼朝と義経が対立する → 義経追討を理由に頼朝が全国的な軍事支配権を要求する → 1185年、朝廷が守護・地頭設置につながる権限を認める → 御家人が各地の軍事・土地支配へ進出する → 京都の朝廷と鎌倉の武家政権が並存する → 1189年、奥州藤原氏滅亡 → 1192年、頼朝が征夷大将軍となる

幕府成立を一つの語呂合わせだけで覚えず、1180→1183→1185→1192という段階的な形成として理解します。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1185年、源頼朝が守護・地頭を置く権限を朝廷から認められたことは鎌倉幕府形成の重要な節目
  • 守護は国単位の軍事・警察、地頭は荘園・公領の土地管理・年貢徴収を基本として区別する
  • 守護・地頭が置かれても国司・荘園領主・朝廷は存続し、幕府が従来制度を一度に置き換えたわけではない
  • 1185年の措置の具体的内容・設置範囲には研究上議論があり、完成制度が全国へ一斉配置されたと単純化しない
  • 幕府形成は1180・1183・1185・1192年など複数の節目で理解し、このサイトでは通史上の区切りとして1185年を採用する
  • 1192年は頼朝が征夷大将軍となった年で、武家政権がこの年にゼロから始まったわけではない

Check

理解度チェック

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    鎌倉幕府は1192年に頼朝が征夷大将軍となった日に、政治組織も支配権もゼロから一度に成立した。

  2. 問2

    1185年には、後世の完成形と同じ守護・地頭が全国すべてへ一斉に配置されたと確定している。

  3. 問3

    学習上、守護は国単位の軍事・警察、地頭は荘園・公領での土地管理や年貢徴収を担う役職として区別できる。

  4. 問4

    地頭に任じられた御家人は、その荘園の所有者となり、従来の荘園領主の権利は消滅した。

  5. 問5

    頼朝の武家政権が形成されても京都の朝廷は存続し、朝廷と鎌倉の武家政権が並存する構造が生まれた。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 朝廷が源頼朝の東国支配を認める
  2. 源頼朝が守護・地頭を置く権限を得る
  3. 源頼朝が守護・地頭を置く権限を得る
  4. 奥州合戦で奥州藤原氏が滅亡する
  5. 源頼朝が征夷大将軍となる

Sources

参考資料

  1. 鎌倉幕府の成立鎌倉市

    1180年から1192年までの幕府形成の段階、寿永二年十月宣旨、守護・地頭、征夷大将軍就任について参照。

  2. 鎌倉時代の成立と御家人制鎌倉市

    頼朝と御家人の主従関係、本領安堵・新恩給与、鎌倉政権の形成について参照。

  3. 鎌倉幕府はいつ成立したか国立国会図書館 レファレンス協同データベース

    1180・1183・1185・1190・1192年など複数の幕府成立説について参照。

  4. 地頭コトバンク

    地頭の成立過程と1185年の措置を単純化しないための補助資料として参照。