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平安時代1184〜1185年政治・外交重要度 A

一ノ谷・屋島・壇ノ浦―平氏はなぜ滅亡したのかいちのたに やしま だんのうら へいしはなぜめつぼうしたのか

一言でいうと

1183年に京都を離れた平氏は、その時点ではまだ滅亡していませんでした。安徳天皇を伴い、西国や瀬戸内海に残る軍事・海上交通の基盤を利用しながら抵抗を続けます。これに対して源頼朝は自ら西国へ出陣するのではなく、源範頼・源義経らを派遣して平氏を追討しました。1184年の一ノ谷、1185年の屋島によって平氏は陸上の主要拠点を次々に失い、最後は関門海峡の壇ノ浦で敗北します。平氏滅亡は義経の奇襲だけで説明せず、頼朝政権が軍を西へ送り、平氏の拠点・補給・地域勢力との結びつきを段階的に失わせた過程として理解します。

1183年の都落ちで平氏政権は終わったのか

まだ終わっていません。1183年、木曾義仲軍が京都へ迫ると、平氏一門は都を離れました。しかし平氏は安徳天皇あんとくてんのうを伴い、三種の神器も持ち出しました。

西国には平氏と結びついた武士や所領があり、瀬戸内海の海上交通にも平氏の基盤が残っていました。したがって1183年の都落ちは京都での支配を失った重要な転換ですが、平氏滅亡そのものではありません。

なぜ頼朝自身は平氏追討へ行かなかったのか

頼朝は鎌倉にとどまりました。1180年以来、頼朝にとって重要だったのは東国武士をまとめ、鎌倉を中心とする支配体制を維持することでした。そこで西国での軍事行動は、弟の源範頼みなもとののりよりや源義経みなもとのよしつねらに担当させます。

頼朝が政治的・軍事的な中心に立ち、範頼・義経らが現地で軍を率いるという役割分担が進んでいました。治承・寿永の内乱を義経個人が平氏を倒した戦争と考えないことが重要です。

1184年―まず木曾義仲が倒された

平氏を追う前に、頼朝側にはもう一つの問題がありました。1183年に京都へ入った木曾義仲が後白河法皇と対立し、政治の主導権を握っていたからです。

頼朝は範頼・義経を京都へ向かわせ、1184年1月に義仲軍を破りました。義仲は敗走して討死します。これによって京都では頼朝側の軍事的影響力が強まり、範頼・義経は続いて西へ逃れた平氏を追うことになります。

1184年―一ノ谷の戦いはどんな戦いだったのか

都落ちした平氏は一時勢力を立て直し、摂津国福原周辺まで進出していました。1184年2月、頼朝方の軍勢がこれを攻撃します。これが一ノ谷の戦いいちのたにのたたかいです。

範頼の軍勢は平氏陣営の東側へ進み、義経らも別方向から攻撃しました。戦いの結果、平氏は大敗し、一門の有力武将も多数戦死します。生き残った平氏一門は船で海上へ逃れました。一ノ谷の敗北によって、平氏が畿内へ戻り京都を奪回する可能性は大きく後退しました。

『鵯越の逆落とし』は本当にあったのか

『平家物語』では、義経が急な崖を馬で駆け下りて平氏軍の背後を襲う鵯越ひよどりごえの逆落としが、一ノ谷の名場面として描かれています。

ただし、義経軍が実際にどの経路を進んだのか、逆落としの場所をどこに比定するかには議論があります。大学受験では義経が山側から急襲したことで有名という程度を押さえ、物語の描写すべてを確定史実とは考えません。

一ノ谷で負けたのに、なぜ平氏はまだ戦えたのか

一ノ谷で敗北しても平氏には船がありました。平氏は長年、西国・瀬戸内海の地域勢力や海上交通と深く結びついていたため、陸上の拠点を失っても海上へ退却し、別の地域へ移動して抵抗を続けることができました。

平氏は讃岐国の屋島やしまを新たな重要拠点とし、さらに西には長門国彦島などの拠点も残っていました。平氏追討では、本隊を一度破るだけでなく、瀬戸内海各地の拠点と地域勢力とのつながりを失わせる必要がありました。

範頼は何をしていたのか

平氏追討では義経が非常に有名ですが、範頼の役割も重要です。範頼は大軍を率いて山陽道を西へ進み、平氏の西国での基盤を圧迫しました。

長距離の軍事行動では食料や兵船の確保が必要です。兵糧を確保し、地域の武士を味方につけ、平氏への支援を断つことも重要でした。範頼らの西国・九州方面への軍事活動と義経の瀬戸内海方面からの攻撃が重なることで、平氏は次第に逃げ場を失っていきます。

1185年―屋島の戦いでは何が起きたのか

1185年2月、義経は軍勢を率いて四国へ渡り、平氏の拠点である屋島を急襲しました。これが屋島の戦いやしまのたたかいです。

平氏側は船へ退き、その後屋島を放棄します。これによって平氏は四国の重要拠点を失い、さらに西へ追い込まれました。一ノ谷で畿内の拠点を失い、屋島で四国の拠点も失うという段階的な後退を押さえます。

那須与一の『扇の的』はどう理解するのか

屋島の戦いといえば、那須与一なすのよいちが海上の平氏の船に掲げられた扇を弓で射落とした話が有名です。これは『平家物語』を代表する名場面です。

ただし、扇の的の話を戦いの勝因として理解するものではありません。歴史上の戦いの骨格と文学作品の名場面を分け、屋島では義経軍の急襲によって平氏が拠点を失ったことを中心に押さえます。

なぜ最後は海戦になったのか

平氏は屋島を失った後、長門国の彦島などを拠点として抵抗を続けました。一方、頼朝側も瀬戸内海・九州方面の地域勢力を味方につけ、船を確保していきます。

平氏の大きな強みだった海上交通でも頼朝側が対抗できるようになり、両軍は関門海峡周辺で決戦を迎えます。それが1185年3月の壇ノ浦の戦いです。

1185年―壇ノ浦の戦いでは何が起きたのか

壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかいは、現在の山口県下関市と福岡県北九州市の間にある関門海峡周辺で行われた海戦です。平氏側には安徳天皇や一門の女性たちも同行していました。

戦いが進むと平氏側から離反する勢力が現れ、船を動かす水夫なども失われて戦況が悪化しました。やがて頼朝方の兵が平氏の船へ乗り込み、平氏軍は壊滅しました。潮流だけで勝敗を説明せず、地域勢力の動向、船の運用、兵力、離反など複数の要因を考えます。

安徳天皇はどうなったのか

敗北が決定的になると、平氏一門の多くが海へ身を投じました。幼い安徳天皇も、祖母である二位尼にいのあま・平時子に抱かれて入水し、亡くなりました。安徳天皇の母である建礼門院徳子は救出されます。

平宗盛らも捕らえられ、清盛の一族を中心として中央政界を支配した平氏政権は軍事的に崩壊しました。

三種の神器も海に沈んだのか

平氏は都落ちの際、安徳天皇とともに三種の神器を持ち出していました。壇ノ浦では神器も海へ入り、鏡と玉は回収された一方、剣は失われたと伝えられます。

三種の神器は天皇の正統性を象徴する存在です。平氏が天皇と神器を伴って西国へ移動したことは、治承・寿永の内乱が単なる武士同士の戦争ではなく、皇位や朝廷政治とも深く結びついた内乱だったことを示しています。

平氏はなぜ滅亡したのか

平氏滅亡を義経の天才的な奇襲だけで説明することはできません。1183年に京都を離れて中央政治の本拠を失い、一ノ谷で畿内への足場を失い、範頼らの西進によって中国・九州方面でも圧力を受け、屋島では四国の重要拠点も失いました。

さらに頼朝側が各地の武士や海上勢力を味方につけるにつれ、平氏の強みだった西国・瀬戸内海のネットワークも弱まり、最後に壇ノ浦で軍事力そのものが壊滅しました。京都の政治基盤 → 畿内の拠点 → 西国の支援・補給網 → 四国の拠点 → 海上での優位、という順に失った段階的な敗北として理解します。

平氏が滅亡したら鎌倉幕府が完成したのか

まだそう単純には言えません。1185年の壇ノ浦によって頼朝と対抗する最大の政治・軍事勢力だった平氏は滅亡しましたが、頼朝の権力と朝廷との関係、全国の武士をどう支配するかという問題は残っています。

同じ1185年、頼朝は朝廷から守護・地頭の設置につながる重要な権限を獲得します。したがって壇ノ浦=平氏滅亡と、鎌倉幕府の成立は同じ出来事ではありません。次に1185年に頼朝の支配がどのように全国へ広がったのかを見ます。

このページで覚えたい流れ

1183年、平氏が安徳天皇を伴って都落ちする → 平氏は西国・瀬戸内海を基盤に抵抗を続ける → 木曾義仲が後白河院と対立する → 1184年、範頼・義経が義仲を破る → 頼朝側が平氏追討を本格化する → 1184年、一ノ谷の戦い → 平氏が畿内の拠点を失って海上へ逃れる → 範頼らが山陽道・九州方面から平氏の基盤を圧迫する → 1185年、義経が屋島を攻める → 平氏が四国の拠点を失う → 頼朝側も瀬戸内海・九州の勢力を味方につける → 1185年3月、壇ノ浦の戦い → 平氏軍が壊滅する → 安徳天皇・二位尼らが入水する → 平氏政権が滅亡する → 1185年の守護・地頭へ

一ノ谷・屋島・壇ノ浦を義経の個人的武勇の連続としてではなく、頼朝政権が西国へ軍を送り、平氏の拠点・補給・地域勢力とのつながりを段階的に失わせた過程として理解します。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1184年、一ノ谷の戦いで範頼・義経ら頼朝方が平氏を破り、平氏は畿内の重要拠点を失った
  • 義経の鵯越の逆落としは『平家物語』で有名だが、実際の場所・経路には議論があり、物語の描写をすべて確定史実とはしない
  • 1185年、屋島の戦いで平氏は四国の重要拠点を失い、さらに西へ追い込まれた
  • 1185年、壇ノ浦の戦いで平氏軍が壊滅し、安徳天皇・二位尼らが入水した
  • 平氏滅亡は義経一人の活躍だけでなく、範頼らの西国での軍事活動、地域武士・海上勢力の動向、拠点・補給網の喪失を合わせて理解する
  • 壇ノ浦で平氏が滅亡したことと、鎌倉幕府が完成したことは同義ではなく、次の重要な段階が1185年の守護・地頭である

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    1183年に平氏が京都を離れた時点で、平氏の軍事力と政治的基盤は完全に失われた。

  2. 問2

    平氏滅亡は義経の奇襲だけでなく、範頼らの西進や地域勢力の動向、補給・拠点の喪失が重なった結果として理解する必要がある。

  3. 問3

    『平家物語』に描かれる鵯越の逆落としの経路と場所は、史料上完全に確定している。

  4. 問4

    壇ノ浦の勝敗は潮流だけで決まったため、地域勢力の離反や船の運用はほとんど関係しなかった。

  5. 問5

    1185年の壇ノ浦で平氏が滅亡したことと、鎌倉幕府の政治制度が完成したことは同じ出来事ではない。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 一ノ谷の戦いで源氏が平氏を破る
  2. 屋島の戦いで源氏が平氏を破る
  3. 壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する
  4. 平氏が都落ちする
  5. 朝廷が源頼朝の東国支配を認める

Sources

参考資料

  1. 平家物語―妖しくも美しき―国立公文書館

    治承・寿永の内乱、一ノ谷・屋島・壇ノ浦、安徳天皇入水などの流れを参照。

  2. 源平合戦と神戸神戸市

    一ノ谷の戦いと鵯越の逆落としの場所・経路に関する複数説の説明を参照。