南京占領前後の捕虜・民間人被害―日本軍の進撃と占領下で何が起こったのか
一言でいうと
1937年12月13日、日本軍は中国国民政府の首都だった南京を占領しました。占領前後には、捕虜・敗残兵とされた人びとや非戦闘員に対する殺害、略奪、性暴力などの被害が発生し、南京安全区に残った外国人や外交官も多くの事例を記録しました。日本政府も、日本軍の南京入城後に非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できないとの立場を示しています。一方、被害者の総数については、対象地域・期間・犠牲者の範囲や史料評価によって推計が異なり、日本政府は特定の数字を認定していません。南京事件を学ぶ際は、確認できる被害の存在と、被害総数をめぐる研究上の論点を分けて考えることが重要です。
上海戦のあと、日本軍はなぜ南京へ進撃したのか
1937年11月、第二次上海事変で中国軍が上海から撤退すると、日本軍は中国国民政府の首都・南京へ向けて進撃しました。日本政府や軍中央の戦争終結構想が一枚岩だったわけではありませんが、現地軍は軍事的勝利によって国民政府へ圧力を加えようとしました。
国民政府は南京防衛を決める一方、政府機能を内陸へ移していました。12月13日に日本軍が南京を占領しても、国民政府そのものは降伏せず、その後も抗戦を続けます。したがって南京占領は日中戦争の終結ではありませんでした。
このTopicでは、南京攻略の軍事作戦全体を詳述するのではなく、進撃・占領に伴って捕虜や民間人に何が起こったのかを中心に見ます。戦争拡大の政治過程は前のTopic、占領後も戦争が終わらなかった理由は次のTopicで扱います。
捕虜や敗残兵とされた人びとには何が起こったのか
南京陥落時、中国軍の一部は城外へ撤退しましたが、退路を断たれたり、軍服を脱いで市内へ紛れ込んだりした兵士もいました。日本軍は市内外で中国兵・敗残兵の摘出を行い、多数の人びとを拘束しました。
拘束された人びとの中には、正式な捕虜収容手続きを経ないまま集団で殺害された例がありました。戦闘中の死者と、武装解除・拘束後に殺害された人びとを区別することは、南京事件を理解するうえで重要です。
一方で、当時の市内には軍服を脱いだ兵士と一般市民が混在し、日本軍側がその識別を行ったことも史料に残っています。しかし、識別が困難だったことは、拘束後の殺害を自動的に正当化する理由にはなりません。個々の事例と史料を区別しながら検討する必要があります。
南京の民間人にはどのような被害が記録されたのか
南京には戦火を避けるため、多くの民間人が残っていました。外国人の宣教師・大学関係者・実業家らは南京安全区国際委員会をつくり、市内の一部を避難区域として難民の保護にあたりました。
日本軍の入城後、安全区やその周辺を含む市内では、民間人への殺害、略奪、放火、女性に対する強姦・性暴力などが繰り返し報告されました。アメリカ外交文書には、南京に残った外国人の報告として、無差別な射殺や略奪、女性への暴行が記録されています。
日本政府も現在、日本軍の南京入城後に非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないという立場を示しています。したがって、被害総数の推計に議論があることと、殺害・略奪などの被害が存在したことは別の問題です。
南京事件はどのような史料から確認されているのか
南京事件を検討する史料には、日本軍関係者の日記・戦闘詳報・命令文書、中国側の記録や被害者証言、南京安全区国際委員会の文書、外国人の日記、各国外交文書、埋葬記録、戦後裁判資料などがあります。どれか一種類の史料だけで事件全体を説明することはできません。
たとえば米国務省の外交文書には、南京に残った米国人や外国記者から寄せられた報告が収録され、1937年12月末から1938年1月にかけて殺害・略奪・性暴力が続いていたことを伝えています。南京安全区関係者の記録も、難民保護と同時に日本軍への抗議を残しています。
一方、それぞれの史料には作成者の立場、観察できた地域、作成時期、数字の重複などの限界があります。史料批判とは、都合の悪い史料を排除することではなく、複数の資料を突き合わせ、何がどこまで確認できるかを確かめる作業です。
被害者数をめぐる議論はどう捉えるべきか
南京事件の被害者総数には複数の推計があります。南京城内だけを数えるのか周辺地域を含めるのか、12月13日前後だけを見るのか数週間・数か月を対象にするのか、捕虜・敗残兵の殺害をどう分類するのかによって、集計範囲が変わります。
また、埋葬記録、人口統計、部隊記録、証言など各史料の評価方法によっても数字は変わります。日本政府は、被害者の具体的な人数について諸説があり、どれが正しい数かを認定することは困難だとしています。
そのため学習では、根拠の異なる数字を一つに決めつけない一方、『人数が確定していないから事件そのものも確認できない』とするのも適切ではありません。捕虜・非戦闘員への殺害、略奪、性暴力などが起こったことは、日本政府の見解や当時の複数の記録から確認できます。
南京事件では、被害の存在を確認する問題と、被害者総数を推計する問題を分けます。総数には研究上の議論がありますが、それを理由に、捕虜・民間人への殺害や略奪・性暴力などの記録を曖昧にしてはいけません。
Review
入試で押さえるポイント
- 1937年12月13日、日本軍が中国国民政府の首都南京を占領
- 南京占領前後、日本軍による捕虜・敗残兵とされた人びとや非戦闘員への殺害、略奪、性暴力などが発生
- 南京安全区国際委員会など南京に残った外国人が難民保護にあたり、多数の被害記録・抗議文書を残した
- 日本政府は南京入城後の非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないとの立場
- 被害者総数は対象地域・期間・犠牲者の定義や史料評価によって推計が異なり、日本政府は特定の数を認定していない
- 被害総数をめぐる議論と、殺害・略奪などの被害が発生したことの確認は分けて理解する
Check
理解度チェック
各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。
0 / 5 問回答
- 問1
1937年12月に日本軍が南京を占領すると、中国国民政府は降伏し、日中戦争はそこで終結した。
国民政府は政府機能を内陸へ移し、南京占領後も抗戦を続けました。南京占領は日中戦争の終結を意味しません。
本文の該当箇所を確認する - 問2
南京事件を考える際には、戦闘中の死者と、武装解除・拘束された後に殺害された人びとを区別する必要がある。
拘束された中国兵・敗残兵とされた人びとの中には、正式な捕虜収容手続きを経ないまま集団で殺害された例が確認されています。
本文の該当箇所を確認する - 問3
南京入城後の民間人への殺害や略奪、性暴力などは外国人の記録にも残され、日本政府も非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないとの立場を示している。
南京安全区関係者や各国外交文書などに被害が記録され、日本政府も非戦闘員の殺害や略奪行為等を否定できないとしています。
本文の該当箇所を確認する - 問4
南京事件の史料批判とは、立場や数字が異なる史料を信頼できないものとして除外し、一種類の資料だけで事件を判断することである。
史料批判は、作成者の立場や観察範囲などの限界を確認しながら、複数の資料を突き合わせて何がどこまで確認できるかを検討する作業です。
本文の該当箇所を確認する - 問5
南京事件の被害者総数に複数の推計があるため、捕虜や民間人への殺害・略奪などの被害が起こったこと自体も確認できない。
総数は対象範囲や史料評価によって推計が異なりますが、殺害・略奪・性暴力などの被害の存在は複数の同時代記録や日本政府の見解から確認できます。
本文の該当箇所を確認する
Result
0 / 5 問正解
間違えた問題は解説と本文を確認してから、もう一度解いてみてください。
Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
参考資料
- 歴史問題Q&A 問6 『南京事件』に対して、日本政府はどのように考えていますか外務省
南京入城後の非戦闘員の殺害・略奪行為等を否定できないとの政府見解と、被害者数について特定の数字を認定していないことを確認
- Foreign Relations of the United States, 1937, The Far East, Volume IV, Document 515U.S. Department of State, Office of the Historian
1937年12月の南京占領後に外国人が報告した略奪・射殺・殺害など同時代外交記録を確認
- Foreign Relations of the United States, 1938, The Far East, Volume III, Document 53U.S. Department of State, Office of the Historian
南京安全区での強姦・殺害・略奪について米国外交官が収集した同時代記録を確認
- 南京事件資料集 2国立国会図書館サーチ
南京事件に関する多様な史料群の存在と史料検討の基盤を確認
- 金大安全区―南京安全区国際委員会関係資料南京大学档案馆
南京安全区の設置、難民収容所と外国人委員会による救済活動を確認
